2012年12月28日金曜日

OCEB講座 第20回 Why BPM ? 3


 昔読んだ随筆の一節ですが、アメリカの大学で政治史を教えているある先生が「今」が「昔」になった瞬間について次のように書かれていました。

『「今」の連続がいつの時点で昔となり歴史学の対象になるかは教師の間でも時々議論になるが、大学の教師として「今」が「昔」になったと感じる瞬間は、例えば第二次世界大戦は我々の世代では「今」の問題だが、新入学の学生達の大部分が戦後生まれだと気づいた瞬間に、一挙に時が流れ去って行ったことを感じる。』
(注: 記憶が曖昧で、大体このような文書だと思います。)

20年間前後を子供や学生として過ごし、ある程度共通の教育や時代を過ごし新たに社会人となった集団にある一定の共通性を見いだすことは、よくあることです。
筆者が学校を出た頃は、どこかの週刊誌が毎年、今年の新入社員は「〇〇世代」だと命名していて、筆者の世代は確か「新人類世代」と名付けられましたが、時は流れ、今現在、我々の世代がその共通性を維持しているか?と言うとかなり疑問です。
子供時代、学生時代よりも既に長い年月の職業経験を経た今、学生時代の共通体験よりも、それぞれの職業体験の特徴の方が遥かに前面に出ています。
筆者の学生時代の友人の中にも、日本の企業に長年務めている者、何をしてるのかよくわからないが東南アジアに住み着いている者、役人になった者、山小屋をやっている者、外資系でジョブホッパーをしている者(筆者を含む)等々、人それぞれ様々なタイプがいますが、学生時代に見られた共通性よりも学校卒業以降の職業時代の影響が強く、考え方、物の見方もかなりバラバラです。
では、世代的な共通性が皆無かと言うとそうでもなく、昔週刊誌がやっていたような1年単位の世代差は意味がありませんが、前後10年ぐらいの幅で職業人として同じ時代を共有したと言う点で、ある程度の(大局的な、あるいは大雑把な)共通性があるように思えます。

 (続く)

2012年12月19日水曜日

OCEB講座 第19回 Why BPM? 2

鎌倉は住民の歴史的景観に対する保護意識が強く高層マンションなど高い建物が建てられません。
ところが面白いことに電柱は建て放題で、カメラをどこに向けても電柱や送電線が画面を横切ります。
また、電線や土管を埋めたりするために、道路をしょっちゅう掘り返しています(これは、景観とはあまり関係ない問題で、鎌倉だけの問題ではありませんが)。

筆者はこのブログで何度か触れたように、昔ネットワーク関係の仕事に従事していたことがあり、職業柄ライフラインには結構興味がある方です。
ご存知の通り、通信回線はライフラインとしては一番の新参者であり、先行のライフラインである道路、水道、鉄道、電力線などに、できるだけ沿って敷くのが通例です。
そして、その敷設の仕方は国や地域によってかなり特徴が出ます。
筆者が昔勤めていた電話会社は、アメリカのテキサス州の油田間に張り巡らされた石油パイプラインに沿って電線を敷いて急成長を遂げたベンチャー系通信会社が母体でした。
また、90年代にヨーロッパやアメリカの都市部に光ファイバー網(いわゆる、MAN = メトロポリタン・エリア・ネットワーク)を敷設することで急成長したベンチャー企業に関与していたこともあります。 
周知の通り、ヨーロッパの都市は1000年以上前からずっと都市だった場所が多く、ちょっと掘ると必ず何か埋蔵物が出て来るような場所柄ですが、だからといって電信柱を建てて電線を空中にはわせるのではなく、通信回線は電力線と同様に基本は地下に敷設していました。
そして、このベンチャー企業は新規の掘削をできるだけ少なくするために最大限、都市には必ずある”もの”を利用していました。
そのある"もの”とは、都市を象徴する巨大な建造物であり・・・と書くと、何かクイズ番組のようになってしまいましたが、答えは下水道網です。
有名な例では、パリには全長2100Kmにもわたる壮大な下水道網が存在し、その地下空間を下水だけでなく、上水道管を通し、また都市ガス網、通信網、電力網として利用させています。これらの利用料はパリの水道事業の収益金となっています。
(こういう社会インフラが利用できたので、資金力の乏しいベンチャー企業でも通信網を自前で敷くことができたとも言えます。)

下水道に関する古い例では、古代ローマでは既に紀元前700年頃には下水道があったと言われており、一説には古代メソポタミア文明の都市遺跡には紀元前2500年前の下水道跡が見られると言われています。
文明と都市の発生は分離不可分の関係にあり、そして都市と下水道とはきわめて密接な関係があり、 従って、文明とは下水道を流れる”し尿”のようなものです。

冗談はさておき、日本では江戸時代までは下水道はほとんど発達してきませんでした。
日本最大の都市であった江戸でも上水道やゴミ処理の問題は当時大きな都市問題になっていましたが、下水道はほとんど話題になっていません。
きっと発生した”し尿”は人肥として農村へ還流したり自然へ投棄したりして何とかなっていたのでしょう。
これは多分、当時の江戸の都市化の速度が緩やかだったおかげだと思います。
 人肥の利用はヨーロッパでも行なわれていましたが、都市化の波が急速でそれだけでは処理が到底追いつかず、下水道が未発達だった頃のパリのおしゃれな街角が実は糞尿だらけだったと言う話は日本でもよく知られています。

続く


2012年12月6日木曜日

OCEB講座 第18回 Why BPM? 1 官僚主義

彫刻の森 秋
先日、紅葉を見に箱根まで行って来ました。
もともと家を出た時点では丹沢の大山へ行くつもりで、山麓の伊勢原駅まで行ったのですが、大山へ向かうバス待ちの列があまりに長く、また全く進まないのに嫌気を来たし、箱根湯本まで転進しました。
そして、登山列車(箱根湯本ー強羅間)に乗り換えようとしたのですが、ここもすごい長蛇の列で、あきらめて家に帰ろうかと思ったのですが、ぐっとこらえ30分ほど待っていると一挙に列が進みあっけなく登山列車に乗ることが出来ました。

<Why BPM? 1 >

本日はなぜBPMをやるのか?と言う点を議論したいと思います。
というのも、BPMを従来のワークフロー・マネジメントと同じもの、あるいはその延長線上のものと思いこんでいたり、あるいは実際にBPMNでモデリングを行なっていても、間違った思い込みのもとに運用を行なう例が筆者のまわりでもかなり見受けられるからです。

官僚主義

現代の日本の大組織を官僚主義の大波が襲っていることは明らかでしょう。
官僚主義の典型的な症候である規則や手続きの万能主義、日常的な仕事量の増大傾向(仕事があるから人が増えるのではなく、人がいるから仕事が増える等)、責任の所在の不明確化、事なかれ主義、前例主義、セクショナリズム・・・等々、揚げ始めたらキリがありません。
大組織に所属していながら気づかない人は、一度、箱根で静養した方が良いかもしれません、と言いたいところですが、 残念なことに、と言うべきか驚くべきことにと言うべきか、多くの人々に取っては、官僚主義はすでに空気のような存在になってしまっています。


続く




2012年10月21日日曜日

OCEB講座 第17回 BMM

  前回話題に出たM君が青春時代を過ごした「知が好き市」(仮名)へ行ってきました。
そのついでに温泉にも浸かって来ました。

左の写真は旧相模川にかかっていた旧馬入橋の橋脚で、源頼朝公が無くなる直前にその橋の落成式に訪れたと記録されています。
これらの橋脚は大正時代の関東大震災のおりに水田の中から突如地表に現れ出て来たそうです。

この場所は、数百年の間に流路が変わってしまい現在では川ではなく陸地となってしまい、相模川の本流とは1〜2キロ離れています。(写真の水風景はプールで、橋そのものはこのプールの真下に水中保存されており、地上に出ている橋脚はレプリカです。)

しかし面白いことに、遺構は現在の国道1号線 ー 昔の東海道 ー のすぐ脇にあり、鎌倉から西へ向かう湘南の街道筋は当時から(川筋が大きく変わってしまったにもかかわらず)ほとんど変わっていないことを暗示しています。
つまり、古代から、川筋は変わって行ってもこの辺りの旧東海道の道筋はほとんど変わらず、橋や渡渉地点が変わるだけと言うこの街道の性質を密かに示しているように思われます。

 話はちょっと変わりますが、筆者の母方の祖父は今から40年ほど前 ー筆者が子供だった頃ー に亡くなりましたが、最近になって彼が晩年に書いた回顧録がまとめられ 製本されて親戚や知人に送られて来ました。
死後40年経ってようやく日の目を見たわけですが、これは長い間彼の回顧録の所在がわからなくなってしまっていたためで、なんでも、伯父夫婦が家の改築をするために片付けをしていたところ使っていない古いピアノの中からその原稿が出て来たそうです。
祖父は明治21年に九州の山村に生まれそこで一生の大半を過ごしましたが、その土地を知る者にとっては彼の回顧録はたいへん興味深いものです。
明治になって数十年経っても田舎はほとんど江戸時代のままの生活で、電灯が引かれたのはかなり後の時代です。
 回顧録の一節に彼の親の世代から伝え聞いた江戸時代の道に関する記述があります。
江戸時代の山村の暮らしは不便きわまりなく、どこに行くにも川を渡ったり峠を越えたりする必要があり、街灯など当然なく提灯や松明を持って、すべて徒歩で行き来していたそうです。
また峠をいくつか越えた先に温泉があるのですが、藩が異なり通貨が違うために藩境の手前にある村の庄屋の所へ立ち寄って両替をしなければなりませんでした。
特に大変なのが川で、川を超えて隣の村に行って帰って来るだけで一日仕事でした。
川には渡し舟がありましたが、不定期でいつ舟が現れるか分からず、また舟が来て乗り込んだ所で乗客が十分揃うまで出発せず、随分とのんびりしたものでした。
今だと車で10分もかからぬ程度の距離ですから、今昔の隔たりは想像以上です。
また山村では、江戸時代の主な道筋は今の幹線と随分と異なる部分があり、山中の峠越えの道が中心で、大名行列も山道を進んでいました。
これは渡渉の煩いを厭い、川沿いの狭く崩れやすい道を避けた結果と言えます。
かつて大名行列が歩いた山中の街道は今ではほとんど誰も歩かず、知る人ぞ知ると言うような存在になってしまいました。
 明治になって川に橋が架かったとき、村中がお祭り騒ぎだったと言うのも不思議ではありません。

鎌倉時代に相模川に橋が架けられたとき、 当時の鎌倉の人々の喜びが大変なものであった事は想像に難くありません。
頼朝公がわざわざ落成式に赴いた事も、当時橋の完成がいかに重大な出来事であったかを物語っています。

BMM

今までBMMの概念図を何度も表示して来ましたが、再度掲示します。「End」が目的概念
BMM図
で、「Means」は手段の概念です。
そして、「Vision」に対して「Mission」、「Goal」にたいして「Strategy」、「Objective」に対して「Tactics」がそれぞれ対応する事はご理解されていると思います。
今回は、この絵をより正確に理解するために、次に「End」のUML図を示します。
下の「End図」を参照してください。












