2015年11月27日金曜日

グローバル化と英語 その3


永観堂の紅葉

京都の東山の永観堂の北側に「哲学の道」という遊歩道があります。
かつて哲学者が好んで歩いた散歩道だったそうですが、今は哲学好きな猫の散策する場となり、その猫を目当てに猫好きの観光客が訪れています(筆者もその一人です)。

グローバル思想 唐の場合

唐の国の版図は広大で、様々な人種や民族を包含するものであり、また域外の国々との交易も非常に盛んでした。
 唐の街には、様々な国の外交使節や商人たちが行き交い、様々な言語が話されていました。
 東は日本人から西は西域の人々(イランやトルコ系)まで、北は北方騎馬民族から南はインド人まで、実に様々な人々が比較的平和裡に交雑交流していました。
これだけですと、単に国際的なだけですが、唐の場合は国家の設計思想が一味変わっていました。

哲学の道を逍遥する哲学猫

国家アーキテクチャ

唐は仏教を保護し、国家事業として様々な経典を漢訳していましたが、同じことを摩尼教や景教などの西域からの様々な宗教に対しても行なっていました。
一種のシンクレティズムですが、各宗教の僧たちも、漢訳などの作業を通じ積極的に交流し、互いに影響しあっていました。
仏教の経典も必ずしもインド僧がサンスクリット語から漢訳したものとは限らず、イラン系言語に翻訳したものをイラン人の景教(キリスト教系)の僧が翻訳したものまであります。
そして、皇帝も含め当時の人々は複数の宗教に帰依することになんら問題を感じず、同時並行して複数の宗教に弟子入りしたりしています。
おそらく、このシンクレティズムは、現代のシステム工学で言うビュー、観点が違うものを複数勉強していると言う感覚だったのでしょう。
例えば、国家を考える場合、仏教的観点、キリスト教観点、儒教的、法学的観点、あるいはシステムとして見るシステム工学的観点など様々なビューが現れますし、また法律そのものであっても、宗教、文化的観点もあり、また論理構造体としてみるアーキテクト的ビューなども考えられます。
いわば、大学の学部を超えて複数の専攻科目を勉強している感覚だったのしょう。

また、百人一首にも登場することで有名な阿倍仲麻呂は、入唐後に科挙の試験に合格し、日本に戻れずじまいで最後まで唐の高位高官(三位の高官)として過ごしました。そして、安史の乱で有名な安禄山は、中央アジアのイラン系民族とトルコ系系民族 ー いずれも西域ですが ー の混血だと言われているように、国家を構成する高官も様々な人種民族出身の人間が登用されていました。
このように国家の中枢部分そのものが国籍に頓着せず言わばグローバル化しており、これは、皇帝という観念が、世界ではなく全宇宙に君臨するものと考えられており、宗教や人種、民族などを超越した存在とみなされていたからでした。

したがって、この皇帝統治システムは、グローバルと呼ぶよりも全宇宙的(Cosmic)と呼んだ方が良さそうな気もしますが、実際には月や火星まで支配は及んでいませんので、ここではグローバルという言葉で統一しておきます。

日本人にとっては、唐は初めて体験するグローバル化現象だったでしょう。

次に続く

2015年11月16日月曜日

グローバル化と英語 その2

京都 永観堂
過日、紅葉を見に京都へ行ってきました。
紅葉は始まったばかりで、全山紅葉するにはまだ間がありますが、逆にそれほど混雑もしておらず暖かな日和で、のんびりと楽しめました。

空海の時代

空海は、みなさんご存知の通り、今から1200年ほど前、都が奈良から平安京へ移る時期に生きた僧侶で、高野山を開き真言密教の開祖として、今現在も日本に大きな影響を残しつつある人物です。
1200年もの長い間、日本人の精神界に影響を残すと言う偉業は、戦略論などと言う薄っぺらな俗論を遥かに超えて、決して筆者など凡夫の語るべき所ではありませんが、ここで取り上げた理由は、彼はこの時代の人としては驚くほど多弁であり、多くの情報が残されていてるからです。
現在のグローバル化の現象に似た事象を日本史上に探すとなると、人類が日本列島に渡って来た遠い記録のない太古を除けば、まず第一に遣隋使、遣唐使の時代を挙げるべきでしょう。
空海も若い頃遣唐使船に乗り、当時東アジアの一大国際センターであった唐の都、長安に渡っています。
そして、当時、遣唐大使など高級役人を除けば、空海たち若い学生達は、中国語に相当通暁していたことが窺わされますが、彼らはどこでどのようにして中国語を学んだのでしょうか?
空海がどのように学んだかは不明の部分が多いのですが、推察するに、彼は僧になる前に役人になるために当時の日本の首都、奈良にあった大学寮に入学しましたが、そこで漢籍の丸暗記型の勉学に飽き足らず、様々な分野の勉強をした際、中国語の会話も習得したようです。
大學寮には中国語の発音、唐音を教える音博士(おとはかせ、今でいう大学教授みたいなものか?)もおり、おそらく空海の出身階級である官人層の少なくとも一部には、中国語の読み書きだけではなく会話も可能であったコミュニティーがあったことが想像されます。
(一方、当時の支配階級である貴族層の中国語の教養は読み書きが中心であり、嵯峨天皇などの例外的存在を除きかなり怪しい所があります。)
 当時、唐は、日本を含む東アジア全体の文化の中心であり、また文治政治が行われていて、律令制を構成する唐の官僚層は、科挙の選抜試験を突破した詩歌に通じる教養人たちばかりでした。
(官僚たちの酒宴の席では、漢詩のやりとりが盛んに行われていました。)
 このような東アジアの状況下、日本においても学問、教養は中国語なしには考えられない状況でした。
これは、中国発祥の儒教だけではなく、インド発祥の仏教も例外ではなく、サンスクリット語で書かれた経典がすぐに漢訳され、それがわずか数年を隔てて、日本にも伝わって来ていました。
そして、ほとんどの経典は日本語訳されることなく、漢訳されたものがそのまま国内でも使われていました。
この経典の伝達速度の早さは、当時の海上交通の状況を考えると驚異的とも言えるものです。
当時、東シナ海を直接大陸へ渡る船の遭難率は極めて高く、例えば空海が入唐した時の遣唐使船は4隻から構成されたものでしたが、漂流しながらもなんとか大陸に渡りついたものは2隻で、 残りの2隻は行方知らずーおそらく、空海と同じ世代だった青年たちの青雲の夢、情熱を乗せたまま海中に没したのでしょうー、という状況でした。
留学期間も極めて長く、空海の場合は20年の予定で入唐しており、当時の平均的な寿命を考えると、中国に渡るということは、留学生の親にとっては事実上今生の別れを意味していました。
航路の危険や留学期間の長さから考えて、当時の留学生たちは悲壮な決死の覚悟で海を渡ったと想像されますが、空海が残した文章には微塵の暗さもなく、若々しいものばかりです。
空海自身、1200年前の人物とは思えないほど、現代的な印象を与えるのは、普遍的な問題に取り組んでいたからでしょう。
古代ギリシャの哲人が、現代人と対話可能であると言う印象と共通です。
まさに永遠の青春という表現がぴったりで、1200年の光陰を貫き、キラキラと青春の輝きを送り続けています。

次に続く