2012年1月31日火曜日

OCEB講座 第8回 ビジョンの失敗

世にフロイト病と言うものがあります。青年期に罹りやすい病気で、恥ずかしながら筆者も一時期、感染していました。この病気の特徴は、例えば、友人が初夢に鳶が茄を咥えている夢を見たと喜んでいると、「貴兄は幼児期に、その茄に恋してたんだろう」などと、頼まれもしない夢判断をしたり、恋人がデートの時間に遅れて来たりすると、「本当は来たくなかったんだろ」と相手の心中図星を突いて喜んだりします。

これと似たような病気にドラッカー病と言うものがあり、やたらドラッカーの言説を実行に移そうとします。フロイト病の患者が、罹患を隠さず逆に誇示する陽気な病いであるのに対し、ドラッカー病は、自分が患者である事を隠そうとする言わば陰性の病いです。

本日、ご紹介するビジョンの失敗は、そのピーター・ドラッカー氏の書物にも(たしか)取り上げられた例です。

イギリスの例

イギリスは、ご存知の通り、産業革命を経て世界で最初の工業国になった国です。19世紀は世界のトップリーダーとして君臨し、この時代は比較的戦乱が少なかった事から「パックス・ロマーナ」をもじって「パックス・ブリタニカ」と呼ばれていました。
また、世界中に植民地を持ち、ユニオンジャック(英国旗)は日の沈まぬ旗と言われていました。
ところが、20世紀になると急速に影響力が低下し、第一次世界大戦(1914〜1918)あたりになると、敗戦国のドイツの方がかえって存在感を誇示するようになり、トップの座から滑落した後は、ジャイアンに扈従するスネ夫的な役どころに終始するようになってしまいました。
ジャイアンがどの国かはあえて言いませんが(笑)、ドイツ軍も、スネ夫だけが相手であれば、負ける気はしなかったでしょう。

さて、イギリスの国際的なプレゼンスの低下の問題の裏には、経済力の低下の問題があります。
イギリスの最盛期であった19世紀後半、ヨーロッパの工業国の首位はドイツに奪われます。これは、イギリスが既得権益の保持に終始し、新分野、特に重化学工業分野、自然科学の基礎研究分野への投資が疎かになってしまった事が要因に上げられています。
イギリスは、IBMの例と同様、その最盛期にビジョンの失敗を犯してしまった訳です。

企業や国の動きは、巨大タンカーに喩えられます。両者はともに慣性の法則に従って運動します。
時速数キロで一見ノロノロと進むタンカーですが、巨大な運動量を持つ為に、時速400キロのF1レーシングカーがぶつかっても、新聞紙にハエがぶつかるようなもので、ほとんど何の影響も与えません。また、この巨大な運動量のために、前方数キロの地点に浅瀬が発見されても急に止まる事が出来ません。
 このような巨大な運動量を持つものにとって最も重要なポイントは、その運動の方向、目的地を決める事です(ビジョン)。
方向を変えるだけで随分エネルギーを要しますが、間違った方向に進んだ場合、時間が経つにつれ元の軌道に戻すために必要なエネルギーは莫大なものになり、先行者に追いつく事が絶望的になって行きます。

 目標によるマネジメント(MBO)は、ドラッカー氏の強く提唱するところです。




2012年1月24日火曜日

OCEB講座 第7回 ビジョンの失敗

前回の続きです。

IBMの例

3つ目の問題は意識改革の失敗です。当時のCEOが株主から非難を浴び、最終的に馘首になりましたが(経営責任ですから致し方ないとは思いますが)、彼が、時代の変化に気が付かない因循姑息な人物だったかというと案外そうでも無く、むしろ彼を取り巻いていた中間管理職の方がもっと保守的だったような気がします。
 過去の成功体験があまりに巨大すぎると、過去とは異なる不都合な兆候が市場に現れても気が付かなかったり、無視したり、 逃避しようとします。

当時を振り返って、「PCの台頭が予見困難な急激な変化だったか?」と考えると、一部の人種を除けば、けっして難しくない、むしろ自然な流れと感じたと思います。
また、予測困難な市場変化と皆が思っていれば、株主も経営陣をあれほど激しくは叩かなかったでしょう。
IBMがPC市場に参入したのはかなり遅く、AppleやNECなどが市場を席巻した後です。
出現当初から、IBMの動きは市場の動きを後追い掛けしている印象がありました。
社内的に言えば、IBM PCは戦略製品の格付けではなく、4段階あった製品の格付けの一番下か、下から2番目ぐらいの格付けだったと思います。
戦略製品は予算を戦略的に組む事が可能であったのに対し、IBM PCは極めてアドホック的な限られた予算しか組めず、他社の技術に依存した製品になってしまった事は、前回のブログで触れた通りです。

