2013年11月22日金曜日

OCEB講座 第36回 日本型組織と海洋汚染問題 その7

富士山と相州大山
鎌倉生まれの友人、M君によると、鎌倉周辺の市町村では、時々「湘南」の定義を巡って大論争になるそうです。
「湘南」と言う地名は、元々は中国に存在した禅宗のメッカ、「湘南県」から来たものだそうで、鎌倉時代には、鎌倉市内の山中にある建長寺や円覚寺などの禅寺を中心とした地域を漠然と指したものだったようです。
また本家の湘南県はその風光明媚さが有名です。日本でも多くの画家達が見たこともない「湘南県」を空想しながら山水画を描き残しています。本家の「湘南県」は日本の文人墨客が憧れる言わば理想郷になり、その湘南を流れる大河、湘江の水風景がついてまわるようになります。(残念な事に、本家の中国の湘江は、現在では中国で最も重金属汚染が激しい汚れた川となってしまっているようです。)
そうして、時代が下るにつれて「湘南」の地名は次第に禅寺の多い鎌倉を離れ、海沿いの美しい水風景を求め西に移動し、江戸時代には相模川を越えて相模湾岸の西側の小田原や大磯あたりの海岸を中心とした地名になったようです。

鎌倉が湘南の名前を取り戻したのは、明治になってからで、東京の保養地としてハイカラな避暑地、医学的効用を期待した海水浴の場、そして当時の国民病、結核の療養の場として、東は逗子、葉山から西は小田原の先まで、「湘南」は相模湾岸全体を指し示すかなり広い範囲を示す言葉となりました。
この頃の湘南のイメージは、もはや禅宗や山水画を完全に離れ、ハイカラな避暑地、高級な別荘地です。
現在この地域にある大きな病院の大部分が、かつては結核療養所、サナトリウムであり、
長期滞在型の保養地であって、言って見れば、高級避暑地「軽井沢」の海浜バージョンとなっていました。
夏目漱石の小説「こころ」で、主人公が鎌倉の海岸で「先生」と外国人が会話するのを目撃する場面が描かれていますが、湘南海岸には外国人の姿も結構見られたようです。

そして、21世紀の今日、このブログの読者諸兄姉が「湘南」と聞いて思い浮かべるであろう「若い男女が出会いがしらに十八女合い、意味もなくセックスするロマンチックな場所」のイメージは、M君によると、第二次大戦後マスメディアによって作られたものだそうです。
そして、ここまで「湘南」のイメージが変わってしまうと、今までずっと指をくわえて推移を見守っていた海岸から離れた山沿いに住む恐らく海など見た事もないような人たちまで、自分も湘南だと主張し始めました。確かに最新の定義から言うと、立派な湘南かも知れません。
また逆に、鎌倉などはその低俗なイメージを嫌い、うちは湘南ではないと言い出すようになってしまいました。

公害の話は、また次回に。






2013年11月11日月曜日

OMGグローバル・スタンダード・フォーラム開催について

直前のご案内ですが、「OMG グローバル・スタンダード・フォーラム」が来る11月13日に下記の要領にて開催されます。
 筆者も、最後の方でSysMLの勉強法などを10分程度しゃべる予定ですが、フォーラムの主題はOMG会長ソーリー博士の基調講演を始めとして、「グローバル・スタンダード」が中心のテーマです。
従って、OMGの世界標準化活動に関心がある方は、奮ってご参加ください。




2013年10月28日月曜日

OCEB講座 第35回 日本型組織と海洋汚染問題 その6

海蔵寺






























上の写真は鎌倉のある禅寺の玄関から撮ったものです。
玄関から障子明かりの暗い部屋越しに奥の明るい庭を見せる構図が面白く、筆者のお気に入りの場所の1つです。



最近、東京オリンピックやリニア中央新幹線の話題をよく聞くようになって来ました。
恐らく、50年ほど前に行なわれた最初の東京オリンピックや東海道新幹線開業をモデルにした施策だと思いますので、改めて当時の状況を概観してみたいと思います。

昭和39年という年 (1964年)

昭和39年は、終戦の年である昭和20年(1945年)からわずか19年しか経っていません。
そして、この間に日本経済は目覚ましい発展を遂げました。
小説や舞台などでもたびたび取り上げられているように、第二次大戦前の日本は、貧困のために娘の売買が公然と行なわれる貧しい社会であり、また終戦時には国土は焦土と化し殆どすべての工業生産設備を失っていました。
戦後の最重要課題は当然経済復興でありましたが、当時の日本人の才能と努力、および経済問題に専念する事が可能となった幸運にも恵まれ、早くも昭和31年(1956年)には、有名な「もはや戦後ではない」と言う言葉に象徴されるように戦前の生産水準を取り戻し、昭和39年(1964年)には、当時世界最高速の鉄道、東海道新幹線を日本の自主技術で開業するまでに至りました。
わずか20年足らずでここまでの急回復を遂げた事は戦後の日本を語る上で最大のエポックであり、東京オリンピックが、単なるスポーツ・エンターテイメントを越えた象徴的な意義を持っていた事は、当時をよく知らない世代であっても十分想像がつきます。

また、当時の日本には国際競技大会を開催できるような設備が殆どなく、道路網も極めて劣悪でした。そして、オリンピック開催に向けた各種の建設工事が、文字通り死に物狂いのスピードで進められていました。

筆者は、東京オリンピックが開催された頃は既に生まれてはいましたが、幼児期だったので記憶は極めて曖昧です。 それでも、町の中心部からちょっと離れると、バス道でさえ多くが未舗装の砂利道、あるいは砂利さえ敷いていないどろんこ道だった記憶があります。
東名高速道路はまだ開通してなく、今では近場の行楽地となった伊豆の温泉でさえ、当時東京から自動車で行こうとすると12〜3時間、劣悪な道路を大揺れに揺られながら走ることを覚悟しなければなりませんでした。
オリンピックに伴う道路整備や高速道路などの交通網整備は、日本の経済活動をより促進させた事は間違いなく、また、それまで在来線で7時間かかっていた日本の2大都市圏である大阪−東京間が3時間あまりで結ばれた事も、ビジネスシーンに劇的な変化をもたらしました。
当時は、電話料金が極めて高く、かつ長距離通話が非常につながりにくい状況にあり、ビジネス・コミュニケーションには、人間の移動が必須でした。
オリンピックや新幹線が、社会インフラの整備に極めて役立った事は論を待ちません。