End図
本日は、「ビジョン」と他の二つの目的概念「ゴールとオブジェクティブ」が別々のカテゴリーに分けられている事に着目してみましょう。

一つの企業にとってビジョンはトップのレベルにあるものが唯一ですが、ゴールとオブジェクティブは階層的、あるいは部門別にいくつも存在します。
左図の「Desired_Result」の再帰関連(composed_ofとpart_ofの関連端名が付けられた自分自身に戻る関連) が、その事を示しています。

より具体的に言うと、企業のビジョンはトップの経営者しか決める事が出来ない専権項目なのに対し、ゴールとオブジェクティブは、開発部門あるいは 営業部門と言った個々の部門別、あるいは階層別に決めて行くが出来ます(あるいは決める必要があります。)

このことは対応する手段側にも同様に言えて、企業レベルの戦略から部門レベルの戦略まで詳細化、細分化する事になります。







2012年9月12日水曜日

OCEB講座 第16回 BMM

高徳院
この夏はどこにも遠出せず近場を廻るだけで終始してしまいました。
旅行は嫌いな方ではなかったのですが、旅行の定義が筆者の中で大きく変わって来た結果と言えます。
格好よく言えば、空間的旅行から時間的旅行への変化、ー つまり鎌倉時代を旅するようになってしまいました。

鎌倉生まれのM君によると、鎌倉には昔から鎌倉七不思議と言うものがあるそうですが、その内容は人によってかなり違います。
 ちなみに、彼自身の七不思議の筆頭は、「鎌倉の大仏は誰が建てたか? 」と言うものだそうです。

 そして、筆者にとっての鎌倉の最大の謎は?と言うと、何と言っても「源頼朝公の死因」を挙げたいと思います。
彼の死の前後数年の公的記録がほとんどなく、暗殺説もささやかれています。
しかしながら、これはM君にとっては謎でも何でもなく、こんな事を云々するのは、君子らしからぬ”下種の詮索”であると断じます。


過日、その頼朝公が死の数日前に落馬したと言う伝説のある鎌倉近郊の某市へM君を誘ったことがありました。
何でも、落馬したと伝えられる旧相模川の橋のそばには温泉もあると聞きました。
M君は大の温泉好きであり場所もさほど遠くないので、当然行くだろうと思って誘ったのですが、意外にも断固とした態度で断ってきました。

M君は鎌倉で生まれ、鎌倉市内最古の小学校、中学を経て、鎌倉の名門、鎌倉高校へ入学しましたが、高校の1年生のとき、彼の家は、その敬愛してやまない鎌倉から(彼いわく格下の)その某市へ引っ越してしまったそうです。
 そのショックはあまりにも大きく、M君はヤンキーになってしまいました。
(注: アメリカ人になったわけではありません。 )
それ以来、その某市 ー ここでは「血が好き市」と仮名で表示 ー は、彼にとっては暗黒時代を思い出させる嫌な場所になってしまい、「血が好き」と言う地名を聞いただけで、思わず拒絶反応が出てしまい、普段温厚な彼も血が頭にのぼってしまうそうです。

筆者は、とんだ所で、M君の禁忌肢を踏んでしまったようです。

BMM

BMM(ビジネス・モチベーション・モデル)の特徴の一つは、目的(What)と手段(How)を完全に分離している事です。

ビジネスを考える上で、ー どのように考えるかは人の勝手と言えば勝手ですが ー、往々にして目的の話をしているつもりが手段の話になったり、あるいはその逆の状況、いわゆる目的と手段の混同、が間々起こります。

この混同は、組織が大きくなればなるほどその弊害が大きい事が知られています。
また、上位のレベルでは単なる手段であったものが、下位の組織レベルでは、その手段そのものが目的となる現象もよく起こります。

BMMでは、目的概念に属するものを総称して”End"と言い、手段の概念に属するものの総称を”Means”と呼びます。

このブログでは、OCEBの試験範囲を超えてしまいますが、モデリングの観点からこの概念を解説して行きたいと思います( 注: OCEBでは、UML図は直接は出題されませんのでご安心ください。説明のための背景情報として解説したいと思います。)




2012年9月6日木曜日

OCSMP受験コース 開始!

OCSMP受験対策コース 開始!


OCSMP
 システムモデリングの入門レベルであるOCSMPモデルユーザー資格試験の受験対策講座を開始します。
年内の2コースに関しましては、特別価格3万円(消費税別。2日間の講義、E-ラーニングへのアクセス権を含む。)でご提供致します。


期日: ① 10月29〜30日  ② 12月6〜7日
    (①10月29日開始の部は、定員到達のため、募集終了となりました。②のみ募集中です。9月28日 事務局。

内容: 2日間の講義(グループ演習を含む)およびE-ラーニング(模擬試験形式)
価格: 特別価格 3万円(消費税別)

申込み方法等、詳しい内容につきましては、こちらをご参照ください。


参照: OCSMP資格試験とは?


トレーニング事務局




2012年8月8日水曜日

OCSMP システム・モデリング資格試験の発表

 OMGでは、INCOSEと共同で OCSMP(OMG Certified Systems Modeling Professional)の資格試験を開発し、既に北米、欧州では実施しておりますが、日本やアジア地区では諸般の事情から未発表でした。

このたび、ようやく条件が整いOCSMPをリリースすべく、その準備に当たっております。
詳細については、来る8月24日のIPA主催セミナーで説明する予定です。

IPAセミナー  http://sec.ipa.go.jp/seminar/2012/20120824_2.html

(プレス関係の方は、UTIの試験事務局に直接お問い合わせください)

昨今は、英語でのエンジニアリング・ワークが求められる事が多く、また個人的に、若い人に対し、例え勤め先が国内企業であっても、ある日突然外資系になるかもしれず(そう人は、筆者の知人にも結構います)、英語での技術コミュニケーションが必須である事をことあるごとに言っております。
また、モデリング言語でのコミュニケーションの重要度も年々上昇しています。

ご興味ある方は、ぜひご参加ください。



2012年7月20日金曜日

モデリングとシステム工学


1980年のころ筆者が初めてアメリカに行った時は、「やけに老人が多い社会だな」 と思いましたが、最近の日本は全人口中の老人の比率でアメリカを抜いたそうです(アメリカの老人比率は、当時から今に至るまでほぼ横ばいです)。
 20歳の頃の筆者が今の日本に現れたら当時と同じく「やけに老人が多い社会だな」と思ったに違いありません。
これと似たようなデジャヴ(既視感)を、筆者はごく最近、体験しました。
昨年、鎌倉に越して来たのですが、老人の比率がやけに高いのです。
住民の老人比率が全国平均を大きく上回る上に、観光客の年齢層が輪を掛けて全体に高いため、老人の渦巻く日中の鎌倉市街では、筆者などはまだまだ若者の部類です。
日本が突入するであろう2〜30年後の老齢化社会に、一足早く踏み入れている状況と言えます。
鎌倉生まれのM君によると、この鎌倉の老人の多さは今に始まった話ではなく、彼が知る範囲で相当大昔からこのような状態だったそうです。
老人と言っても、しかしながら、気が若く元気な人が多い点は、鎌倉の美点と言っていいでしょう。
こちらに越して来て間もない頃、駅裏のスーパーの駐車場でぼーっとしていた所、真っ赤なスーツ姿の老婆があふれんばかりの白髪を振り乱しながら真っ赤なツーシーター(2人乗りのスポーツカー)から現れた時は正直驚きました。
てっきり、鎌倉山に棲むと言う伝説の山姥が里に下りて来たのだと思いました( (;゚Д゚) )。


デジャヴ

筆者は、学校その他でSysMLを人に教え、そしてシステム・モデリングの演習中によく出くわす光景があります。
システムのモデル図をツールを使って描こうとする時、SysMLの特性から、一カ所を変更しようとすると関連する他の図まですべて自動的に変更されてしまうため、初学者の人は、なかなか思い描く通りの図が描けず四苦八苦してしまいます。
 こちらを直せば、あちらがおかしくなる、と言う具合に悪戦苦闘する姿は、システム・モデリングの通過儀礼、バンジージャンプのようなものと言えます。
  • SysMLと言っても、言語的にはUML図を書いているので、この分野で活躍したいと考える若い方には、UMLも勉強する事をお勧めします。けっして、遠回りにはならないと思います。上級のモデリングには、OCUPインターミディエート程度の知識は必須です。また、システムが大規模化、複雑化するにつれて、ソフトウェアへの依存度が急速に高まって来る事が多く、ソフトウェア畑出身でないシステム設計者にとってもソフトウェア工学の知識は重要です。
 これだけであれば大した問題ではないのですが、本当の問題はその次です: こうして苦労して描き上げたモデル図群を見て、システム・エンジニアリングした気になってしまう事です。
実は、システム・エンジニアリングしているどころか、始まりもしていません。
MBSEは、モデル・ベースのシステム・エンジニアリングの略であり、 モデル図をもとにシステム・エンジニアリングを行なう事であって、モデリングはその前提技術です。

表題にデジャヴと大きく掲げたのはこの問題で、UMLを使ったソフトウェアのモデリングでも、そっくり同じ現象が発生します。
つまり、モデリングした時点でソフトウェア・エンジニアリングをした気になってしまうのです。
モデリングを元にソフトウェア・エンジニアリングの観点から分析を行なう事が主題のはずが、それを飛ばしていきなり実装に移ってしまいます。

これは、時々友人にも話すのですが、MDA(モデル駆動型アーキテクチャ)という言葉自身にも原因の一端があるのではないかと思います(特に実装志向の強い日本の環境下では。 歴史的には、モデリングは実装ではなく、問題の分析、ソリューションの設計のために発達して来た技術です。)

むしろ、MBSEと同じように、モデル・ベースのアーキテクチャあるいはモデル・ベースのソフトウェア・エンジニアリングと言った方が誤解がないと思います。
モデル・ベースのアーキテクチャがあれば、モデル・ベースでないアーキテクチャもあるわけで、どちらを選ぶべきかは、良し悪しの問題ではなく、向き不向きの問題です。



2012年7月5日木曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 9

京都風の庭
筆者の友人のM君は、鎌倉生まれ、鎌倉育ちの人です。
先祖も鎌倉に古くから住んでいたそうで、彼の母方の家の方は有名な鎌倉権五郎景政の一族のようです。
そのM君に、「鎌倉にも京風の庭を持つ寺がありますよ」と聞いて訪れたのが左の写真の長寿寺です。
なんでも、「足利尊氏さんの屋敷跡」だそうです。


