2016年6月30日木曜日

そして、神戸

神戸港
前回京都の話が出たので、神戸の話を書きたいと思います。
神戸は奈良や京都、あるいは大阪に比べ、極めて新しい街とみなされています。
事実、文化財の数なんかを見ても、周辺の農村部と比べてさえ圧倒的に少なく ーー という言い方はなまやさし過ぎ、壊滅、あるいは文化財の空白地帯と言った表現の方がぴったりするほどです。
しかしながら、神戸の地は古事記や日本書記にも登場する古代から拓けたところであり、源氏物語で有名な須磨、明石や歌枕の地として有名な布引の滝、そして神戸を愛した政治家にして武将、平清盛が一時遷都を試みた福原京、雪の御所跡地も神戸市内です。(注: 旧明石郡は一部のみが別の市(明石市)ですが、源氏物語の主要部分は神戸市内にあります。 )
そして神戸港は、かつては兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれ、平安時代以降、それまでの難波津(なにはのつ、今の大阪港)に代わって、みやこの海の玄関口として栄え、先の大震災までは日本一の貿易港でした。
空海や最澄などを載せた遣唐使船も神戸港から出ており、また、小説やドラマで有名な北海道航路を拓いた海商、高田屋嘉兵衛も兵庫津に本拠を置いていました。

そう言う訳で、文化財などが残らないはずがない場所柄です。
読者諸兄姉の中には、きっと先の阪神淡路大地震のとき消失したんだろうと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際には大震災は、文化財がとっくに無くなってしまった後に起こっています。
すべての文化財は、実際には、第二次大戦中の神戸大空襲の時に失われてしまっています。
 大戦時に空襲を受けた日本の都市は多かったのですが、神戸の場合は街が山と海に挟まれて非常に狭く人口密度も高い割に空爆量は甚大で、正確な統計がないのではっきりしたことはわかりませんが、人口当たり、あるいは単位面積当たりの被害は日本有数のものに上っただろうと言われています。
その様子は、悲惨とか言う言葉が意味をなさないほどのもので、戦後多くの文芸作品のモチーフにも取り上げられております。若い人でも、ジブリ映画の「火垂るの墓」や小説の「少年H」などを通じてご存知の方も多いと思います。
実際、神戸の市街地は完膚なきまで徹底的に失われ、当時の写真を見ても、建物らしきものは全く残っておらず、何もない地面が漠然と広がっているだけです。

筆者の高校時代、学校の先生の40代後半以降の方たちは、神戸大空襲の実体験者が多く、時々空襲の生々しい話をされているのを聞きました。
また、空襲に限らず戦時中の話を色々と聞きましたが、その中で、変に記憶に残っている言葉があります。

「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る。」

どういう脈略で、この言葉を聞いたのか、全く思い出せませんが、妙に印象に残っています。

次号に続く(いつになるかわかりませんが)