2013年1月30日水曜日

OMG+IPA ジョイントセミナーのお知らせ


巻向遺跡(邪馬台国?)
来る2月15日午後一時より、OMGとIPAのジョイントセミナーを開催致します。
筆者も講演者の一人として、主にSysMLの標準化の話題と、超大規模システムへの挑戦と題し、分散リアルタイムシステムとフォールト・トレランス・システムの統合戦略のお話をする予定です。
OMGでは、システムの物理的側面に焦点を当てたシステム・モデリング(SysML) のアプローチと、論理的側面(ソフトウェア)に焦点を当てたアプローチの2つのグループが存在しております。
2つのグループが必ずしも仲が良いわけではないのですが(笑)、お互いに他のアプローチの必要性は認め合っています。
特に 超大規模システムと呼ばれる分野では、システムが極めて複雑怪奇になって行き(怪奇は筆者のペンの走り)、システム特性の大部分がソフトウェアに依存する状況となった今日、システム設計者はソフトウェア工学の知識が必要であり、ソフトウェア設計者はシステム工学の知識が必須(これはソフトウェア工学の誕生時からそうですが)です。

また、分散リアルタイムシステムと、高信頼性を実現するためのフォールト・トレランス性は、従来、別々に論じられて来ましたが、超大規模システムではそれぞれの要件を同時に満たす必要があり、それらを統合するアーキテクチャ・ワークが行なわれて来ました。
筆者の講演では、その統合戦略とアーキテクチャの設計思想を議論したいと思います。
複雑度の高い(あるいはソフトウェアへの依存度の高い)システムの設計者や、ソフトウェアのアーキテクチャ・ワークにご興味をお持ちの方は、下記リンクから、お申し込みください。

セミナー案内・参加申込み: 
 高信頼システムを実現するシステムズエンジアリングとシステムアシュアランス





2013年1月5日土曜日

OCEB講座 第22回 Why BPM 5

東大寺 大仏殿
筆者の世代は、20歳代で冷戦時代&バブル時代(1980年代)、30歳代をポスト冷戦&バブル崩壊過程(1990年代)の中で過ごしましたが、この時代変化は多くの人々に物的精神的両面に多大な影響を与えた事は事実でしょう。

80年代になると円高や好景気を背景に、日本人が海外で働く事が一挙に一般化しました。
70年代以前は海外勤務と言うのはまだ珍しく、限られた人々だけのものでしたが、80年代以降、いわゆるエリート層だけではなく普通の人々ー大衆が海外勤務に就く事になりました。
この流れはその後途絶える事なく現在に続きます。
 筆者も20代の頃アメリカで働いたことがありますが、そこでアメリカを発見する事になりました。
今の時代に「アメリカを発見」と言う言葉は大げさに聞こえるかも知れませんが、実際、冷戦下の日本のマスコミはやたら社会主義、共産主義を礼賛する傾向が強く、ソ連や文化大革命などを賞賛したりする一方、日本やアメリカを強く批判し、 海外の情報が相当に歪んだ形で国内に伝わっていました。
日本独自の見解を持つ事は大切ですが、国外の情報を正しくつかむ事も同じぐらい重要です。
 当時のマスコミが伝えるアメリカ像も相当に歪んだものであり、筆者も現実とのキャップに驚かされた一人でした。
 そしてアメリカを発見する以上に日本を発見することになります。
 アメリカで生活をする上で自分の内なる日本人を意識せざるを得ず、また海外から見る世界の中の日本と言う視点も日常的に加わります。
こういった体験は明治時代は国費留学生等のエリートだけのものでしたが、80年代には筆者のような一般大衆のレベルのものになって来ました。
かつてエリートだけが海外渡航していた時代には、相対的な日本観を口にする事は極めて危険な行為であり、「アメリカでは ・・・」とか「おフランスでは・・・」と言う発言は誤解を呼びやすく「西洋カブレ」とラベルを貼られたり、組織の中で浮いてしまい攻撃を受けたりするリスクが非常に高かったのですが、相対的な日本観が大衆化した今では、世代にもよりますが、かなり普通になって来つつあります。
 とは言え、21世紀の現代でも筆者などが海外事例の話をしていたりすると、『西洋カブレ』に類するような批判を受けたりする事がたまにあるぐらいですから、かなり根深い感情です。
 ちなみにこのような批判に直面した場合、筆者などは苦笑するだけであえて反論をしません。
理由として大きく2つあり、1つは、事実として筆者自身、相当に「西洋カブレ」している点です。カブレかたもかなりひどく重度の重傷であることを認めざるを得ません。
もう1つの理由は、「西洋カブレ」と批判する御本人が筆者に負けず劣らず相当にカブレている事です。
つまり、猫がほかの猫から猫顔を批判されているようなものであり、猫顔を批判する猫と批判される猫の違いは、鏡を見た事があるかないかの違いです。