前回、日本のアプローチが分析的、分解的だと書きました。
これは、日米のシステム設計のやりかたを見れば、違いは一目瞭然です。
ATM(自動預金支払機)の例で見てみたいと思います。
今は少し変わりましたが、アメリカの空港や銀行では、故障中と表示されたATMがかなり多く並んでる時がありました。
そして、故障したATMは、修理もせず何日も放置されています。
知人の日本人技術者は、その光景を見て、「アメリカのATMの開発者たちは、こんな光景を恥ずかしいと感じないんだろうか?」と首をひねっていましたが、当のアメリカ人たちは、使えるATMがあるうちは気にしていないようです。
アメリカのアプローチは、ATMユーザーの使用頻度、ATMの故障発生率、修理に廻る技術者の可用性やコストなどを勘案して、必要なATMの台数を計算し、各拠点に配備するやり方です。
一方日本は、高品質高性能なATMを少数配備するやり方です。
筆者も時々経験する事ですが、日本ではかなり昔から、時々、銀行のATMを待つ人の列が延々続く事があり、待ちきれずに引き落としを断念する事もあります。
アメリカ人から見れば、「こんな低品質なサービスを放置し続けて、銀行の経営者たちは恥ずかしいと思わないんだろうか?」となるかも知れません。

これは、国民性の違いや制度上の問題もあって、一概にどちらが良いとは簡単には言えない問題ですが、アプローチの違いは明解です。

また製品開発においても同様で、品質の問題を分解的に解決しようとする傾向が強く、その結果、日本製の部品は、ソフトウェアを除けば世界で最も優れた品質にある事は間違いないでしょう。(ソフトウェアの品質は、その定義をどこまで拡げるかによって変わってきますので、一概には言えません。)

これは、組織のマネジメントにも同様な傾向が見られます。

筆者は昔、20代の頃アメリカのIBMの研究所に勤務していた時期がありますが、その時の同僚にDさんと言う人がおりました。
同僚と言ってもDさんは当時60歳前後で、筆者とは親子以上に年齢が離れておりましたが、非常に親切な方で色々と大変お世話になりました。
そのDさんは、会社でもかなりの変わり者に分類されていました。
まず、大変な大金持ちで、会社をいくつも持ち、広大な敷地の大学も所有しながら、IBMでずっとSE(システムズ・エンジニア)をやっていました。
SEとしてもかなり優秀な方で(社内での格付けも最高になってたと思います)、多くの社内論文を書き、若い技術者からも尊敬の目で見られ人望も高い方でしたが、会社からのライン・マネージャー(管理職)にならないか?と言う打診に対しては常に断り続けて来ました。

ここで社内論文と書きましたが、一般にシステムズ・エンジニアリング(システム工学)関係の論文は、機密区分が高く、社外秘になる場合がよくあります。
こういった扱いは、別にIBMに限った事ではなく、システムズ・エンジニアリング関係の会社にはよく見られるパターンですが、IBMの場合はそう言った機密区分の高い論文や報告書を集めた専門の社内論文誌や社内書籍も発行されていました。

彼は、大金持ちでしたが、別に親の遺産があったわけではなく、若い頃はかなり貧しい暮らしをしていたそうです。
小さな頃からアルバイトをして生計を助け、高校時代はバーテンダーの仕事で学費を稼いでいたそうです。
一度彼の豪邸でカクテルをご馳走になった事があり、シェイカーさばきもなかなか美事なものでしたが、ご本人は、しかしながらアルコールをほとんど口にしなかった事が印象に残っています(敬虔なクリスチャンでした)。
Dさんは通常よりも長く兵役に就き、そして除隊後に軍から得た奨学金で大学を卒業しました。

そんな彼に、20代の筆者は、なぜラインマネージャーにならなかったのか訊いてみた事があります。
彼は、「自分にはマネジメントの能力がない」と答えました。
「では、なぜ、マネジメント能力がないのに、会社や大学の経営が出来るのか?」とさらに訊いてみると、彼は「自分は経営にほとんど関わっていない。自分に何か少しでも才能があるとすると、それはマネジメントの才能を発見する事かも知れない。」と静かに答えました。

彼は、良いマネジメントについてこう解説して(聡して)くれました。
100人の人間を集めて100人分の仕事をさせるのは凡庸なマネジメントであり、単なる搾取者である。
100人の人間を集めて150人分、200人分、場合によっては500人分の価値を生み出すのが真のマネジメントであり、逆に80人分のアウトプットしか出せないのは無能なマネジメントである、と。

低品質なATM機を使いながらハイ・アベラビリティ・サービスを提供したり、平均故障間隔の短い構成要素を使いながら、巧みな組み合わせや定期的な部品の交換、保守作業、事後対策などを工夫する事により、高い安全性を達成するのがシステムズ・エンジニアリングの醍醐味と言えます。

さて、優秀な人材を抱え、優れた技術、潤沢な資産を持ちながら80パーセントの結果しか出せない経営者は、まだご愛嬌の部類です。
自覚と才能があれば、今後の発展の可能性があります。

最悪なマネジメントは、全体感や統合感のないタイプで、IT分野でもたまにいますが、安全や品質のための多重化や多段化の冗長性が無駄の宝庫に映り、コスト削減の格好の狩猟場にしてしまい、己のわずかな手柄のために、安全性や品質を劇的に劣化させてしまう範疇です。
管見では、このタイプは類は友を呼びやすく、集団でかかってきますのでタチが悪いことこの上なしです。



Dさんに、当時のIBMの経営陣はどう思うか訊いた事があります。
彼の反応は先見性に富み大変興味深いものでしたが、今となっては言わぬが花でしょう。

2012年7月2日月曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 8

定泉寺の紫陽花
紫陽花の季節がやってきました。
紫陽花と言うと、筆者がすぐに思い出す和歌があります。
小野小町の、
花の色は 移りにけりな いたずらに
我が身よにふる ながめせしまに

と言う古今集の歌ですが、百人一首にも含まれ、読者の方々にも馴染み深い歌だと思います。
この歌は、教科書的には、花は桜を意味し、花を自分の容姿にたとえ、「ぼーっとむなしく物思いに耽っているうちに、すっかりおばさんになってしまったわ。」という女性の嘆き風に解釈されています。

 筆者は高校時代よりこの解釈が気に入らず、今から20年以上前に、わざわざ自説を述べるために「小野小町研究」というサイトを立ち上げたほどです。
当時はまだインターネットの黎明期でネットワーク機器は大変高価でしたが、幸い筆者はシリコンバレーのネットワーク・ベンチャーに勤務していたので、機器をそろえることだけは簡単に(廉価に)出来ました。
まだグーグルなどの検索サービスもなく、仲間内だけが見に来るサイトでしたが、なかなか結構好評でした(自己満足です)。

さてこの歌の意味ですが、筆者は花を桜ではなく紫陽花と解釈します。
そして、「花の色が移る」ことで、相手の心変わりを暗示し、「私がむなしく物思いに沈んでいる間に、あなたは簡単に心変わりしたのね」と相手を軽く批難する意味になります。
つまり、相手が調子に乗らないように、わざとネガティブなフィードバックを行なって(負帰還をかけて)、「僕のどこがいけなかったんだろう?」と反省を促し、相手の心をコントロールているわけです。

論拠としては、植物や気象の性質、そして美学上の問題があります。
まず、桜と言う花は、色が移る(衰える)よりも前に散ってしまう花、最も美しい盛りに散ってしまう花であり、おばさんを喩えるには不向きです。
また、「ながめ」は「眺む(物思いに耽る)」と「長雨」を掛けた言葉と解釈されますが、桜の花の季節は天候が荒れやすく、長雨というおとなしい降り方ではなく嵐になりやすいことは皆様よくご存知だと思います。
長雨は桜に似合いません。合うとすれば梅雨の紫陽花の方でしょう。
 さらに、古来、女性の美しさは、よく花に喩えられますが、自分で喩えてしまっては(強い女性を好む一部の男を除き)興ざめです。
これは平安時代の女性たちが持っていた’女の美学’にも反します。
そしてまた、筆者の解釈の方が「いたずらに」という言葉がより生きてきます。
「いたずらに」は前半の相手の簡単な心変わりをなじるユーモラスな意味と、後半のむなしい無常観の表現の両方にかかっています。

恐らく、小町の花を桜と誤って解釈した背景には、古今集編纂の頃のフォーマリズム(形式主義)を尊ぶ気風があったと思います(今に続く、花を条件反射的に桜に分類してしまう習性)。

心を花に喩える類例は、小町の他の歌にもあります。

見えで うつろふものは 世の中の 人の心の 花にぞありける



前回は、抽象思考、システム思考の問題の話をしましたが、その続きです。

原発事故から一年以上経った今、原子力発電所システムそのもののチェックだけは行い、メルトダウン等の重大事故後の社会システム的な体制づくりは行なっていないようですが、これはある意味、非常に日本的な対応と言えます。
一言で言えば、アプローチが非常に分析的、分解的です。
「今回の事故の原因は、原子力発電所の脆弱性にあった。従って、発電所の堅牢性を上げよう。」と言うアプローチです。
このアプローチは、規模の小さいもの、安全性に対する影響が小さいものに対しては有効ですが、複雑度が高い、あるいは影響度が巨大なシステムに対しては不十分です。

簡単な例をあげて考えてみましょう。
平均故障間隔(MTBF)あるいは平均故障時間(MTTF)と言う言葉があります。
これは、どのぐらいの間隔で故障が発生するかを示す指標で、仮に平均故障間隔が100年と言うと、100年に一回の割で故障が発生する事を意味します。
一般的に言って、構造が簡単で熱や力の作用を受けないもの、例えば半導体回路などでは、長期の平均故障間隔、例えば100年以上、を達成する事は比較的容易ですが、モーターなどのように動きがあったり、ソフトウェアのように構造が複雑なものは、平均故障間隔をのばす事は極めて困難になって来ます。
一般的に言って、平均故障間隔 100年の機械を、単体で1000年にのばすには多大なコストと時間がかかります。
しかし、これを二重化すると 話はがらっと変わってきます。
平均故障間隔100年の2つの装置が同時に壊れない限り安全とし、壊れた装置の取り替えに1日を要するシステムを考えます。
すると、1年間で2つの装置が同時に壊れる確率は、
となり、平均故障間隔はこの逆数ですから365万年 ー つまり365万年に一度だけ2つ同時に壊れる事となります(簡略化のために他の因子を無視しています)。
実際のシステムは、もっと複雑なのでこれほど単純には伸びませんが、多重化、多段化の威力はお分かりになったかと思います。

設計時の平均故障間隔と言う観点で見れば、日本の原発は1000年に満たない短いものであった事は、このブログの1回目に指摘したとおりですが、その上、後段つまり事故発生後の対策が全く準備されていないと言うものでした。

巨大システムでは、品質や安全は分析的手法では不十分で、統合的、つまり品質や安全を作り上げて行く手法が必要となって行きます。

先に、原発問題のアプローチは、非常に日本的であると述べましたが、これに関しては次回触れたいと思います。

(続く)