日本復興の象徴としてのオリンピック、劣悪な社会インフラの整備の象徴としての東海道新幹線の開通は、平成の今日まで、これらを凌ぐターニング・ポイントは存在せず、ある意味、昭和39年以降、時代が「今」になったと言えるでしょう。

昭和39年(1964年)の光と陰

昭和39年の明るい面を見て来ましたが、次に「暗」の面を見て行きましょう。
目覚ましい勢いで経済復興を遂げた陰で、様々な問題が引き起こされました。
当時交通戦争とまで言われた交通事故死者数の激増や残された犠牲者ー交通事故遺児の問題、都市圏での激烈な通勤ラッシュ、深刻な大気汚染、水質汚染等の公害問題 等々、様々な問題が経済発展の陰で発生して来ました。

その中から、本ブログでは日本型組織の問題、原発事故の近似性から公害問題をピックアップして議論したいと思います。

(続く)









2013年10月8日火曜日

OCEB講座 第34回 日本型組織と海洋汚染問題 その5

筆者が海洋汚染問題に関し日本型組織の問題にこだわる理由は、原発関連の問題に関し、技術的問題もさることながら、組織の問題の方がより大きなリスク要因だと考えるからです。
また今後の日本の発展にとっても、組織の問題が大きな障害になると思っています。

さて、最近パーソナリティ障害と言う言葉を耳にする事が増えて来ました。以前は人格障害と言う強烈なインパクトを持つ訳語が当てられていたものです。
パーソナリティ障害の中で筆者の興味を引くものに依存性パーソナリティ障害と言うものがあります。
いくつか特徴を書き出すと、
(注:非専門家の筆者が抜粋し訳したものであり、精神病の診断には使えません。精神病の診断は専門医にご相談ください。)

  • 一人で物事を決定できない ー 他者からの過剰な働きがけを必要とする。
  • 他者からの孤立を恐れ、反対意見が言えない。
  • 他者の賛同を得るために、長い期間の調整を行なう。
  • 他者からの過剰な支援がない限り、責任が負えない ー 責任を負うために他者を必要とする。
  • 新しい事を始める事に、強い困難がある。
  • 他者からの保護を常に必要とし、他者との親密な関係が終わると強い不安感に襲われる。
  • ・・・・ 等々
 相互依存関係的な文化慣習の多い日本は、この手の患者がさぞ多いのではないかと言うと、実際は逆で、欧米では病的と診断されるものも日本では病的と見なされず、患者は逆に少ないそうです。
さて、このリストの中の「他者を「組織」と読み替えてみましょう。
例えば、責任を負うために組織を必要とする、組織からの保護を必要とし、などと読みます。
当然どんな国の組織人も所属する組織にある程度依存しますが、日本の官僚主義の進んだ組織での依存度は突出して(病的と呼んでよいほど)強く感じられます。
これは、過去の日本(明治時代や武士政権など)と比較してもそうです。
極めて組織への依存度が高く、組織が最大の関心事となり、内向きな思考に走り、極端な場合、内部的な理由ですべての外部の事象に対処しようとします。
 上部の指導層が少々入れ替わっても、まるで金太郎飴のように同じ顔が現れ、組織の行動に影響を与えません。
 

2013年10月7日月曜日

OCEB講座 第33回 日本型組織と海洋汚染問題 その4

金沢文庫(称名寺)
金沢文庫に称名寺を訪ねたおりは、金木犀を植える家が多いせいか、甘い香りが通りにただよい、 秋が深まった事を実感させます。
枕草子に、「秋は、夕暮。夕日のさして、山の端(は)いと近うなりたるに、烏(からす)の寝どころへ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど、飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁(かり)などの連ねたるがいと小さく見ゆるは、いとをかし。」と言う一節がありますが、中学生の頃初めて読んだ時は、「烏(カラス)は知ってるけれど、雁(かり)がいったいどんな鳥なのか?、ひょっとしたら今の日本では絶滅してしまったのかな?」と首をひねった思い出があります。
清少納言によれば、少なくともカラスよりはさらに遥かに優雅な鳥である事は確かなようですが、 のちに雁は鴨科の鳥の総称で、家禽のアヒルと同種である事を知った時は愕然としました。アヒルは鳴き声も姿もとても優雅とは言えず、そもそも空も飛べません。

筆者は昔IBMに勤めていた事があるのですが、新入社員のころ「野鴨の精神」と言う話をよく聞かされました。
IBMを手回し式の計算機の会社からコンピュータ界の巨人と呼ばれるまでの大会社に育て上げた創業二代目の社長であるトーマス・ワトソンJr. 氏の言葉ですが、この話はデンマークの哲学者キルケゴールの次のような話が元になっています。
毎年秋なると、渡り鳥である鴨の群れは南へと旅立って行った。ある日、近くに住む老人が野鴨にエサを与え始めた。すると、冬になっても、その鴨の群れは南へと飛び立たなくなってしまった。飛ばなくとも食べ物にありつけるので、鴨たちは太っていき、飛ぶことすらしなくなった。そして、その老人が亡くなると、飼いならされた鴨たちは、もはや飛ぶことはできず、全て死んでしまった。」
飼いならされた家禽の鴨(アヒル)は本当に野鴨と同じ鳥かと思うぐらい姿形も性質も変わってしまい、太って飛べず、自分でエサを取る事すらできなくなってしまっています。
そしてワトソンJr.社長は、「ビジネスにアヒルは要らない。野鴨が必要だ。」とし、社員達に「野鴨の精神」を求め、「我が社は野鴨を飼いならそうとはしない。」と語りました。
 この話を初めて聞いた当時は、何か極めて当たり前の事を言われているような気分、例えば「雪は白い」と力説されたような気分になり、何の感銘も受けませんでしたが、後年、社会人生活が長くなり、この言葉の重さを実感するようになりました。
自分は、はたして野鴨の精神を維持しているだろうか? 自由な精神を持っていると言えるだろうか? 当たり前の事ほど難しいものです。