代官山 蔦屋書店
「PCの台頭が予見可能だったか?」と言う問いに対し、一つ思い出した事があります。実は筆者は、PCの開発がやりたくてIBMに入社した口です。当時の若者の多くは、これからはPCの時代だと思っていました。内定時に開発部門への配属だと言われていたのですが、いざ入社日になって、PCどころか開発部門ですら無いところに配属された事がわかりました。何かの間違いだろうと思い人事の人間を捜したのですが、見当たりません。
結局、人事に騙された形で入社し、数年後、理解ある上司に巡り会い、開発部門に移籍することが出来ましたが、その間、何度も退職を考えました。
今思い出しても腹立たしい出来事ですが、話が脱線してしまいました。 ーー 元に戻します。

先に、PCの台頭は、一部の人間を除けば、予見は容易であった、と書きました。では一部の人間は誰かと言うと、メインフレーム市場の中で育ち成功してきた人々です。
読者の中には、当時の経営者はパッパラパーばかりだったと思う方もいらっしゃるかも知れませんが、決してそうではありません。 ビジョンの失敗は、優秀な人間こそがやる失敗です。
戦略や戦術の変更に比べ、ビジョンの変更は時に大きな組織的抵抗、軋轢を生みます。
ビジョンの変更は、時によっては、価値の変更を伴います。




2012年1月16日月曜日

OCEB講座 第6回 ビジョンの失敗


先日、Macの調子が悪かったので、渋谷のアップルストアに修理に出すついでに、公園通りから代官山まで散歩がてら歩いて来ました。
 昔働いていたオフィスが代官山近辺にあり、その頃よく行っていた店で食事をしようと思っていたのですが、残念ながら休みでした。
左の写真は、新しく出来た代官山 蔦屋書店です。大きくておしゃれな書店で、珍しい本もあり、店内を歩いているだけでも結構楽しめます。



本日はビジョンの失敗例を見てみましょう。
ビジョンの失敗例は世の中にいくらでもありますが、歴史的に有名なものを取り上げてみたいと思います。

IBMの例

1980年代、IBMはコンピュータ界の巨人と言われ、コンピュータ市場の圧倒的なシェアを握り、同時に世界最大の半導体企業でもあり、生産した半導体製品は外販せずすべて内製に使われましたが、それでも足りず、外部からも大量に調達し、世界最大の半導体の買い手でもありました。
競合メーカーはいた事はいたのですが、白雪姫と7人の小人たちと揶揄されるほど弱小で、最大の敵は米国司法省、つまり独禁法だと言われていました。

しかしながら、90年前後から急激に業績が悪化し、93年には当時アメリカ史上最大、つまり世界最大の大幅な赤字を計上するに至りました。
 当時のCEOや幹部の何人かは無能の烙印を押され社外に放り出され、その後、IBMは内部の大変革を迫られる事になりました。
 この急激な変化は、いわゆるダウンサイジング、つまり市場の主役がメインフレームからPCへシフトした事に大きく関係します。
これは、単にメインフレームよりもPCが売れるようになっただけの変化ではなく、方法論やコンピュータ文化も大きく変わりました。 
IBMはPCを作っていなかったのではなく、むしろ製品としては良いものを出し、シェア的にも圧倒的ではないにしろ、トップシェアを占めていました。(個人的には、IBM PCは、伝説の名機、Apple IIと並ぶすばらしい機械だと思います。そのアーキテクチャは皆さんが今お使いのPCに脈々と引き継がれています。)
なぜ、IBMは失敗したのでしょうか?
 細かく議論すると本一冊にぐらいなりそうなので他に譲りますが、要点として次の三項目を挙げます。
本講座の主題であるBPMの観点から言うと、IBMの失敗はそのPCの構造にあります。つまり主要部品であるOSとCPUを他社(Microsoft社とインテル社)に委ねた事が 最大の失敗です(特にOS)。IBMのビジネス・モデルが、組立て販売業者のそれになってしまい、従来IBMが得意としていた高付加価値型ビジネスモデルが完全に崩れてしまいました。この構造のため、互換市場への参入が極めて容易となって、無数のコンペティタと競合する事になります。そして、図らずもインテルとマイクロソフトと言う手強い競合相手を自らの手で育て上げてしまいました(両社とも、80年代は小さな会社でした)。OCEB受験者は、要チェックポイントです。
次の問題は、タイミング、時間の問題です。IBMは、PCの台頭を予想しておりましたが、対応は極めて緩慢でした。80年代後半から90年代にかけて、筆者はIBMの製品企画部門にいた事があります。(具体的には、ある戦略製品のアジア太平洋地域担当のプロダクト・マネージャをやっていました。ちなみに、当時のIBMは戦略という言葉が大好きで、戦略製品、戦略サービスなど、主要なものには、すべてあたまに戦略という言葉が付いていました。)80年代後半には、既に市場からPCの台頭や脅威を示すデータや情報がバンバンあがっていました。ところが、その情報が組織の上層部に上がるにつれ、徐々にマイルドな形にデフォルメされ、ユルいものに変質していくと同時に、対策も極めて緩慢なものになって行きました。当時一番問題視されたのは、この点でした。巨大な身体を持ちながら脳みそが3グラムしか無い恐竜に喩えられ、IBMの経営陣は株主やマスコミから散々に叩かれました。