2012年6月15日金曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 7

北鎌倉 東慶寺
モデリングに関して、一般の人に対して話す場合によく取り上げる話題の一つに、次のようなものがあります。

筆者は若い頃、アメリカの会社でアーキテクトをやっていた事があります。
誤解を避けるために念のために付け加えますと、別にアメリカで大工をやっていたわけではありません。ネットワークやソフトウェアのアーキテクチャを構築する仕事に従事しておりました。
職場にはいろんな人がいましたが、アメリカ社会全般の人口比に比べ開発部門にはアジア系の人間が多い事はよく知られていますが、ソフトウェア関係は特にその傾向が顕著でした。
そして、一口にアジア人と言っても筆者のような極東系は極めて少なく、中東系の人が中心をなしていました。
なおここで言う中東系は、世間一般の定義よりもやや狭く、西はイスラエルから東はインド辺りまでの地域にルーツを持つ人たちの事を指しています。
この人たちの特徴は、やたら抽象的な話を好む事で、哲学っぽい話が大好きでした。
 筆者の経験から言うと、ヨーロッパ人も(高等教育を受けた人は特に)抽象的な話が好きですが、高い抽象度を好む面においては、中東系の方がかなり上でした。
そして、同じヨーロッパでもイギリス辺りになると随分と具体的な話が好きになり、アメリカに行くと、さらに具体性を好む傾向が強い ー と言うよりも、具体性を好む人と抽象的な話を好む人が混在している状態 ー と言うのが筆者の印象です。
では、日本はどうかと言うと、中東とは真逆の対極に位置し、極めて具体的な事柄を好む傾向が強く、抽象的と言う言葉自体にネガティブな響きさえ込められる局面にたびたび出くわします。
この傾向は、一般の社会だけでなく、最も抽象的な話を好みそうな大学内でも同じ事が言えます。
欧米の大学はリベラルアーツ教育を重視しますが、そのルーツは古代のギリシャ哲学にあると言われています。
古代ギリシャの哲学者たちは形而上的なものを志向し、具体物ではなく概念(イデア)こそが真の存在、と考えるまでに至ります。
ギリシャのこのような抽象志向は中東 ー 特に古代バビロニアあたり(今のイラクの地域) ー からの影響だと、筆者はニラんでいますが(古代ギリシャ人は、自分たちの先祖は東方から移住して来たと信じていたようですし、ユダヤ人も自分たちの先祖はバビロニアのウルからやって来たと聖書にも書き残しています)、それはともかくとして、欧米の教育のバックボーンには哲学の伝統があり、哲学教育を通じて若者にコンセプチャル・シンキングやシステム・シンキング等の抽象的な思考(アブストラクト・シンキング)の訓練を行なって来た、と言えます。
一方日本は(少なくとも明治以降)、具体性のある「もの」への指向性が強く、システム屋から見るとシステム・シンキングの欠如と思える事象が数あまたあります。
また、「もの」とは一見遠いはずのソフトウェア産業においても同様の傾向があり、「もの」に近いプログラミングなどの実装技術には興味も強く技量的には世界水準にあると思いますが、より抽象度の高い分野やシステム・シンキングを要する分野に関しては、改善の余地が多々あります。



さて、昨年の原発事故以来、原発そのものの安全性に対する見直しなどは行なっているようですが、一方で昨年問題となった社会システムに対する対策がほとんど行なわれていないように見受けられます。
この夏は、再開する原発に経産省や電力会社から20名ほどの幹部の方が常駐するそうですが、まるで人柱を立てた宗教政治に戻ったかのようです。
また、原発事故は国家の安全保障のレベルの問題であるのに対し、自衛隊や警察からの核問題の専門家は参加されないようです。

宗教政治は冗談ですが、20名は今回の事故で最も信用を失った組織から出されるようで、それだけ住民の不信感が強い事を象徴しているようです。心理政治と言うべきでしょうか。





2012年6月8日金曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 6

高原の昼食
筆者の同世代の友人には、昔、アマチュア無線や電子工作が趣味だったと言う人が少なからずいます。
現在は、たいていは電気とは全く関係のない分野の仕事をしており、最新の電気通信技術の話は全く出来ませんが、昔の技術の話で結構盛り上がったりします。


筆者たちが過ごした少年時代は、今のようにパソコンなどがまだなく、小学生の知的好奇心を満たす玩具が限られ、勢いそっちの分野に走ってしまったのでした。
 筆者が小学生の頃は、トランジスタと真空管の端境期で、一応両方やったのですが、一月分のおこずかいでは、真空管やトランジスタがせいぜい1個買えるだけでした。
 従って小型のラジオ受信機を作ることが多かったのですが、微弱な電波を音を鳴るまでの電気信号に変えるのに増幅が必要なのですが、問題はトランジスタ1個だとせいぜい100倍程度の増幅率しか得られないため、複数のトランジスタを用いて多段に増幅する必要があったことでした。
例えば、増幅率が仮に100倍のトランジスタを2段に並べると、大雑把に言って 100×100=1万倍の増幅率が得られます。
しかし、そうするためにはトランジスタが2個必要になって予算をオーバーしてしまいます。
そんな時に1個のトランジスタで2個分の増幅率が得られる夢のような方法がありました。
これは一度トランジスタで増幅した信号を再度入力側に入れて同じトランジスタで2度増幅するやり方です。
このやり方は、いわゆる正帰還回路(Positive Feedback Circuit)の一種で、メリットは、少ない部品数で高い増幅率が得られる事ですが、反面、増幅率を上げれば上げるほど音が歪んで行き(情報の変形が起き)、あるポイントを超えて上げすぎてしまうと「ピー」という音とともに発振状態に陥ると言うデメリットがありました(発振直前が最高の感度を得られるポイントでした)。
この発振と言う現象は、イメージ的には、出力側の信号の一部を入力側に入れるために、それがソフトウェアの無限ループのような状況になり、単調な波形(発振音)を出すような感じです。
しかしながら、当時は音質は悪くとも安い値段でラジオ放送が受信できたので、それで十分満足しておりました。

組織間の正帰還ループ

巷間伝えられる所によりますと、今回の原発事故の背景には、電力業界とそれを本来チェックすべき側の行政の間に強い癒着があった事が問題としてあげられております。
電力会社が様々な形で影響力を行使し、チェックする側の人間に安全基準を下げさせたと伝えられております。
そして、電力会社がチェック側の人間に意図的に安全基準を下げさせ、なおかつ、その下げた安全基準で十分安全と信じていた形跡があるそうです。
これは一見すると不思議な現象で、極端に言うと、人に嘘をつかせ、その嘘を自分でも信じてしまったわけですが、人間の心理としては理解できます。
つまり、自分が信じたい事を人に語らせそして信じてしまったわけです。

これは、組織的に言うと、組織間に正帰還ループを形成してしまった状態となります。
これに対し、本来組織そのものが管理の対象となる行政側の上級管理者も東電の経営者も何らの対策も打ちませんでした。
まるで、組織リスクなど存在しないごとく、言わば一緒に発振してしまっている状態でした。
これでは、原発の管理だけではなく、原発を管理する組織の管理そのものにも強い疑念を持たざるを得ません。

筆者は最初に述べたように、日本は原子力技術の開発は続けるべきだと言う立場ですが、原発の安全管理の問題に加え、組織管理の問題に対しても強く憂慮する者です。

(続く)

2012年6月4日月曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 5

蓼科の桜の小道
昨日は、津波のリスクの放置に加え、直下型地震のリスクも放置のまま原発が稼働していた事に触れました。他にもいくらでもありますが、並べると切りがない状態です。
あまりの酷さに、正直唖然としています。

これらは個々別々の問題ではなく、畢竟、戦略と方法論の大失敗の一言に尽きます。

そして、さらに問題なのは、原子力行政を担う方々が、自分たちの問題と責任を全く理解していない点です。
自分たちの初歩的な失敗が、多くの人々の仕事と生活を吹き飛ばしただけではなく、自分たちの信用や業界の信用も吹き飛んでしまった事に、未だに気づいていません。


正直、国民の安全を売って自分たちの私服を肥やしたと罵倒されても仕方のない状態です。

しかしながら、当面は、彼らに強い軽蔑のまなざしを投げかける事ぐらいしか出来ないのは、残念です。

2012年6月3日日曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 4

旅と滞在 @蓼科
筆者はこのプロマネBlogを自分の気晴らしのために書いている事は、読者諸兄姉のご推察の通りです。
どうも生来、駄文を連ねて人に読んでもらう事で、精神的に安定が得られるタイプのようです。
言わば、平安時代の名随筆家、清少納言の同類と言えるでしょう。(冗談です。清少納言ファンの方、申し訳ありません。彼女が書いたのは駄文でもなければ、気晴らしのために書いたわけでもありません。)

しかしながら、原発事故を表題にしたあたりから、ブログを書く事がだんだん憂鬱になってきました。




 前回のブログで、重大リスクが見落とされた原因の究明が必要と書きましたが、これは失敗を振り返り失敗から学ぶ事が極めて重要だからだけではなく、リスクの見落としが戦略的、方法論的なミスであるからです。

しかし、それだけではありません。
たいへん言いにくい事なのですが、ミスの内容が、専門家が犯すミスとしてはあまりに初歩的すぎるからです。
これは、単に、今回の大津波のリスクを見逃した事だけを指している訳ではありません。

筆者自身、ちゃらんぽらんな人間であり、決して人様の仕事を批判できる人間ではない事は、重々承知しています。
しかしながら、問題の重要性から、自らの浅学非才を顧みず、批判する理由を以下に書いてみたいと思います。

筆者自身、地震の専門家では当然なく、地震について語れるとしたら、唯一の理由は、筆者が神戸出身で、肉親を含め、多くの友人知人が先の「阪神淡路大震災」を経験した事です。
日本の多くの原発は、断層帯またはその周辺に作られています。
意外に世間に知られてない事ですが、今回のような海洋型の地震と、阪神のような直下型地震では、揺れ方が随分と違います。
活断層に起因するような直下型地震は、海洋型に比べ地震のエネルギーが小さく、影響地域の範囲は限定的です。
しかしながら、震源がごく浅く近いため、震源の真上での揺れ方は極めて激烈です。

神戸市内の場合、東西に走る激震地帯を外れると、揺れのエネルギーが分散されて、一挙に被害は少なくなります。
筆者の両親の家は、激震地帯である東西の帯から北にそれたところにありますが、電気水道ガスなどのライフラインが止まり、家も激しく揺れて棚の上のものが落ちて、家の中はごちゃごちゃになりましたが、家屋自体には何の被害もありませんでした。
家の近隣周辺も同様で、家が壊れたと言う話はほとんど聞きません。
一方、直撃を受けた激震地帯の状況は全く異なります。
地面から突き上げてくる衝撃で、体重の軽い女性や子供は宙に跳ね上がり、まるでトランポリンに載っている状態だったと言います。
また、建造物も最初の一撃で逃げる間もなく崩壊したと聞きます。
多くの方が亡くなりましたが、早朝5時台の地震で火をあまり使わない時間帯であったにも関わらず、焼死した方が多いのも特徴的です。
これは、最初の衝撃で家が壊れて中に閉じ込められ、遠くの火元から火が伝わって来るのに時間があったにも関わらず、水道も止まり道路も車が通れる状態ではなくなったため火を消す手段がなく消防車も来れない状態で焼死されています。
肉親の助けを呼ぶ叫び声を火の中から聞きながら、なすすべなく立ちすくむだけだったと言う、地獄図絵のような話を聞いた事もあります。
筆者の中学時代に同級生カップルだった夫婦も、幼い子供を残し亡くなっています。
焼死だという話を聞いた事がありますが、詳しい話は聞いていません。
火事は、多くの場合、自然鎮火、つまり焼き尽してもう燃えるものが残ってない状態でおさまりました。
直下型の地震の恐さは、揺れそのもの(エネルギー)もさることながら、その衝撃力(時間微分したもの)です。
これは、同じ力でも、長い時間をかけて少しずつかかる場合と、短時間に一瞬でかかる場合では、破壊力が全く違う事から、想像が付くと思います。
阪神淡路大震災の場合、断層が地表に現れ地形が変わってしまった所もあります。
従って、原発に求められる耐久性も、揺れだけの場合と、衝撃力や地形の変化も加味した場合では全く違うと思います。

最近、原発の真下あるいは周辺で活断層が発見されたと言うニュースをよく聞くようになりました。
活断層が発見された事もニュースではありますが、もっと衝撃的な事は、今までそう言う調査がされていなかったと言う事実です。
筆者を含め多くの人は、「断層帯の上に原発があるんだから、当然、活断層の調査も徹底してやってるだろう」ぐらいに想像していたのではないでしょうか?