日本人は他国に比べ対人関係への依存度がかなり高い民族だと言われていますが、筆者もそれは事実だと思います。
 そして、大きな組織になればなるほど 、人間組織への依存度が強くなり、組織を離れると飛べなくなり、生活すらできなくなり、さらに極端な場合は、退職後も組織に面倒を見てもらい、ぶら下がって生きて行くようになります。
 さらに悲劇的な問題は、往々にして、そのような状況にあっても、自分が野鴨ではなくアヒルになっている事に気づかない事です。

2013年9月21日土曜日

OCEB講座 第32回 日本型組織と海洋汚染問題 その3

以前、ボストンに行った時の話です。
ある夜、生演奏つきのレストランでディナーパーティが催されると言うので、筆者も参加しました。
 その頃は、元西武の松坂投手がボストンレッドソックスに入団し活躍していた時期でしたので、自然に野球の話題になって行きました。
  斜め前に座っていた男性が筆者にどこのチームのファンなんだ?と聞くので、筆者は「日本を代表する名門チーム 阪神タイガースのファンだ。」と胸を張って答えた所、彼は、「じゃあ、カーネルサンダースの呪いの話を知ってるかい?」と聞いて来ました。
 カーネルサンダースの呪いは、阪神ファンにとっては身の毛もよだつ恐ろしい呪い、悪夢ですが、筆者は、「もちろん知ってるけど、なんでアメリカ人のあんたがそんな事知ってるんだ?」と聞き返しました。
 彼は、「カーネルサンダースの呪いは、アメリカ人ならみんな知ってる有名な都市伝説。特にボストンでは超有名だ。」と言います。
なんでも、ボストンレッドソックスには、似たような都市伝説「バンビーノの呪い」と言うのがあり、バンビーノと言うのはニューヨーク・ヤンキースで活躍した有名なベーブルースのあだ名だそうで、彼がレッドソックスから当時弱小だったヤンキースに追い出された際、レッドソックスに呪いをかけて80年以上もの間優勝できなくしてしまったそうです。
 悪事千里を走る: いい話はなかなか伝わりませんが、悪い話はあっという間に地球の裏側まで伝わります。
阪神タイガースの暗黒時代の話まで、全米に伝わっていたとは。

それにしても、カーネルサンダースと言い、ベーブルースと言い、世の中にはすごい呪力の持ち主がいるものです。

日本型組織に現れる幼児性の問題

 海洋汚染が発表されたおり、日本政府の関係者が揃いも揃って無責任な責任忌避発言を行ない、最後は首相が全責任は自分にあると明言するまで、国際世論がおさまらなかった事は皆様の記憶に新しいと思います。
この責任忌避の発言ですが、みな共通の属性を持っていました。
いくつか思い出すまま書き出すと、
① 政府の管理責任能力があるのか問われているのに、あたかも責任は前政権あるいは東京電力にあるような発言。 ー 仮にすべての原因が前政権、もしくは東京電力にあったとしても、管理が杜撰であって良いわけはなく、現政府の管理責任が逃れられるわけではない。
② 国会で、政府内の責任体制、つまりどの部署がどのような責任を負っている問われた際、 責任体制は定義されてないと答え、責任追及を逃れようとした。
③ 汚染水の海洋流出はないと明言していたのに、なぜ流出したのか?と問われているのに、流出量は僅かだと主張。
等々、露骨な責任忌避ですが、共通して、言い訳が非常に子供っぽいのです。
また、非常に印象的だったのが、原発事故のすぐ後ですが、国会で、直接原発を監督する政府機関のトップが国会で、自分は文系で原発の事はよく解らないと言って責任追及を逃れようとしたのも、同じ部類でしょう。

はたして責任と言う概念が彼らの頭に中に存在するのか思わず疑いたくなりますが、次回はこの問題について議論したいと思います。



2013年9月19日木曜日

OCEB講座 第31回 日本型組織と海洋汚染問題 その2

放射性物質による海洋汚染の問題が明らかになった時ですが、汚染の事実と同時に、政府関係者の相次ぐ無責任な発言が、国際世論を刺激し、大きな反発を浴びた事は、皆さんのご記憶にも新しいと思います。
そして結果として、汚染物質流失の経緯等の問題点や分析、対策等への説明責任は、現在、日本政府の事実上の国際公約となっており、議会の持つ強力な調査権の行使とともに高い優先度を持って早急に処理される事が期待されています。

従って、このブログでは、それ以外の話題、日本型組織の問題点について議論したいと思います。
というのも、今回の政府関係者の発言が、端無くも、日本型組織の問題点を如実に表しているように見えるからです。

2013年9月14日土曜日

OCEB講座 第30回 日本型組織と海洋汚染問題 その1

今から30年ほど前、筆者が大学生だった頃ですが、精神科医の故土居健朗先生が著された「甘えの構造」と言う書物が学生たちの間でベストセラーになったことがあります。
当時、筆者が通っていた大学の生協でも長い間 ーたぶん1年間以上ー この書籍が売上げトップの地位をキープしていました(当時、大学生協の店舗には書店ごとの書籍の売上げランキングが毎週貼り出されていました)。

「甘え」という日本では極めて一般的な単語が、西洋語では日常語としては存在せず意識の表層には現れて来ない概念である、という指摘が、当時の学生には大きな驚きでした。
日本人は、通常「甘え」という感情には極めて敏感であり容易に気づく事ができ、また日本人社会はその「甘え」を受入れ人間関係の構築の上でもよく利用しています。
しかしながら、「甘え」と言う言葉が西洋の日常語に存在しないからと言って、その感情が全くないわけではなく、幼児期などには当然あるわけですが、成長するにつれ他者依存を捨て自己自立を促すように躾けられ教育されて「甘え」の感情が抑圧された結果、意識の表層から消えてしまうようです(詳しくは、土居先生の著作を参照)。
従って、日本人の甘えの関係(甘え合う相互依存の関係)は、往々にして西洋人の目には非常に子供っぽく映るようです。
また、同じ日本人であっても、「甘え」の受入れ度合いは、かなり異なるようになって来ました。とくに、世代差が大きいように思えます。
これは、戦後、海外の映画やテレビドラマ、ポピュラー小説などがどんどんと国内に流入し、また、西洋人と日常的に交際する必要がある日本人達が増えて来ているためで、西洋人の自己の自立を良しとする文化の影響を多かれ少なかれ被って来ています。
筆者が新入社員だった頃を思い返すと、社内で、いい歳をしたオジサンやジイサン達(新入社員から見ると、五十代以上はジイサンに見えました)が 甘え合っている姿を見て気色悪いなと思っていましたが、今や、我々の世代が、若い人から見ると、そう言う風に映るようです。
筆者は職業柄、若い人とコミュニケーションをとる場面が多いのですが、若い世代は我々の世代以上に自立した人間関係のほうがクーゥ(Cool:カッコいい)と感じているようです。
 しかしながら、若者や筆者を含め多くの日本人は「甘え」の関係の美点、良さも認めています。
「甘え」の関係は、日本社会の美質の1つと言っていいでしょう。

