2018年7月2日月曜日

グローバル化と英語 その6

葵祭
前回のブログでは、「グローバル化は、我々、非英語圏に属する国々にとっては、対応さえ適切であれば、決して悲観的に感じる必要はない事態」であると書きましたが、確かに対応は容易ですが(世界的な時代の潮流に乗るだけですので)、そこには大きなリスクが潜んでいることも認識しておく必要があるのは確かです。
特に日本の場合、現状を見ると、リスクは極めて高いと言わざるをえません。

そのリスクとは「母語の喪失」のリスクです。
ヘレニズム世界でも、ギリシャ語の共通語化の陰で、消えてしまった言語も多くあると言われています。

日本人は、伝統や文化を愛する気持ちが人一倍強いと言われており、各地でその保護活動が盛んにおこなわれて来ていますが、その一方で、伝統文化に対する破壊活動を強力に推し進めている勢力が存在するのも事実です。
ここ数十年間で、多くの地方から方言が消滅して来ており、また方言ではなく別系統の言語ですが、アイヌ語の母語話者も激減して来ていると聞きます。
ユネスコの消滅の危機に瀕している言語のリストによれば、

極めて深刻であるもの: アイヌ語
重大な危機: 八重山語(八重山方言)、与那国語(与那国方言)
などが挙げられ、続いて危機に瀕している言語として、沖縄語(沖縄方言)や八丈語などの島嶼部の言葉(方言)が並びます。

この問題は実は周辺の島々だけではなく、本州でさえもまともに言葉が残っているのは関西の一部地域だけであり、地方だけではなく、首都直下の江戸の江戸弁も聞かなくなってしまいました。
筆者は関西生まれですが江戸の落語は好きで、若い頃から関西弁には全くない、軽妙で洒脱、いなせで都会的な江戸弁の語り口は、羨ましく、大好きでしたが、最近はほとんど聞けなくなってしまいました。
江戸の落語家も、標準語なまりの、ー そんな言葉がなければ、標準語くさい ー 語り口になってしまい、江戸の放送局も、ニュースだけならまだしも、芸能番組もモールス信号のような文化不毛の標準言語で交信しているだけです。

言うまでもないですが言語は最も基本的な伝統であり文化です。
歴史的に見ても、その言葉が喋れなくなって、その民族がなくなった例は山ほどあります。
ヘレニズム世界において、言語を失った民族の多くは、その後の歴史の中で、アイデンティティも消滅しています。

現代日本に渦巻く、標準語の蔓延 ー すなわち言語文化の軽視・無視は、最終的には、英語が便利だからと簡単に日本語を捨ててしまう風潮を生み出す要因につながります。

アメリカ史を見ても、欧州からさまざまな民族が流入し、かつては英語以外にも仏語、独語等々いくつもの言語が喋られていたことがわかりますが、建国の過程で、多くは実用的な理由で、英語以外の言語が捨てられてしまい、同時にそれらのアイデンティティーも失ってしまいました。