(続く)



2012年5月28日月曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 3

蓼科山の春
原発事故にまつわるリスクについてシステム工学の観点から書きましたが、この重大な天災のリスクが何ゆえ見過ごされたかは極めて重大な問題です。
見過ごされた過程を分析し、根本的な原因の究明こそが最優先になすべき事である事は言うまでもなく、原発再開など、すべての原発の安全性に依存する問題は、今後の抜本的改善策を評価して後の議論となります。


筆者は別段、原子力の専門家でもなく、また原発の関係者でもないので、事故前に、電力会社や政府内でいかなる議論が行なわれ、どういう過程で意思決定がなされたかを知る立場ではありません。
従って、詳細な議論は出来ないのですが、極めてマクロ的な観点で、今回の事故のリスクが見過ごされた原因について考えて見たいと思います。
まず第一に言える事は、原発の安全性に対する戦略あるいは方法論、もしくは両方のレベルで問題があったと言う点です。
 方法論には、何をもって安全と見なし、あるいは危険と見なすか、と言う根本的な問題を含みます。

(続く)



2012年5月10日木曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 2

新緑の鶴岡八幡宮
(前回の続きです)
原子力発電所の安全性を示す重要な指標として絶対に挙げる必要があるものの一つとして、原子力発電所がその任務を開始し、30年後、どの程度の確度を持って無事にその使命が重大な事故なく終了できるかを示す確率が考えられます。
ここで言う重大な事故とは、端的に言って、原子炉内の放射性物質がメルトダウン等の事由により炉外へ放出される事態の事を主に指しています。
もちろん100%が望ましいのですが、神ならぬ我々はいかに100に近づけるかが問題となり、99.9・・%と言う風に何個9が続くかが問題となります。
9の数が多ければ多いほど良いわけですが、 問題は簡単ではありません。
というのも、容易に想像が付くと思いますが、9の数を増やすには莫大な対策コストが発生するからです。
前回のブログで3%のリスクが、巨大な数字であると言ったのは、この意味です。
3%のリスク事象のオミットが、これまでに費やされた莫大な対策コストを無意味にしてしまいます。
 海外では、1000年に一度ではなく1万年に一度の災害にも堪える設計をする事を義務づけている国もあります(というか、これが国際標準です)。

個人的な感想を言えば、これぐらいやって、初めて、「想定外」と言う言葉を口に出来る資格が得られると感じます。


2012年5月9日水曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 1

平家池のつつじ
筆者は大学でSysMLなんかを教えたりしてる関係からか、時々、今回の原発事故に関する意見を、若い人から聞かれる事があります。
 従来は、あまり批判的な事を言っても、いたずらに若い人を不安にするだけだと思い、あまり語りませんでしたが、事故後1年以上経ちすべての原子炉が停止した今、私見を述べてみたいと思います。

最初に筆者の立ち位置を明確にしておいた方が良いと思いますので、それを先に述べたいと思います。
筆者は原子力技術は人類が獲得すべきすばらしいテクノロジーだと考えます。そして、当面のエネルギー政策として原子力発電は今の日本に必要だと考える人間です。
しかしながら、同時に、今の日本の現体制ままで発電が再開する事には断固反対する者です。
 理由は大きく別けて、技術的側面(システム工学)と人間系側面からなりますが、本日は技術的側面について述べたいと思います。

システム工学の視点からみた今回の事故

巷間、今回の地震は1000年に一度の大地震であり、全く想定外の出来事だっと言われています。
マスコミが言う事ですから、鵜呑みにする事は出来ませんが、事故の経緯や対応を見ても明らかに準備がされていなかった事は事実でしょう。
しかしながら、 システム工学的な立場から言うと、今回のような天災は絶対に想定すべき出来事です。
簡単な確率の計算をしてみましょう。
原子炉の稼働期間は30年で設計されています。そして、その稼働期間中に1000年に一度の天災に遭う確率は、30÷1000 = 3% です。
これは、事故の影響を考えると途方もなく巨大な数字です。
この数字は原子炉一基当りであり、日本中にあるすべての原子炉の数を考えると、日本のいずれかの稼働中の原子炉が、1000年に一度の大災害に遭う確率は、下手をすると10%を超えてしまいます。(かなり控えめに計算しています。)

これを、別のシステム・プロジェクトと比べてみましょう。
宇宙開発は極めて危険を伴うプロジェクトとして知られていますが、人類が最初に月に降り立ったアポロ計画では、宇宙飛行士が(月に着陸できるかどうかは別として)生きて地球に戻って来れる確率、設計目標を99.9999999%として設定していました(いわゆる9が9個でナインナイン)。
これは生きて地球に戻って来れない確率(設計目標)が、10億分の1以下である事を意味します。
 それに対し、すべての日本の原発が安全に稼働する確率(設計時点での見積もり)は最大でも90〜97%程度であり、3〜10%の確率で予測不能の状態に陥る可能性がある事を示しています。

向井千秋さんは、日本人初の女性宇宙飛行士として、その業績、勇気は高く賞賛され、日本人の誇りとするところですが、設計目標のみの観点から言えば、彼女よりも我々日本に住む普通の日本人の方が、実は遥かにチャレンジャーだったと言うのは、笑うに笑えません。

(続く)

2012年5月6日日曜日

IPAブースでのミニ・セミナー

春の鋸山の頂上から三浦半島を望む
私事で恐縮ですが(と言うか、このブログそのものが私事ですが)、来る5月9日および10日に、ESEC(第15回組込みシステム開発技術展 )内のIPAブース  にて、

システム工学とソフトウェア工学の接点
~システム工学とエンタープライズ・アーキテクチャの融合 ミッション・クリティカルな海外事例をベース~


と言う 表題で、20分ほどしゃべります。
 このブログでやってるBPMとは異なる分野ですが(モデリングと言う観点からは同じ分野です)、もしESECに足を運ばれる予定がございましたら、御立ちよりください。

時間が20分と短い事と、ESECと言う場所柄ソフトウェア系の人が多いと想定されますので、SysML の登場がソフトウェア技術者へ与えた影響を中心に、「米国国防総省におけるテストできないシステム・ソフトウェアの品質保証」の変遷を簡単に概説したいと思います。

2012年4月22日日曜日

OCEB講座 第15回 BMM

筆者は直接経験した事はないのですが、知り合いの教師をやっている人などによると、最近の学生や生徒の名前に風変わりなものが増えて来て、いったい何と読むのか見当もつかず、名乗られて初めて「ああ、なるほど!」と思わず唸らせる判じ物のような名前、いわゆるキラキラ名にしょっちゅう遭遇するようになって来たそうです。
筆者はこのような話題になると、「慣れの問題だよ、慣れ。そのうち世の中そんな名前だらけになって、反って平凡な名前になるよ。」と言って、無理矢理話題を変えようとします。

筆者がなぜこの話題を避けようとするか?その訳は、すでに感づかれた方もおられるかもしれませんが、次に説明します。

2012年4月20日金曜日

OCEB講座 第14回 組織設計

鎌倉 源氏池
90年代、筆者はシリコンバレーのIT系のいわゆるベンチャー企業で働いていた事がありますが、立ち上がり期で小規模なため、一人でいくつものロールをこなさなければならないため、営業サポートや営業そのものもやったりしていました(本職の営業から見ればまねごとレベルですが)。
ご存知の通り、アメリカの会社は一部の企業を除くと、みな田舎町にばらばらに点在し、訪問するだけでかなりの時間とコスト(飛行機代や宿泊費)がかかり、一見すると、かなり非効率的な社会構造です。
しかしながら、いくつかの工夫があり、距離の遠さをカバーしてあまりあるものも存在しました。
その中の一つが本日お話しするコーポレート・タイトルです。
CEOとか、CFOなどのいわゆるCタイトルは、最近では日本でもかなり普及してきていますが、当時は少数派でした。
このCタイトルは、外部の人間から見ると、サービスの外部への共通のインタフェースを宣言しているようなもので、誰がどの分野にリスポンシブル(実行責任)でアカウンタブル(説明責任)かを表明している一種の識別子と見なす事が出来ます。
ベンチャー企業にとって営業と言うのは往々にして最大の弱点であり、技術力はあるが営業戦力は極めて限られている、と言う方がむしろ通例です。
製品の性質によって取る営業戦略は異なりますが、コンシューマ製品の分野では、初期はチャネルセールス(代理店販売)しかしない、と言うのが当時最もオーソドックスなアプローチでした。
しかしながら、当時筆者が勤めていた会社が作っていた製品は、ある程度以上の規模の企業や組織でしか使わないようなものでしたので、直販のアプローチを取っていました。
これには別の理由もあり、当時、開発費が枯渇しかかっており、顧客だけでなく出資者も必要としていたからです。
この場合、営業担当は販売先となりうる企業や組織を選びCIOやCTOにコンタクトを取ります。
CIOやCTOは、当然現行システムやサービスにも責任を持ちますが、日常的には、将来の拡張計画が主な活動となり、常に技術や業界の新しい情報を必要としています。
従って、興味分野が合えば、本人もしくは代理人や関係部署の代表などに対して会合を開くチャンスを持つ事は比較的容易でした。
また、CIOやCTOも往々にして新しいサービスの提供に対して強いプレッシャーを受けており(経営者にせっかちな人間が多いのは、洋の東西を問いません)、また有力なテクノロジーを持つ投資先を探している場合もあります。
(ベンチャー企業の顧客が、同時に出資者でもあると言うのは珍しくありません。)