海洋汚染問題について

ところが、この「甘え」の関係も、美点ばかりではありません。
 筆者は1年ほど前に原発事故の話を連続してこのブログで取り上げた事がありますが、最近しないのは、興味がなくなったわけではなく、報道されている情報がどの程度真実を伝えているのかおおいに疑問であり(この疑心暗鬼は、国内だけではなく海外を含む多くの人々に共通するものであり、いわゆる風評被害の根本原因の1つだと思います(悪い風評は海外にも広く伝わっています))、筆者のような一般人が想像力を逞しくして語るべき話題ではないと判断したからです。

 しかしながら、先日、汚染水が海洋に流出していると言うニュースが世界中を駆け巡りました。
 技術的問題とは別に、日本人には原発問題の管理責任能力があるのか? 事実をもとに科学的にマネジメントを行なう能力があるのか?と言う強い疑いの声さえ耳にするようになって来ました。

従って、今回は日本型組織の管理責任能力について述べて行きたいと思います。

次回に続く




2013年9月9日月曜日

SysMLの組織展開 その3

暑かった夏も終わり、朝夕は随分涼しくなって来ました。

OMGからOCSMPのモデルユーザー資格試験が日本語でリリースされた事を記念して、OCSMP対策講座を予定しております。
ご興味のある方はふるってご参加ください。

詳しくはこちら


教訓 2 ツールとプロセスがむしろ本質的な問題である。

モデリング・ツールの例として、ソフトウェア開発の例を挙げてみましょう。
というのも、システムは人間系を除けば、ハードウェアとソフトウェアから構成されますが、最近の開発では両者の開発の問題は急激にその類似性を深めて来ており、また開発プロセスも密着不可分の関係になって来ています。

例えば、問題の解決のためにあるモジュールに変更を加えたとしましょう。
幸いにも変更の程度は軽微でした。
さて、その変更の影響はどうでしょうか?
変更が軽微だからといって、影響も軽微であるとは言えない事は、読者諸賢の過去の暗い/痛い経験からもお分かりの事だと思います(失礼!)。
そこで影響を調べる上で、その調べるべき範囲を調べる事になります。
 まず変更が加えられたモジュールと直接関係するモジュール群を調べるのは当然として、さらにそのモジュール群と関係するモジュールへの影響はどうでしょうか?
そして、さらにそれらのモジュールと3次的に関係するモジュールは?4次的、5次的な影響は?と言う風に範囲は連鎖的に広がって行きます。
 小さいシステムの場合は良いとして、大きなシステムで膨大な量のコードを人手で追いかけて行くとなると「冗談は佳子さん(<注>佳子は”よしこ”と発音)」と言う事態に陥ってしまい品質の確保が難しくなって行きます。
 そこでツールを使用して影響範囲を調べる事になります。
人手でやると相当な時間がかかる作業もコンピュータだとあっという間に正確に処理されます。
実際、モデリング導入の成果として得られる品質や生産性の向上は、このツールの使用に負う所が非常に大きいのです。
またモデリング言語自身もツールで使用する事を大前提として設計されており、 ツールとのコラボレーションによってその威力を発揮します。
また複雑なシステムではソフトウェア開発とハードウェア開発プロセスのコラボレーションが必要になって来ます。
最近の研究では、価値を生み出すのはプロセスであると考えられています。
ツールとプロセスはマネジメントとして重視すべき項目である事は論を待ちません。



OCSMPモデルユーザー対策講座

- SysML - の資格試験であるOCSMPの受験コースを開催します。

OMG認定資格試験 OCSMPの入門レベルであるモデルユーザーの対策講座です。
従来は2日で行なっておりましたが、講義時間を1日に短縮し、問題演習をE-ラーニング形式で行なう形式で行なう事になりました。
  • 日時 次の2つのコースを現在予定しております。
    • 11月29日(金)  10:00〜17:00 もしくは
    • 11月30日(土)  10:00〜17:00 
次の2コースは定員到達につき募集終了
    • 10月28日(月) 10:00〜17:00  もしくは
    • 11月 2日(土) 10:00〜17:00
場所:東京神田地区

詳しい情報は、こちらまで(クリック)



2013年8月10日土曜日

SysMLの組織展開 その2

前回の続き

教訓1. SysML、モデリングの導入は投資活動であり、技術の問題ではなく、マネジメントの課題である。

開発コストは増大する

SysMLに限らずモデリング技術を導入すると、一般的に言って、初期の開発コストはむしろ上昇します。
そして、その代わりに開発の品質が上がる事が広く知られています。
特にドキュメントの品質が劇的に上がります。
従って、開発後の保守コストや、システムの改訂に要するコストが下がり、最終的なTCO(Total Cost of Ownership)が下がる傾向があります。
このような性質から、モデリングをベースにした開発には向く分野、向かない分野があり、品質を重要視するシステム、たとえばミッションクリティカル、あるいはセーフティクリティカルなシステムや、変更が多いシステム等が向くと言われています。
ライフタイムが長いシステムが向くと言われていますが、ライフタイムが長くても変更が殆ど発生しないシステムもありますから、一概には言えません。
 また、後述の理由から、複雑なシステムほどモデリング導入の効果は大きく、単純なシステムでは差が出ず割高となります。