 (続く)

2012年1月12日木曜日

OCEB講座 第5回 戦略の失敗


次に挙げる事例はどなたもご存知の例です。

太平洋戦争の例
 今から70年前の事例ですので筆者を含めほとんどの現役世代は生まれる前の話ですが、その当時を生きた世代からの聞き伝え、映像記録、書籍等、おおよその話は大部分の読者はご存知だと思います。
戦後日本の形成に大きな影響を与えた出来事です。
当時の各国政府の意図や行動など細かい点は未だに百家争鳴の状態で門外漢の筆者など出る幕はないと思いますが、大局的に言って次のような状況だったと思います。
  •  日本は満州事変、満州国建国を通じ大陸利権の拡大を図っていた。中国領土でのヨーロッパ諸国(国際連盟)との利害の対立が深まる。
  • ヨーロッパではナチスドイツが台頭し近隣諸国を席巻する。当時の新興国アメリカのルーズベルト大統領はドイツの台頭を脅威に感じ、ヨーロッパ戦線参入の機会を狙うが、アメリカ国民・議会は厭戦的であり海外派兵には否定的であった。
  • ルーズベルト大統領は、日本の中国大陸での勢力拡張に対し脅威を感じ、中国からの撤兵要求など日本に様々な圧力をかけ始める。
日本の最初の間違いは、中国大陸の利権を独り占めしようとした点ですが、それは置いておきます。
  • (当時は、欧州各国もアジア各地に植民地を持っていて互いにすねに傷を持つ身であり、被支配下の民衆に対する同情はあくまでも建前です。アメリカも(民衆レベルは除き)、日本の支配下にあった中国人に対する同情や正義感で戦争をした訳ではない事は、賢明な読者の皆さんはご存知でしょう。中国の利権をヨーロッパ諸国と比較的平和裏に分け合う余地は十分あったと思います。残念ながら、これが今に続く国際政治の現状である事は諸賢のご推察の通りです。)
 日本の最大の戦略的失敗は、英米、特にアメリカと直接戦火を交える事になった点です。
しかしながら、 戦争の最初期の2つの作戦、陸軍のマレー作戦と海軍の真珠湾攻撃は大成功でした。
日本陸軍はマレー半島を世界の戦争史を塗り替えるほどの破竹の勢いで席巻し、シンガポールまで一挙に落としました。
日本海軍は航空機を巧みに利用した攻撃で米太平洋艦隊に壊滅的な大打撃を与えました。これは海軍史上、大鑑巨砲時代の終焉、航空機の時代の到来を示す画期的な作戦でした。
従って、日本は初戦において戦術的に大成功をおさめたと言えます。しかしながら、その後、総合力に勝る米軍に敗北に続く敗北を喫し惨敗してしまいます。
当時、日本の首脳がどういう戦略で対米戦を戦おうとしていたのか良く分かりませんが、少なくともアメリカと戦う事の危険性は十分認識していたと思います。
開戦直前の首相、近衛文麿は、東条英機陸軍大臣に中国大陸から軍を引くよう指示しましたが、大臣は拒否しています。
もはや軍部の暴走は、誰にも止められない状態になっていました。

2012年1月6日金曜日

OCEB講座 第四回 戦略の失敗

戦略の失敗例

戦略の失敗例としてまず取り上げたいのは以前プロマネBlogでも取り上げた日本の各種統合プロジェクトです。
これらの統合プロジェクトはすべて官公庁の監督下にあって期日が決められており、また最低限のターゲットはある意味極めて明確です。
そして下位のレベル、つまりより具体的な戦術レベルではかなりのアクティビティが見られるものの上位レベルの項目の決定が遅れに遅れ最後は大トラブルに突入しています。
戦略は戦術とともに手段の概念であり、ここではどのように統合するか 、を決定するものです。
統合に関し様々な戦術が考えられますが、どの戦術を取るかは上位の戦略的見地、大局的見地から決定されます。
以前のブログではこれらの統合プロジェクトでは戦略が無いように見えると書きました。
外部からは窺い知れませんが 、ひょっとすると内部にはあったのかもしれません。
しかし、仮にあったとしても、戦略の有効性、現実性において(これらは戦略の有用性をはかる重要な尺度です)、戦略型失敗と呼んでいいと思います。