このように、Cタイトルと言うのは、設計と言う観点から見ると、仕様(外部宣言)と実装(内部構造)を分離するコンポーネント指向設計の組織版と見る事が出来ます。

また、2000年代に入り、OMGにビジネス・ユーザー系の会員が急増したのも、このCIOの責任範囲の拡大に対応した事が大きな原因です。
2000年以前は、OMGの会員は圧倒的にメーカー系でビジネス・ユーザー系企業はほとんどいませんでしたが、現在はビジネス・ユーザーが過半数を占めています。
これは、2000年以前には、単なるコストセンターと見なされがちだったIT部門が、最近では戦略部門と見なされ、 企業戦略の重要な担い手となり、またCIOオフィスの責任範囲が拡大して来た状況と一致します。
ビジネス・ユーザー系会員の目的は、標準化に積極的に参画する事よりも、技術動向の調査(OMGのアウトプットは、要素技術ではなく、方式設計(アーキテクチャ)や設計方法論に強い影響を与えます)と、メーカー系への情報調査と影響力の行使です(2000年以降は、IT部門は従来のメーカー系の提案を待つ、「待ち」の姿勢から、積極的に「攻め」の姿勢に変わって来ています)。

2012年3月14日水曜日

OCEB講座 第13回 組織構造と戦略/ビジョンの一致

逗子の岩殿寺 泉鏡花ゆかりのこの寺は桜も開花中


鎌倉は暖かいか?とよく聞かれますが、都内とさほど変わりません、と言うのが大方の感想ではないでしょうか。
しかしながら、鎌倉の隣の三浦半島に一歩足を踏み入れると随分暖かい事が実感されます。
梅の開花やうぐいすの初音もずっと早く、農作物の作成りも良いようです。
しかし良い事ばかりではなく、杉花粉の発生も早いのは困った事です。

縦の権力と横の権力

前回は、縦型の力、責任と権限の関係のお話をしましたが、本日は横型の力について議論したいと思います。
縦型組織の問題点は日本の役所なんかを想定すれば、学生さんであっても理解は容易だと思います。
主な問題点として、
  • 下部組織ごとにお山の大将を作りやすく、西洋流に言えば財務省帝国、文部科学省帝国などが発生し(欧米ではお山の事を〇〇帝国と命名する事が多い)、職員は全体ではなく自分の所属する下部組織のためにのみ働くようになります。
  • 一つの問題に対し、各下部組織の責任が断片化し、それでなくとも責任回避型に走りがちなのに、ますます責任の所在が不明となる。
などが挙げられます。 これは日本の役人が特殊だからではなく、万国共通に見られる症状であり、言わば縦型組織の自然現象です。

この問題を打破する一つの手法としては、部門横断的に権力の行使が出来る横型の力ですが、外交や軍事などの大きな問題ではよく使われますが、問題によってはポリティカル・ゲームが発生しやすく、強い権力(ハードパワー)よりもソフトな力の行使が望ましい分野も多く(特に恒常的、自発的な改善が望まれる分野)、プロセス志向型組織が欧米で増えて来ているのは、BPMのこういう特徴を踏まえた結果と言えるでしょう。
一般にプロセス志向型組織では、横型の権力はソフトパワーを用います。代表的な横型権力の源泉は問題解決のための予算を握ることです。それ以外は硬軟様々な力の行使を行ない一つのゴールを目指して行きます。
また、縦型組織の最大の関心事である昇進経路ですが、基本的に横向きの力を発揮できる人、チームプレーヤーを第一に昇進させます。これは、組織文化の大きな変革であり、自部門至上主義、ナローマネジメント(旧帝国の再建を狙う勢力)は真っ先に排除の対象になります。

北米では、米国政府だけでなく州政府でもBPMに着手しています。と言うよりも、むしろ民間よりも、BPMのケース・スタディの宝庫の観があります。
アメリカ人は役人の官僚主義化に厳しい見方をするケースが多く、取り組みが遅いと見る向きもありますが(ちなみに日本政府の官僚主義は、もはやこの世のものとは思えない、信じられないレベルだそうです)、日本人の感覚から言えば、非常に積極的にやっているように見えます。






2012年3月6日火曜日

OCEB講座 第12回 組織構造と戦略/ビジョンの一致


自宅からちょっと歩いた所に竹林で有名な禅寺があり、観光客の少なそうな時期を見計らって時々散歩がてら立ち寄ります。

竹林に入ると柔らかな緑の光に包まれ、SF風に言うと異次元空間に迷い込んだ感があります。

裏手は鎌倉石の断崖が巡り、かつて鎌倉が海の底であった太古の昔を彷彿とさせます。
庭の中にはお茶席があり、抹茶や菓子のサービスが受けられます。

組織設計とBPM

前回の講座で組織構造とビジョン/戦略の不一致の話をしましたので、ビジネス_モチベーション・モデル(今後はBMMと略す)の話を一旦それて、組織構造の話をしたいと思います。

ビジョンや戦略に組織構造やプロセスを合わせる問題は、OCEBでは組織の設計と言うテーマで出題されます。
とは言っても、BPMをやっている人が皆んな組織の設計に従事するわけではないので、主に、OCEB上級(アドバンスト)レベルで出題され、本講座の対象であるファンダメンタルでは、組織に関するごく簡単な問題のみが出題されます。
例を挙げれば、財務部(Financial Dept.)の責務は?とか、マーケティング戦略の基本は?と言った他愛の無い問題などです。
  • (恐らく、組織に属していてBPMをやらなければならない人にとっては半分以上(つまり合格基準点以上)は既知の内容だと思うのと、ブログのネタになりにくいので割愛します。 学生さんなどは書店に並んでいるMBA入門の様な書籍を参照する事をお勧めします。参考までに英語版のタイトルが面白い書籍例へのリンクを張っておきます。) 

従って ここでは、組織設計の基礎知識に付いて触れたいと思います。

工学分野に限らず、どんな分野であろうと、設計、デザインと名のつくものはセンスと理論の混合体です。
建築を例に取ると、どんな家も物理法則からは逃れられず、物理法則を無視した建築物は崩壊してしまいます。しかし、逆に物理学の知識に富んだ人が好い家を設計できるかと言うとこれも真ではありません。
 組織設計も同様で、OCEBでは基本的な組織の力学が出題されますが、これは設計する上での必要知識であって、十分条件では無い事に注意してください。

組織の内外には、宗教、政治、経済等様々な力が渦巻きますが、組織設計の最もベーシックな力学は責任と権限の関係です。
組織はその目的の遂行のために特定の人間(マネジメント)に何らかの任務・責任を負わせますが、同時に権限を与えます。
 責任と権限は出来るだけ一致する事が望ましいのですが、現実的には完全に一致させる事は難しい事です。
ピータードラッカー氏の書籍にも挙げられていますが、極端な場合では責任と権限が完全に乖離し、責任は無いが権限だけがある部門が発生したり、逆に権限は無いのに責任だけ取らされる部門が 出来たりします。
また、自部門の責務を果たすために、他部門の協力や同意が絶対に必要であると言った場合も多く発生するために、責任と権限と言ったいわば縦の正式な権力とともに、横型の非公式な力、影響力を行使しなければなりません。
さらに、マネジメントの気質として責任範囲を広く解釈するタイプと、狭く解釈し自部門だけが良ければそれで良しと言うタイプ(いわゆるナローマネジメント)があります。

昔の組織は、この責任と権限と言った縦の力関係ですべて処理しようとしていましたが、業務が複雑になるにつれ横型の力の重要性がどんどん増してきました。
しかし、縦の力は組織が組織であるための基本的な力です。組織設計の上では必ず考慮する必要があります。

(続く)



2012年2月28日火曜日

OCEB講座 第11回 ビジネス・モチベーション・モデル

 組織構造とビジョン/戦略の不一致  

ジム・クーリング博士の「S/W Engineering for Realtime Systems」の翻訳(正確には下訳はあるので監訳)作業をチームを組んでやってますが、そのメンバーの一人M君は、最近まで携帯電話の開発に従事していたそうです。(直近では、アンドロイドのハードウェアとソフトがからみ合う部分を担当)。
過酷な事で知られる携帯電話の開発現場ですが、最大の課題は中韓の開発にどうやって追いつくかだったそうです。
彼の現場から観点から見た日本の開発現場の問題(中韓の開発現場と比較して)は、個々の技術者のスキルの問題よりも、むしろ、要件マネジメントのまずさと、要件分析とそれに続く開発プロセスそのものの問題であると見ています(彼は、ペーパーも準備中だそうです)。

現在世界的には、R&D型のソフトウェア開発は何らかの形で繰り返し(イテレーション)が入るスパイラル型が主流ですが、 彼がいた現場では相変わらずウォーターフォール型で、しかも、ここ十年はほとんど変わっていなかったそうです。それに対して、彼が知る中韓の現場では、技術者達はプロセスそのものを改善の対象と見なし、ダイナミックにプロセスの変更を行なっています。

要件マネジメントに加え、プロセスそのものに着目する慧眼はさすがだと思います。また 、この問題は一つ携帯電話業界だけの問題ではなく、日本の大部分の組織に内在する問題です。携帯電話開発は、過酷な国際競争にさらされて問題が顕在化した不幸な実例でしょう。

組織の設計の問題

最近の日本の組織の意思決定が非常に遅い事は世界的に有名ですが、これは日本人が怠け者になったと言うよりも、その組織構造に問題があります。
日本の組織のプロセス構造を見ると、正式のプロセス以外の調整作業(Coordination Work) の多さが非常に目立ちます。
調整作業そのものは決して悪い事ではなく、純然たる定型業務でも無い限り必ず必要となるプロセスですが、多くは組織の目的と組織構造(プロセス構造を含む)が合致していない場合に調整が急増します
また、組織構造(プロセス構造)が、それを取り巻く社会環境と合致しない場合にも増大します。
膨大な調整作業の結果、極端な例では、マネジメントは調整機能しか果たしてないケースが間々あります。(日本では、この極端なケースの方がむしろ多いようです。)

(続く)


2012年2月24日金曜日

セミナーのご案内 SysML, ソフトウェア工学、形式手法

OMGのソーリー会長が来日されることになり、急遽、ミニ・セミナーを開催することになりました。
(終了しました)

期日: 3月1日木曜日 10:00 〜
場所: 東海大学高輪校舎 3号館(通称 大学院棟) 1階会議室
(高輪キャンパスへのアクセス情報)

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参加費: 無料
申し込み法: 終了しました。

当日のアジェンダ:
  • 10:00〜 11:30  SysMLセミナー
  • 11:30〜 12:15  リアルタイム・ソフトウエア工学とSysMLのプロモーション
  • ランチ
  • 13:00〜 14:00  モデルベース形式手法研究会とOMG


概要:  いずれも講演会形式ではなく、会議形式で行います。
  • SysMLセミナー
    • ソーリー会長によるオープニング・スピーチ
    • SysMLの標準化状況
    • 北米や海外での普及動向 、国別、産業別
    • 情報交換、意見交換  等
  • リアルタイムソフトウェア工学とSysMLのプロモーション
    • これは、純然たるマーケティング・セッションです。
    • 「S/W Engineering for Realtime systems」の翻訳状況
    • 日本語版OCSMPの準備状況
    • 「Practical Guide for SysML」の翻訳出版予定
    • OMGとのジョイント・マーケティング等
    • 内容はマーケティングであり(書籍、資格試験、トレーニングなど)、必ずしも技術者向けではありませんが、非公開ではありませんので、ご興味がある方はご参加ください。
  • モデルベース形式手法研究会
    • 現在、モデルベースの形式手法の研究会の立ち上げを準備中です。OMGの未公開情報にもアクセスする場合があるため、運営はOMG参加企業メンバーとなりますが、本セッションは、どなたでも参加可能です。
    •  モデルベースの形式手法、存在論(Ontology)メタモデル等の動向にご興味の有る方は、奮ってご参加ください。