2013年8月5日月曜日

SysMLの組織展開 その1

鎌倉アルプスから稲村ケ崎、相模湾を遠望す
先日、鎌倉アルプスへ登って来ました。
登ると言ってもせいぜい100メーターちょっとの山であり、筆者の自宅からも見える裏山みたいな近場ですので、いつでも行けると思ったままずっと行かなかったのですが、とうとう意を決して登って来ました。
低い山ですが、登ればそれなりに発見もあります(注:あくまでも、筆者にとっての発見です)。
一体に鎌倉周辺の山には古道の痕跡が多く見られますが、鎌倉アルプスも例外ではなく、道の痕跡が、地形や場所によっては石造物の残骸として残っています。
日本の山道は気候や植生のせいで、あまり歩かれなくなると途端に ーせいぜい数十年のうちにー 樹木や草に覆われて完全に歩けなくなってしまいます(つまり、道でなくなってしまいます)が、地形としては結構長く残っている場合があります。
一説には、鎌倉時代、いわゆる鎌倉七口以外に、大倉幕府方面からこの鎌倉アルプスを直登し、直接奥州へ向う街道があったのではないかと言われていますが、山路を歩いていると何と無くその説に説得力を感じます。
源頼朝の時代、奥州平泉の藤原氏を倒したのち、現在の二階堂の地に、戦死者の怨霊を鎮め冥福を祈るために、平泉の中尊寺を模した永福寺を建立したと言われていますが、頼朝の館である大蔵幕府から見て、永福寺は奥州と同じ方向、東北方向であり、先ほど述べた幻の奥州街道の入り口付近に位置します。

SysMLの組織内展開について その1


最近、社内にSysML、あるいはモデリング技術/文化を導入しなければならなくなった、という話をよく耳にするようになりました。
聞くとたいてい顧客や提携先(それらの多くは海外勢)の要求らしく、ワラをもつかむ思いでしょうか、筆者も意見を求められたりします。
筆者も、モデリング業界 - そんな名称の業界があったとすればですが - に無駄に長く滞在してきましたので、国内外の成功や失敗に伴なう悲喜劇に立ち会う機会があり、本日はそれらの中から日本企業が陥りやすい問題を教訓の形でまとめて、書いていきたいと思います。

教訓1. SysML、モデリングの導入は投資活動であり、技術の問題ではなく、マネジメントの課題である。

開発コストは増大する







2013年6月1日土曜日

OCEB講座 第29回 Why BPM? グループシンク

東慶寺
左の写真は、今から700年ほど前、元寇の時の執権であった北条時宗公の未亡人、覚山志道尼が開創した東慶寺の山門です。
この寺は江戸時代まではずっと尼寺であり、別名、縁切寺、駆け込み寺とも呼ばれ、数少ない女人救済の寺でした。

グループシンク(集団思考)


前回はノモンハン事件について書きました。
日本軍内部の精神論者は、現代の視点で見ると、かなり異常性を帯びているのですが、その絶対的な勢力は終戦まで揺るぎませんでした。
異常性の一例を挙げると、ノモンハン事件の際、兵の無意味な損耗を避けるために、部隊を撤退させた連隊長が何人かいたのですが、彼らはその撤退の判断を責められて自決させられています。
そして撤退を否定された以上、 日本兵は前に進むしかなくなり、敵が待ち構えている事がわかっている戦場へ突進し敵軍の格好の標的となって全滅する、と言うプロセスを繰り返すことになります。
ちなみに、なぜ全滅したかと言うと、日本兵は生きて捕虜となる事を恥辱と教え込まれていたので降伏せず死ぬまで戦ったからです。

ノモンハン事件が終わり、勝利したソ連軍の将軍はモスクワに戻った後、スターリンに対し日本軍について次のように報告しています。
 「日本軍の下士官は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である。」
この高級将校が無能と言う評価は、大東亜戦争を通して日本軍と戦った連合国軍側の将兵にある程度共通する認識ですが、残念ながら現代の日本人から見ても、否定はできません。
むしろ後世から見て、彼らの無能さは「滑稽なほど無能」と言う形容さえ似合うほどひどいものに映ります。
 その滑稽味は、彼らが信じていた根拠の無いーあるいは結果を生まないー思い込み(精神威力の効果などが代表的です)とともに、何度失敗しても事実を直視せず事実から学ぼうとしない頑な態度に大きく起因します。
 日本軍の高級将校たちはいわゆるグループシンク状態に陥っており、異論を受け付けず、異論を唱える者を徹底的に攻撃しました。
ちなみに、このグループシンクと言う言葉は比較的新しい単語ですが(OCEBにも出題される可能性があります)、概念そのものは日本にも古来からありました。
 戦国時代、日本の武士たちは、戦(いくさ)評定の際はいかなる発言も許され、撤退を含めどんな選択肢も、あるいは一見馬鹿げた可能性についても吟味し、事実に基づかない集団的な思い込みの状態(往々にして根拠の無い期待の状態)へ陥るリスクを回避しようとしました。

無能と評された日本の高級将校ですが、彼らは自分たちは決して無能だとは思っていなかったというのもグループシンクの特徴です。
以前紹介したインパール作戦の司令官は、作戦の失敗は自分の無能のせいではなく、部下が無能だったからだと言ってのけています。
現代を生きる我々にとって他山の石とすべき教訓です。

2013年5月25日土曜日

OCEB講座 第28回 Why BPM? ビジョンの問題


カフェテラス 入り口
源氏山の山道を歩いていると、コナラの木(?)の下に「カフェテラス」の看板を見つけました。
林の細道を降りて行くと、山の中腹の林間の斜面を利用したカフェテラスが現れました。
宮沢賢治の童話にでも出て来そうな樹間の空中庭園です。

目的の喪失と組織の影響


 筆者の友人にP君と言う東南アジア出身で日本の大学を卒業し、そのまま日本企業に就職しSEをしている人がいます。
浅黒い肌と黒い大きな目が彼の特徴で、その黒い瞳をキラキラさせながら、将来は母国に帰って自分の会社に建てると頑張っています。
そんなP君ですが、珍しく不満げな面持ちをして筆者に次のような話をしてくれました。
P君は日本と彼の母国の開発部隊との間のリエゾンSEの役目を担っているそうですが、故郷のプログラマー達から「P君の送って来る要件仕様は非常に正確できめ細かく助かっているが、なぜその仕様になるのか理由が解らないために、非常にフラストレーションがたまる。」と言われたそうです。
P君自身もそれは感じていた所だったので、自分の語学能力の問題だと思って日本人の同僚たちに要件がそうなる理由・背景を尋ねた所、驚いた事に同僚達は「そんなの知らない。顧客がそれを要求していると言うことで十分じゃないか。」と言われたそうです。
 P君は、「日本人は指示の理由や目的を上司や顧客に聞く事を悪い事と思っている〜 これじゃSEワークにならないじゃないか〜!」と不満を訴えています。