外人スタッフ達が日本型パターンと名付けたことは、ブログにも書きました。

2012年1月4日水曜日

OCEB講座 第三回 ビジョンと戦略

筆者は昨年鎌倉に引っ越してきたのですが、実は今年の正月が来ることを楽しみにしておりました。
除夜の鐘を聞いた後、雪のつもる寒い朝、古都鎌倉を散策し、心静かに神社仏閣に詣でようと心密かに念じておりました。
しかし、現実は過酷で、神社はどこも人の海、近所の鶴岡八幡宮などとても近づけません。
どの店も観光客で一杯で、コーヒー一杯飲むのも命がけです。

戦略の失敗とビジョンの失敗

戦略とビジョンに関しその概念を明確にするために具体例を見て行きましょう。
この2つの概念は、特にそれらの失敗事例に違いが際立ちますので、2、3、失敗例を挙げて見て行きたいと思います。


最初にお断りしておきますが、ここで失敗を取り上げるのは飽く迄も学習の便をはかるためであって、失敗を批判したり揶揄するためではありません。
人間は失敗するものであり、 我々が失敗しないで済んでいるもの過去先人が失敗してくれたおかげと言えます。
 日本のバブルが崩壊後の日本の政策を批判していたアメリカが、リーマンショック以降、日本がバブル崩壊後取った政策をそのまま取らざるを得なくなりアメリカに日本を批判する資格は無かったと言う自省の記事がありました。
また、同じく日本のバブル崩壊を嗤っていたヨーロッパ経済も、今や大変な事態を迎えています。これも対岸の火事と傍観していると、日本にも津波のように押し掛けてくる可能性があります。
人間から失敗を無くすることはできません。恥ずべきは、失敗したことではなく、失敗から学ばない態度と言えるでしょう。

戦略の失敗

最初に戦略の失敗例を取り上げたいと思います。戦略はビジョンほどオープンに公開しませんので、戦略の失敗かどうかは判断がつきにくく、また通常は、「我が国は戦略的失敗を犯しましたので反省します。」なんてことは公表しません。
 はたから見てどう見ても大失敗だろうと言うような事態でも、当事者は案外失敗を認めないと言うことも珍しくありません。

従って、これから挙げる失敗事例も筆者の見解であり、最終的な正否は読者の判断にお任せします。しかしながら、これらの例示は、筆者の目的、つまり「戦略とビジョンの違いを際立たせる」ためには有効だと思います。


2012年1月3日火曜日

OCEB講座 第二回 ビジョンと戦略

地震前だったと思いますが、菅総理大臣が国家戦略の重要性を訴えたところ、外国人ジャーナリストにビジョンの無さを突っ込まれたと言う笑い話がありました。
国民としては 笑ってばかりもいられない話ですが、現代人の常識としてビジョンや戦略の意味を把握する必要がありますし、またOCEBの試験でも基礎的な問題が出題されますので、ここで議論しましょう。

ちなみにビジョンとか戦略はもともと軍事用語であり、(敵味方関係なく)世界的にほぼ共通の概念で使われています。

さてこの二つの単語ですが、意味するところは大きく違います。 ビジョンは最上位の目的概念であるのに対し、戦略は手段の概念です。
前者がWhatを意味し、後者はHowの概念です。

話が抽象的すぎて初心者の方には取っ付きにくいと思いますので、次回以降具体例をあげて見て行きましょう。











2012年1月2日月曜日

OCEB講座 第一回

昔このブログでUML中級講座と言うのをやっていていましたが、今年はその続編としてBPM(ビジネス・プロセス・マネジメント)の資格試験、OCEB(OMG Cerified Expert for BPM)の受験者の参考までにOCEB講座を開催したと思います。

レベル的にはOCEBの入門レベルであるファンンダメンタルを想定していますが、場合によっては、より上位の問題や、試験範囲を超えた話題にも触れて行きたいと思っています。



2012年1月1日日曜日

謹賀新年 2012年元旦



謹賀新年
2012年 元旦
(稲村ヶ崎付近から江ノ島や富士山を撮ったものです)

昨年は、地震以降、ホームページを担当してもらっていた方が退職と言うこともあり、4月以降はHPもプロマネBlogも完全放置状態でした。
今年は再開しようと思いログインしようとしたのですが様子がわからず、下手にいじると壊れてしまいそうなので、新たにブログを立ち上げ、そこをホームページにすることにしました。

筆者自身も、昨年は、従来の仕事に加えて東海大学の教授に就任したり、住居を都心から鎌倉へ移したりと、変化の大きい年でした。

しばらく遠ざかっていたブログも復活したいと思いますので、よろしくお願い申し上げます。