2012年2月13日月曜日

OCEB講座 第10回 ビジネス・モチベーション・モデル


筆者は、大学の組込み技術研究科と言うところでモデリングを教えていますが、この学科の卒業生の多くは組込みソフトウェア業界へ進んで行きます(反対に、業界で働きながら学ぶ学生もいます。)
さて、この組込みソフトウェア業界と言うのは、(筆者も世界中の業界を調査した訳ではないのですが)恐らく日本独自の業界ではないかと思います。
もちろん組込みソフトウェアは世界中で盛んに開発されており、今や組込みソフトが載っていない機械を探す方が難しい時代ですが、他国では業界をなすほどの大きな産業分野には育っていません。
理由はいたって単純で、他国では組込み系ソフトをあまり外注に出さず内製し、むしろハードの開発の方を外に出す傾向が強いためです(特に先進的な分野ほど、この傾向が強いように思えます)。
これは、節分の豆まきのように「ソフトは内、ハードは外」と単純に決めているからではなく、他国では、一般的に付加価値の高い作業(プロセス)を内製にし、低い作業(プロセス)を外製にしたがる傾向が強い事に起因します。
 これらの事から、『日本の経営者はコストには敏感だが、価値には鈍感である』と言う命題を証明する事にはなりませんが、傾向の一端は示していると思います。
なお、日本の経営者の名誉のために言えば、欧米でも、コストカットを進めた行った結果、企業価値を どんどん減じて(中には完全に消滅させて)しまった経営者は数多くいます。まさに、企業にとっては下手な外科医に当たったようなものです。

価値を創造したり発見できる才能を持つ経営者は、企業にとっても希少な資源です。


ビジネス・モチベーション・モデル


2012年2月4日土曜日

OCEB講座 第9回 軍事技術とビジネス

アメリカの職場で働いた経験のある方はご存知だと思いますが、あちらでは軍関係者、元軍人などが、ビジネス分野でも非常に活発に活動をしています。
元々、戦略やビジョンの研究は、歴史的に主に軍事分野で発達して来ましたが、昨今では、ビジネス分野にも広範に取り入れられ、適合化が図られてきました。
筆者の身近な例を挙げますと、筆者自身が取締役を務めていたUTIが提供しているOCEBの受験対策コースは、アメリカのVisumpoint社が開発したものですが、同社の代表であるL氏は元軍人です。
彼は久しく軍で兵站(ロジスティックス)関係の仕事をしておられ、退役後はビジネス・コンサルティングの分野で活躍し、あわせてOMGのボードメンバーにも就かれています。
言わば、軍事技術の平和利用の見本みたいなケースです。 (ちなみに、彼の父君は、海軍で潜水艦の艦長をされておられたそうで、家系的にも軍人が多いそうです。)

本講座では、元々軍事用語であった戦略やビジョンと言った概念をビジネス分野へ応用し作られたフレームワーク、ビジネス・モチベーション・モデル について解説して行きたいと思います。
日本のビジネスマンは、元来、具体的な話を好み、抽象的、概念的な話を軽侮する傾向がありましたが、最近では、システム・シンキング、概念シンキングの欠如に起因する問題が各方面で見られるようになってきました。
今後のビジネス・シーンで活躍が期待される読者の皆様にも、これを機会にフレームワーク的なアプローチに親しんで頂きたいと思います。

2012年1月31日火曜日

OCEB講座 第8回 ビジョンの失敗

世にフロイト病と言うものがあります。青年期に罹りやすい病気で、恥ずかしながら筆者も一時期、感染していました。この病気の特徴は、例えば、友人が初夢に鳶が茄を咥えている夢を見たと喜んでいると、「貴兄は幼児期に、その茄に恋してたんだろう」などと、頼まれもしない夢判断をしたり、恋人がデートの時間に遅れて来たりすると、「本当は来たくなかったんだろ」と相手の心中図星を突いて喜んだりします。

これと似たような病気にドラッカー病と言うものがあり、やたらドラッカーの言説を実行に移そうとします。フロイト病の患者が、罹患を隠さず逆に誇示する陽気な病いであるのに対し、ドラッカー病は、自分が患者である事を隠そうとする言わば陰性の病いです。

本日、ご紹介するビジョンの失敗は、そのピーター・ドラッカー氏の書物にも(たしか)取り上げられた例です。

イギリスの例

イギリスは、ご存知の通り、産業革命を経て世界で最初の工業国になった国です。19世紀は世界のトップリーダーとして君臨し、この時代は比較的戦乱が少なかった事から「パックス・ロマーナ」をもじって「パックス・ブリタニカ」と呼ばれていました。
また、世界中に植民地を持ち、ユニオンジャック(英国旗)は日の沈まぬ旗と言われていました。
ところが、20世紀になると急速に影響力が低下し、第一次世界大戦(1914〜1918)あたりになると、敗戦国のドイツの方がかえって存在感を誇示するようになり、トップの座から滑落した後は、ジャイアンに扈従するスネ夫的な役どころに終始するようになってしまいました。
ジャイアンがどの国かはあえて言いませんが(笑)、ドイツ軍も、スネ夫だけが相手であれば、負ける気はしなかったでしょう。

さて、イギリスの国際的なプレゼンスの低下の問題の裏には、経済力の低下の問題があります。
イギリスの最盛期であった19世紀後半、ヨーロッパの工業国の首位はドイツに奪われます。これは、イギリスが既得権益の保持に終始し、新分野、特に重化学工業分野、自然科学の基礎研究分野への投資が疎かになってしまった事が要因に上げられています。
イギリスは、IBMの例と同様、その最盛期にビジョンの失敗を犯してしまった訳です。

企業や国の動きは、巨大タンカーに喩えられます。両者はともに慣性の法則に従って運動します。
時速数キロで一見ノロノロと進むタンカーですが、巨大な運動量を持つ為に、時速400キロのF1レーシングカーがぶつかっても、新聞紙にハエがぶつかるようなもので、ほとんど何の影響も与えません。また、この巨大な運動量のために、前方数キロの地点に浅瀬が発見されても急に止まる事が出来ません。
 このような巨大な運動量を持つものにとって最も重要なポイントは、その運動の方向、目的地を決める事です(ビジョン)。
方向を変えるだけで随分エネルギーを要しますが、間違った方向に進んだ場合、時間が経つにつれ元の軌道に戻すために必要なエネルギーは莫大なものになり、先行者に追いつく事が絶望的になって行きます。

 目標によるマネジメント(MBO)は、ドラッカー氏の強く提唱するところです。




2012年1月24日火曜日

OCEB講座 第7回 ビジョンの失敗

前回の続きです。

IBMの例

3つ目の問題は意識改革の失敗です。当時のCEOが株主から非難を浴び、最終的に馘首になりましたが(経営責任ですから致し方ないとは思いますが)、彼が、時代の変化に気が付かない因循姑息な人物だったかというと案外そうでも無く、むしろ彼を取り巻いていた中間管理職の方がもっと保守的だったような気がします。
 過去の成功体験があまりに巨大すぎると、過去とは異なる不都合な兆候が市場に現れても気が付かなかったり、無視したり、 逃避しようとします。

当時を振り返って、「PCの台頭が予見困難な急激な変化だったか?」と考えると、一部の人種を除けば、けっして難しくない、むしろ自然な流れと感じたと思います。
また、予測困難な市場変化と皆が思っていれば、株主も経営陣をあれほど激しくは叩かなかったでしょう。
IBMがPC市場に参入したのはかなり遅く、AppleやNECなどが市場を席巻した後です。
出現当初から、IBMの動きは市場の動きを後追い掛けしている印象がありました。
社内的に言えば、IBM PCは戦略製品の格付けではなく、4段階あった製品の格付けの一番下か、下から2番目ぐらいの格付けだったと思います。
戦略製品は予算を戦略的に組む事が可能であったのに対し、IBM PCは極めてアドホック的な限られた予算しか組めず、他社の技術に依存した製品になってしまった事は、前回のブログで触れた通りです。

代官山 蔦屋書店
「PCの台頭が予見可能だったか?」と言う問いに対し、一つ思い出した事があります。実は筆者は、PCの開発がやりたくてIBMに入社した口です。当時の若者の多くは、これからはPCの時代だと思っていました。内定時に開発部門への配属だと言われていたのですが、いざ入社日になって、PCどころか開発部門ですら無いところに配属された事がわかりました。何かの間違いだろうと思い人事の人間を捜したのですが、見当たりません。
結局、人事に騙された形で入社し、数年後、理解ある上司に巡り会い、開発部門に移籍することが出来ましたが、その間、何度も退職を考えました。
今思い出しても腹立たしい出来事ですが、話が脱線してしまいました。 ーー 元に戻します。

先に、PCの台頭は、一部の人間を除けば、予見は容易であった、と書きました。では一部の人間は誰かと言うと、メインフレーム市場の中で育ち成功してきた人々です。
読者の中には、当時の経営者はパッパラパーばかりだったと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、決してそうではありません。 ビジョンの失敗は、優秀な人間こそがやる失敗です。
戦略や戦術の変更に比べ、ビジョンの変更は時に大きな組織的抵抗、軋轢を生みます。
ビジョンの変更は、時によっては、価値の変更を伴います。




2012年1月16日月曜日

OCEB講座 第6回 ビジョンの失敗


先日、Macの調子が悪かったので、渋谷のアップルストアに修理に出すついでに、公園通りから代官山まで散歩がてら歩いて来ました。
 昔働いていたオフィスが代官山近辺にあり、その頃よく行っていた店で食事をしようと思っていたのですが、残念ながら休みでした。
左の写真は、新しく出来た代官山 蔦屋書店です。大きくておしゃれな書店で、珍しい本もあり、店内を歩いているだけでも結構楽しめます。



本日はビジョンの失敗例を見てみましょう。
ビジョンの失敗例は世の中にいくらでもありますが、歴史的に有名なものを取り上げてみたいと思います。

IBMの例

1980年代、IBMはコンピュータ界の巨人と言われ、コンピュータ市場の圧倒的なシェアを握り、同時に世界最大の半導体企業でもあり、生産した半導体製品は外販せずすべて内製に使われましたが、それでも足りず、外部からも大量に調達し、世界最大の半導体の買い手でもありました。
競合メーカーはいた事はいたのですが、白雪姫と7人の小人たちと揶揄されるほど弱小で、最大の敵は米国司法省、つまり独禁法だと言われていました。