さて、日本人の名誉のために言うと、P君の指摘は一部間違っています。
日本人が目的に鈍感なのではなく、日本の大きな組織に入った人間が10年ぐらいの訓練を経た結果、完璧に鈍感になることができるようになるのです。
「君も頑張って10年ぐらい会社で働いていると完璧な鈍感になれるよ。」と言ってP君を励ましましたが、ひよっとしたら逆効果だったかもしれません。

この話を聞いて、むっとした組織人の方もいらっしゃると思います。
しかし、組織は個人の思考形式に驚くほど大きな影響を与えます。


ノモンハン事件

ノモンハン事件と言う戦いが大東亜戦争の数年前に満州の地でソ連軍相手に行なわれ、日本軍は大敗しました。
 陸軍の本部は前回にも触れたように明確な態度を欠き、その間、満州にいた関東軍が暴走したと言う構図ですが、本部、関東軍の両者に共通していたのは、ソ連軍に対する過小評価 ーあるいは軽侮、慢心と言った方が正確かもしれませんー でした。
陸軍本部側は、たいして意味のない作戦に大量の兵力を投入し無意味な消耗を強いる事への懸念を示したのに対し、現場の関東軍は統率上の必要性を唱え、勝敗よりもむしろソ連軍が撤退してしまう事を心配していました。
本部、関東軍とも勝利は疑わなかったわけですが、結果は膨大な戦死者を出して大敗に終わりました。
 戦いの経過は、その後の大東亜戦争の日本軍の戦いぶりを予感させるものでした。
直接の敗因は兵力・物量の差ですが、日本軍はソ連軍の兵力や物資の移送能力を過小評価し、自分たちと同程度だろうと十分な根拠も無く決めてかかり、ソ連軍がほぼ毎日偵察機を飛ばして関東軍の動勢を探っていたのに対し、関東軍は十分な偵察活動をしないばかりか、本部から寄せられる自軍にとって不利な状況にあるとの情報を無視し続け、自分たちに都合の良い情報のみに基づいた作戦を遂行した結果、ほとんどの部隊が敵に撃破され、撤退の判断をためらいずるずると遅延した結果、壊滅の状態で戦いは終わりました。

学習しない組織

日本側はノモンハン事件終了後、作戦失敗の研究を行いましたが、その報告書はたいへん興味深いものがあります。
日本軍の研究班は兵力・物量の格差を認めています ー いわく、砲兵力不足、架橋能力不足、後方補給能力不足、通信能力不足。
そして兵力以外の要因として、敵戦力の過小評価や軽侮に加え特定の師団に対する任務過重を問題視しています。
興味深い点は、今後日本軍の取るべき道筋として、火力戦闘能力の飛躍的な向上とともに、物的戦力の優勢な敵に対しては日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきだ、としている点です。
林の中のカフェ
歴史的に言うと、昔の戦争はむしろハングリービジネスであり、貧しい方が結構(精神力で?)勝っていましたが、20世紀以降、特に第一次大戦以降は完全に物量戦の時代に変わってきました。
しかしながら、日本軍首脳部は大東亜戦争を大敗北で終結するまでその変化を認めませんでした。
日本軍はノモンハン事件以降、何度も物量の差で負けて学習するチャンスが度々あったのですが、面白い事に、物量の差で負ければ負けるほど、むしろ内部では精神論者の方が優勢になって行きました。








2013年5月14日火曜日

OCEB講座 第27回 Why BPM? ビジョンの問題

浄智寺 山門
源氏山への登り口はたくさんありますが、北鎌倉側からですと浄智寺が一般的です。

 浄智寺は北条氏が建立した鎌倉五山第四位の禅寺です。

皆さんご存知の通り、北条氏は鎌倉時代には事実上の日本の支配者でしたが、他の時代の支配者と比べ華美に走らず、鎌倉中にいくつも禅寺を建て、どの寺も質素剛健の印象が強く、一言で言うと風変わりな支配者でした。


ビジョンの問題 ー 目的の喪失


「失敗の研究」は、様々な日本の組織的問題を揚げていますが、このブログでは、指摘された問題を、出版後30年経った現代の視点で未だに大きく残る問題(その多くは、筆者の視点では、当時より、さらに悪化しています)をピックアップして議論して行きたいと思います。
そして最後に最大の謎(もっとも筆者にとっての謎ですが)、なぜ日本では組織的問題が増大し続けるのか?についても議論したいと思います。 

あいまいな戦略目的と作戦目的との不一致

大東亜戦争での日本軍の中枢部から示される戦略目的は極めてあいまいで発散的であり、極端な場合は両論併記ーいわゆる玉虫色であり、後付け的な対応と追認的な態度とが相まって、この時点で既に敗北を運命付けられていた観があります。
また戦略目的が不明瞭ですので、現場の解釈はさらに発散し、作戦目的はバラバラになり中途半端なものになって行きます。
そしてついには組織から目的が失われ、何のための作戦か解らないものが作られ実行に移されて行きました。
インパール作戦はその典型例の1つであり、莫大な犠牲(参加人員10万人中戦死者3万人、戦傷戦病で後送された者2万人、残りの5万人のうち約半数は病人であったと言う)を払って惨憺たる失敗に終わり、作戦が中止された時には、確保していたビルマの防衛も失ってしまいました。
なお、この作戦に参加した3個師団の師団長全員が作戦途上で解任・更迭されると言う異常事態を生みました。
この作戦など仮に成功していたとしても大勢に影響は無く(端的に言えば、日本軍の最大の敵である米軍にとっては痛くも痒くもない戦略上の要地でもない失地)、司令官の点数稼ぎのための作戦だったと言われています。
ちなみにこの司令官は、当時の日本軍の基準でも無能の極みでしたが、上層部のおぼえがめでたかったのか、責任を問われる事もなく、その後も陸軍に居続けました。