言い換えると、我々の世代は、大衆レベルで多くの人が日本を外から見るチャンスを得始めた嚆矢と言えます。
筆者の世代では、決して多数派とは言えませんが、一定の割合で海外勤務の経験者が増えて来ました。
統計的な数字は持っていませんが、個人的に学生時代の友人を考えると6割以上が海外勤務の経験を持っており、 中には通算して国外にいる時間の方が長い人もおります。
場所も欧米だけではなく、様々な国に赴任しており、筆者の親戚の中には、南米のチリで南極のペンギンと一緒に撮った家族写真を送って来たかと思うと、次の年には極北のロシアから年賀状を送って来た人もいます。
 着実に、日本社会の中に日本を外から眺める機会があった人の割合が増えて来ていると言えるでしょう。

2013年1月1日火曜日

OCEB講座 第21回 Why BPM 4

謹賀新年 
前回のブログで、昔は週刊誌が「今年の新入社員は〇〇世代だ」と1年ごとに世代を命名していたと書きましたが、改めて今思い返すとそれも無理からぬ現象と納得できる点があります。
というのも、筆者の少年時代を含め戦後の日本は1990年前後ぐらいまでは、世界史上の大波にもまれながら激変していたからです。
その反動かどうか、90年以降の日本は世界の変化に抗しながら独自路線を走り出した時代と言うことができると思います。

第二次世界大戦終了以降、今の日本社会に最も深い影響を与えた出来事は冷戦とその終結であったと思います。
経済的にはバブル経済とバブル崩壊が直接的でしたが、これは冷戦終了の前後に日本に咲いたあだ花であり、冷戦と表裏一体のものだと筆者は見ています。
 敗戦後、経済的に目覚ましい復興を遂げた国は日本と西ドイツの二国でしたが、両国民とも国のリーダーシップに問題があると言う共通の欠陥を持つものの、技術的工業的なポテンシャルが極めて高かったのは事実でしょう。
そして、両国とも戦後その技術力を買ってくれる自由市場を手に入れることができました。

日本は戦後西側陣営に組み入れられましたが、同時にアメリカ市場への自由なアクセスを手にすることができました。
当時の市場規模感は、(激しく変動する為替レートに振り回されるため) 数字で言うのは難しいのですが、昔ネットワーク機器のマーケティングに従事していた時の感覚で言うと、80年代のコンピュータや通信機器の市場規模は、日本市場を1とすると、アメリカはその10倍以上、アジアで日本に次いで大きかったオーストラリア市場でも日本の10分の1程度で、韓国や台湾、その他のアジア市場にいたっては日本の地方都市程度であり、海外市場=アメリカ市場と言っても過言ではありませんでした。
従って、日本の戦後の急速な復興からバブル経済までを支えた日本の輸出産業の主要市場は北米であったと言えます。
80年代、筆者はアメリカに住んでいたことがあるのですが、当時のアメリカは双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)やスタグフレーション( 景気後退とインフレーションの同時進行)に悩まされ非常に不景気でしたが、それでも日本の対米輸出は増加の一途でした。
たとえ話で言うと、北米市場と言うリングの上で、日本と西ドイツがアメリカをコーナーに追いつめボコボコに殴っている状態でアメリカは「もう勘弁してくれ」と言っているのですが、西ドイツは少し手を緩めたのに対し、日本はそれでも殴り続けていたので、アメリカはとうとう切れてしまい靴底からナイフを取り出して日本を脅しはじめた(少なくとも日本から見ると反則ワザ)、と言う状況でした。
 対日感情も悪化を続け、いわゆるジャパン・バッシングの状態でしたが、 反日暴動があったわけでもなく、まわりには親切な人も多かったので、個人的には至って平穏無事でした。
また、何と言っても強い円のおかげで、日本円でもらう給料が同じぐらいのレベルのアメリカ人労働者よりも高く、またインフレとは言いながら、日本に比べると農産品を中心に物価が極めて安いため(食材だと4分の1から3分の1程度)、結構快適に暮らしておりました。

(続く)