しかしながら、90年前後から急激に業績が悪化し、93年には当時アメリカ史上最大、つまり世界最大の大幅な赤字を計上するに至りました。
 当時のCEOや幹部の何人かは無能の烙印を押され社外に放り出され、その後、IBMは内部の大変革を迫られる事になりました。
 この急激な変化は、いわゆるダウンサイジング、つまり市場の主役がメインフレームからPCへシフトした事に大きく関係します。
これは、単にメインフレームよりもPCが売れるようになっただけの変化ではなく、方法論やコンピュータ文化も大きく変わりました。 
IBMはPCを作っていなかったのではなく、むしろ製品としては良いものを出し、シェア的にも圧倒的ではないにしろ、トップシェアを占めていました。(個人的には、IBM PCは、伝説の名機、Apple IIと並ぶすばらしい機械だと思います。そのアーキテクチャは皆さんが今お使いのPCに脈々と引き継がれています。)
なぜ、IBMは失敗したのでしょうか?
 細かく議論すると本一冊にぐらいなりそうなので他に譲りますが、要点として次の三項目を挙げます。
本講座の主題であるBPMの観点から言うと、IBMの失敗はそのPCの構造にあります。つまり主要部品であるOSとCPUを他社(Microsoft社とインテル社)に委ねた事が 最大の失敗です(特にOS)。IBMのビジネス・モデルが、組立て販売業者のそれになってしまい、従来IBMが得意としていた高付加価値型ビジネスモデルが完全に崩れてしまいました。この構造のため、互換市場への参入が極めて容易となって、無数のコンペティタと競合する事になります。そして、図らずもインテルとマイクロソフトと言う手強い競合相手を自らの手で育て上げてしまいました(両社とも、80年代は小さな会社でした)。OCEB受験者は、要チェックポイントです。
次の問題は、タイミング、時間の問題です。IBMは、PCの台頭を予想しておりましたが、対応は極めて緩慢でした。80年代後半から90年代にかけて、筆者はIBMの製品企画部門にいた事があります。(具体的には、ある戦略製品のアジア太平洋地域担当のプロダクト・マネージャをやっていました。ちなみに、当時のIBMは戦略という言葉が大好きで、戦略製品、戦略サービスなど、主要なものには、すべてあたまに戦略という言葉が付いていました。)80年代後半には、既に市場からPCの台頭や脅威を示すデータや情報がバンバンあがっていました。ところが、その情報が組織の上層部に上がるにつれ、徐々にマイルドな形にデフォルメされ、ユルいものに変質していくと同時に、対策も極めて緩慢なものになって行きました。当時一番問題視されたのは、この点でした。巨大な身体を持ちながら脳みそが3グラムしか無い恐竜に喩えられ、IBMの経営陣は株主やマスコミから散々に叩かれました。

 (続く)

2012年1月12日木曜日

OCEB講座 第5回 戦略の失敗


次に挙げる事例はどなたもご存知の例です。

太平洋戦争の例
 今から70年前の事例ですので筆者を含めほとんどの現役世代は生まれる前の話ですが、その当時を生きた世代からの聞き伝え、映像記録、書籍等、おおよその話は大部分の読者はご存知だと思います。
戦後日本の形成に大きな影響を与えた出来事です。
当時の各国政府の意図や行動など細かい点は未だに百家争鳴の状態で門外漢の筆者など出る幕はないと思いますが、大局的に言って次のような状況だったと思います。
  •  日本は満州事変、満州国建国を通じ大陸利権の拡大を図っていた。中国領土でのヨーロッパ諸国(国際連盟)との利害の対立が深まる。
  • ヨーロッパではナチスドイツが台頭し近隣諸国を席巻する。当時の新興国アメリカのルーズベルト大統領はドイツの台頭を脅威に感じ、ヨーロッパ戦線参入の機会を狙うが、アメリカ国民・議会は厭戦的であり海外派兵には否定的であった。
  • ルーズベルト大統領は、日本の中国大陸での勢力拡張に対し脅威を感じ、中国からの撤兵要求など日本に様々な圧力をかけ始める。
日本の最初の間違いは、中国大陸の利権を独り占めしようとした点ですが、それは置いておきます。
  • (当時は、欧州各国もアジア各地に植民地を持っていて互いにすねに傷を持つ身であり、被支配下の民衆に対する同情はあくまでも建前です。アメリカも(民衆レベルは除き)、日本の支配下にあった中国人に対する同情や正義感で戦争をした訳ではない事は、賢明な読者の皆さんはご存知でしょう。中国の利権をヨーロッパ諸国と比較的平和裏に分け合う余地は十分あったと思います。残念ながら、これが今に続く国際政治の現状である事は諸賢のご推察の通りです。)
 日本の最大の戦略的失敗は、英米、特にアメリカと直接戦火を交える事になった点です。
しかしながら、 戦争の最初期の2つの作戦、陸軍のマレー作戦と海軍の真珠湾攻撃は大成功でした。
日本陸軍はマレー半島を世界の戦争史を塗り替えるほどの破竹の勢いで席巻し、シンガポールまで一挙に落としました。
日本海軍は航空機を巧みに利用した攻撃で米太平洋艦隊に壊滅的な大打撃を与えました。これは海軍史上、大鑑巨砲時代の終焉、航空機の時代の到来を示す画期的な作戦でした。
従って、日本は初戦において戦術的に大成功をおさめたと言えます。しかしながら、その後、総合力に勝る米軍に敗北に続く敗北を喫し惨敗してしまいます。
当時、日本の首脳がどういう戦略で対米戦を戦おうとしていたのか良く分かりませんが、少なくともアメリカと戦う事の危険性は十分認識していたと思います。
開戦直前の首相、近衛文麿は、東条英機陸軍大臣に中国大陸から軍を引くよう指示しましたが、大臣は拒否しています。
もはや軍部の暴走は、誰にも止められない状態になっていました。

2012年1月6日金曜日

OCEB講座 第四回 戦略の失敗

戦略の失敗例

戦略の失敗例としてまず取り上げたいのは以前プロマネBlogでも取り上げた日本の各種統合プロジェクトです。
これらの統合プロジェクトはすべて官公庁の監督下にあって期日が決められており、また最低限のターゲットはある意味極めて明確です。
そして下位のレベル、つまりより具体的な戦術レベルではかなりのアクティビティが見られるものの上位レベルの項目の決定が遅れに遅れ最後は大トラブルに突入しています。
戦略は戦術とともに手段の概念であり、ここではどのように統合するか 、を決定するものです。
統合に関し様々な戦術が考えられますが、どの戦術を取るかは上位の戦略的見地、大局的見地から決定されます。
以前のブログではこれらの統合プロジェクトでは戦略が無いように見えると書きました。
外部からは窺い知れませんが 、ひょっとすると内部にはあったのかもしれません。
しかし、仮にあったとしても、戦略の有効性、現実性において(これらは戦略の有用性をはかる重要な尺度です)、戦略型失敗と呼んでいいと思います。

外人スタッフ達が日本型パターンと名付けたことは、ブログにも書きました。

2012年1月4日水曜日

OCEB講座 第三回 ビジョンと戦略

筆者は昨年鎌倉に引っ越してきたのですが、実は今年の正月が来ることを楽しみにしておりました。
除夜の鐘を聞いた後、雪のつもる寒い朝、古都鎌倉を散策し、心静かに神社仏閣に詣でようと心密かに念じておりました。
しかし、現実は過酷で、神社はどこも人の海、近所の鶴岡八幡宮などとても近づけません。
どの店も観光客で一杯で、コーヒー一杯飲むのも命がけです。

戦略の失敗とビジョンの失敗

戦略とビジョンに関しその概念を明確にするために具体例を見て行きましょう。
この2つの概念は、特にそれらの失敗事例に違いが際立ちますので、2、3、失敗例を挙げて見て行きたいと思います。


最初にお断りしておきますが、ここで失敗を取り上げるのは飽く迄も学習の便をはかるためであって、失敗を批判したり揶揄するためではありません。
人間は失敗するものであり、 我々が失敗しないで済んでいるもの過去先人が失敗してくれたおかげと言えます。
 日本のバブルが崩壊後の日本の政策を批判していたアメリカが、リーマンショック以降、日本がバブル崩壊後取った政策をそのまま取らざるを得なくなりアメリカに日本を批判する資格は無かったと言う自省の記事がありました。
また、同じく日本のバブル崩壊を嗤っていたヨーロッパ経済も、今や大変な事態を迎えています。これも対岸の火事と傍観していると、日本にも津波のように押し掛けてくる可能性があります。
人間から失敗を無くすることはできません。恥ずべきは、失敗したことではなく、失敗から学ばない態度と言えるでしょう。

戦略の失敗

最初に戦略の失敗例を取り上げたいと思います。戦略はビジョンほどオープンに公開しませんので、戦略の失敗かどうかは判断がつきにくく、また通常は、「我が国は戦略的失敗を犯しましたので反省します。」なんてことは公表しません。
 はたから見てどう見ても大失敗だろうと言うような事態でも、当事者は案外失敗を認めないと言うことも珍しくありません。

従って、これから挙げる失敗事例も筆者の見解であり、最終的な正否は読者の判断にお任せします。しかしながら、これらの例示は、筆者の目的、つまり「戦略とビジョンの違いを際立たせる」ためには有効だと思います。


2012年1月3日火曜日

OCEB講座 第二回 ビジョンと戦略

地震前だったと思いますが、菅総理大臣が国家戦略の重要性を訴えたところ、外国人ジャーナリストにビジョンの無さを突っ込まれたと言う笑い話がありました。
国民としては 笑ってばかりもいられない話ですが、現代人の常識としてビジョンや戦略の意味を把握する必要がありますし、またOCEBの試験でも基礎的な問題が出題されますので、ここで議論しましょう。

ちなみにビジョンとか戦略はもともと軍事用語であり、(敵味方関係なく)世界的にほぼ共通の概念で使われています。

さてこの二つの単語ですが、意味するところは大きく違います。 ビジョンは最上位の目的概念であるのに対し、戦略は手段の概念です。
前者がWhatを意味し、後者はHowの概念です。

話が抽象的すぎて初心者の方には取っ付きにくいと思いますので、次回以降具体例をあげて見て行きましょう。











2012年1月2日月曜日

OCEB講座 第一回

昔このブログでUML中級講座と言うのをやっていていましたが、今年はその続編としてBPM(ビジネス・プロセス・マネジメント)の資格試験、OCEB(OMG Cerified Expert for BPM)の受験者の参考までにOCEB講座を開催したと思います。

レベル的にはOCEBの入門レベルであるファンンダメンタルを想定していますが、場合によっては、より上位の問題や、試験範囲を超えた話題にも触れて行きたいと思っています。



2012年1月1日日曜日

謹賀新年 2012年元旦



謹賀新年
2012年 元旦
(稲村ヶ崎付近から江ノ島や富士山を撮ったものです)

昨年は、地震以降、ホームページを担当してもらっていた方が退職と言うこともあり、4月以降はHPもプロマネBlogも完全放置状態でした。
今年は再開しようと思いログインしようとしたのですが様子がわからず、下手にいじると壊れてしまいそうなので、新たにブログを立ち上げ、そこをホームページにすることにしました。

筆者自身も、昨年は、従来の仕事に加えて東海大学の教授に就任したり、住居を都心から鎌倉へ移したりと、変化の大きい年でした。

しばらく遠ざかっていたブログも復活したいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。