2013年5月11日土曜日

OCEB講座 第26回 Why BPM? ビジョンの問題

源氏山公園
「♬源氏山から北鎌倉へ〜 あの日と同じ道程で〜 たどりついたのは縁切寺〜♪」と、鎌倉のテーマソング「縁切寺」を口ずさみながら、佳日、源氏山を歩いてきました。
「♪今日の鎌倉は人影少なく、思い出にひたるには十分過ぎて♫」、と言う歌詞の通り、連休中ですが、朝のうちは行き交う人もまばらです。

日本軍の組織的問題

前回話題に揚げた「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」と言う本ですが、お読みになっていない方もおられると思いますので簡単に紹介したいと思います。

この書物では、「大東亜戦争で日本軍はなぜ負けたか?」と言う疑問には、日米の国力の差があまりにも大きい現実的問題に打ち当たり、「そもそも日本はなぜ無謀にも大東亜戦争に突入してしまったのか?」と言う疑問に転化してしまうが、この書では、あえてその問題には触れず、日本軍の諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、現代日本の組織の教訓、反面教師として活用する事が狙いである、としています。

 戦争は錯誤と偶然の連鎖であり、個々の作戦では不思議の勝ちがあったり意外な負けがあったりする不確実性の集合体ですが、より大局的には要諦となるべき戦略的な要因が戦争の行く末、大勢に大きく影響する事が古くから知られています。孫子の兵法などは、戦略論の嚆矢でしょう。

日本軍の諸作戦の組織的問題ですが、少数の成功例を除き、大東亜戦争では惨憺たる状況でした。これは、彼我の戦力、物量の差の問題ではなく、例えば、決定に要する時間が極めて長くかかり、ある戦場では撤退を決めるまでに数ヶ月間を空費し、その間に大部分の兵士が餓死してしまった、とか、いつも攻撃のパターンが決まっており、敵に完全に読まれているにもかかわらず同じ攻撃パターンを何度も繰り返し大敗している(あるいは、外目には、敵に読まれている事すら気づいてないかのような行動パターンをとり、敵軍に気味悪ささえ感じさせている)、と言った問題など、現代の日本の官僚主義の蔓延した組織にも共通してみられる現象です。
また、これらの失敗は、けっして敵軍との戦力差が大きい局面に限った話ではなく、日本軍の方が戦力的、物量的にかなり優位に立っていた戦場でも見られ、外部要因ではなく、明らかに日本軍の内部的問題です。

2013年4月10日水曜日

OCEB講座 第25回 Why BPM?

鎌倉
左の写真は鶴岡八幡宮の源氏池で撮ったものです。
今年は桜の開花が早く、今週あたりが盛りで、ちらほら花びらが舞い始めています。




と、このブログを先週、書き始めたのですが、その後、1週間ほど中断した結果、桜はすべて散ってしまい、今では花びらの一枚も落ちておらず、鎌倉は完全に新緑の風景に変わってしまいました。
花の移り変わりが速いのか、筆者の筆が遅いのか(多分 後者)、もう鎌倉にはこの写真のような桜は残っておりません。

旧日本軍の亡霊

 本日は、以前のプロマネブログでもちょっと触れた事がありますが、現在の日本の組織の問題と旧日本軍の抱えていた問題の相似性について議論したいと思います。
この問題はバブルの頃には既に指摘されており、「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」と言う名著が80年代半ばに世に出ています(今では文庫化され、古典となって読み続けられています)。
この書は必ずしも軍事の専門家ではなく組織論の専門家の方々の手になるものであり、組織の問題を扱う人間にとってはたいへん興味深いものです。

旧日本軍の組織的問題に関して詳しくは上記の書物にあたって頂くとして、このブログでは、30年前にこの書物によって指摘された問題が、(この30年間で日本も世界も大きく変わったにもかかわらず)いまだに何の変化も無く日本の組織を覆っているのか、現代の視点で見てみたいと思います。



2013年3月26日火曜日

OCEB 第24回 Why BPM?


源氏池
前回は、開発部門がドキュメンテーションをモデル化しようとした結果、組織内にコンフリクト(紛糾)が発生し、結果として開発部門が旧来のテキスト形式と新しいモデル形式の2重の作業をしなくてはならなくなった、と言う事例を紹介しました。

コンフリクト(社内の紛糾)に対する態度


世間ではコンフリクトは、組織にとっては往々にして問題児が引き起こす非効率性、混乱と見なされがちですが、最近のマネジメント理論では、『コンフリクトは変化に対して組織内に当然起るものであり、それ自身に大変に価値があるもの』とし、マネジメント・トレーニングではコンフリクトに対し積極的に前向きに取り組むよう教えられるようになってきました。

今回の事例では、開発部門が従来と異なる(モデリング)言語を使用したいと言い出せば関係部署との間にコンフリクトが発生するのがむしろ当然であり、その結果として、積極策としては社内の開発標準やプロセス標準を作ろう、あるいは見直そうと言った改善のチャンスに繋がって来ます。
また組織全体への波及効果を最大に持って行く戦略の策定の引き金にもなり得ます。
事実、例えば品質保証部としては、ソースコード・レベルのテスト(従来の潜在バグ分析とかテストの網羅性(カバレッジ)分析とか言った手法等)だけでは不十分な分野が増えて来ており、要求分析や設計段階での品質チェックがますますその重要度を上げて来ていますが、モデル化はそう言ったレベルでのチェックの大いなる助けとなります。(現実的には、システムの複雑度が増すと、テキスト・ベースでは精度の高いチェックが事実上不可能になってきます。)
モデル・ドリブン・テスト、もしくはモデル・ベース・テストと呼ばれる手法もその一分野です。

ところが今回取り上げた事例では、開発部門は従来の手法と新しい手法の二重化が要求されてしまい、本来生産性を上げるつもりで取り入れたはずの手法が、かえって自分たちの作業負荷を増やすだけの結果になってしまいました。

つまり、生産性を上げると言う目的に対し、その目的を無視し、逆に生産性を下げる手続きを強いられる結果となってしまいました。
 この目的の不在化(あるいは手続きのための手続き化)は、官僚主義が蔓延した組織によく見られる特徴であり日本だけに存在する問題ではありませんが、日本の特殊性は、その目的の不在が常態化し、誰も不思議と感じず、あらゆる組織に(往々にしてそれほど大きくない組織にも)遍在する点です。

経済産業省の調査資料によると、IT活用の効率性は製造業では米国の54%、非製造業では米国の14%だそうです。
逆に言うと、同じ結果を得るために日本はITに対し米国の約2倍(製造業)もしくは10倍近く(非製造業)のコストがかかっていることになります。

日本の製造業の国際市場での存在感の低下傾向(非製造業の存在感は昔から無に近い)と無関係な数字とは思えません。

筆者は、日本のIT投資の非効率さは、モデリング等の技術的な問題を遥かに超え、戦略とマネジメントの問題だと感じていますが、続きは次回に。

2013年3月19日火曜日

OCEB 第23回 Why BPM 6

七里ケ浜
前回は(と言っても随分前になってしまいましたが)、筆者の属する世代の話を書きましたが、これは、一言で官僚主義と言っても国によってその状態が異なり、日本は日本独自の理由で官僚主義に陥り、独自の官僚主義が形成されている事を、他国との比較で議論するために、筆者の世代の相対主義を話の枕にするつもりだったからです。(官僚主義は決して日本の専売特許ではなく、あらゆる国のあらゆる大組織で見られる現象ですが、どうも日本には日本固有の官僚主義がありそうです。)

さて本日は、筆者のまわりの話題から筆者が日本独自と考える官僚主義の具体的な一例を挙げてみましょう。

30年ほど前、筆者はアメリカのソフトウェア関係の開発部門にいた事があります。
当時のソフトウェアの開発部門のワーキング・スタイルは、日米にそれほどの差異はなく、製品開発は基本的にアセンブラ言語で生産性は高くなく、非常に多くのプログラマや設計者が長期間に渡って1つの開発プロジェクトに携わり、毎朝会社に来て長時間に渡る会議の合間に設計やプログラミングをし、カフェテリアで同僚達と雑談を交わしながら昼食を摂り、夕方になると帰宅していました。
そして、それから時は流れ、かつての同僚達の職場は随分変わりました。
職場に開発ツールが導入され、多くのエンジニア達は在宅勤務となり、ツール上で開発やテスト、そしてコミュニケーションを行ない、人それぞれのワーキング・スタイルを取って働くようになりました。また人数的にも少数精鋭になって来ました。
方や我が日本の方は、ソフトウェア開発の現場に開発ツールを導入して生産性を揚げようとする意識が薄く、またワーキング・スタイルも30年前とほぼ同じ状態を続けていますが、ツールやワーキング・スタイルは本日の議題ではありません。
日本の開発現場でも最近になってようやくモデリングが普及して来て、ある会社ではドキュメントがモデリング言語で書かれるようになった開発現場も増えて来ました(多くはドキュメントの品質向上を直接の目的にし、最終的な生産性向上を狙っての措置です)。
ところが開発部門がプログラミング作業の一部を外注に出す段になって、購買部が、外注先がそのモデリング言語が読めるにもかかわらず、購買部で外注先を管理する手続き上、従来の設計書式で提出するよう要求され、開発部門では仕方なく、設計を昔の方式に書き直したそうです。
これに似たような話は他でも聞きます。 品質保証部が新しい設計図が読めないから(あるいは自分たち使用している品質メトリックスに合わないから)、昔の設計手法で書いてくれと要求して来たと言う話もあります。
これらの話に共通するのは開発部門はそれらの要求を受けてわざわざドキュメントを従来の方式に書き直し、それを変とも不思議とも感じない点です。
サポート部門が開発部門の生産性を下げているのですが、長年に渡ってそんな状態が続いた結果、サポート部門の役割は開発部門の邪魔をする事だと、思い込むに至ってしまったように思えます。









2013年1月30日水曜日

OMG+IPA ジョイントセミナーのお知らせ


巻向遺跡(邪馬台国?)
来る2月15日午後一時より、OMGとIPAのジョイントセミナーを開催致します。
筆者も講演者の一人として、主にSysMLの標準化の話題と、超大規模システムへの挑戦と題し、分散リアルタイムシステムとフォールト・トレランス・システムの統合戦略のお話をする予定です。
OMGでは、システムの物理的側面に焦点を当てたシステム・モデリング(SysML) のアプローチと、論理的側面(ソフトウェア)に焦点を当てたアプローチの2つのグループが存在しております。
2つのグループが必ずしも仲が良いわけではないのですが(笑)、お互いに他のアプローチの必要性は認め合っています。
特に 超大規模システムと呼ばれる分野では、システムが極めて複雑怪奇になって行き(怪奇は筆者のペンの走り)、システム特性の大部分がソフトウェアに依存する状況となった今日、システム設計者はソフトウェア工学の知識が必要であり、ソフトウェア設計者はシステム工学の知識が必須(これはソフトウェア工学の誕生時からそうですが)です。

また、分散リアルタイムシステムと、高信頼性を実現するためのフォールト・トレランス性は、従来、別々に論じられて来ましたが、超大規模システムではそれぞれの要件を同時に満たす必要があり、それらを統合するアーキテクチャ・ワークが行なわれて来ました。
筆者の講演では、その統合戦略とアーキテクチャの設計思想を議論したいと思います。
複雑度の高い(あるいはソフトウェアへの依存度の高い)システムの設計者や、ソフトウェアのアーキテクチャ・ワークにご興味をお持ちの方は、下記リンクから、お申し込みください。

セミナー案内・参加申込み: 
 高信頼システムを実現するシステムズエンジアリングとシステムアシュアランス





2013年1月5日土曜日

OCEB講座 第22回 Why BPM 5

東大寺 大仏殿
筆者の世代は、20歳代で冷戦時代&バブル時代(1980年代)、30歳代をポスト冷戦&バブル崩壊過程(1990年代)の中で過ごしましたが、この時代変化は多くの人々に物的精神的両面に多大な影響を与えた事は事実でしょう。

80年代になると円高や好景気を背景に、日本人が海外で働く事が一挙に一般化しました。
70年代以前は海外勤務と言うのはまだ珍しく、限られた人々だけのものでしたが、80年代以降、いわゆるエリート層だけではなく普通の人々ー大衆が海外勤務に就く事になりました。
この流れはその後途絶える事なく現在に続きます。
 筆者も20代の頃アメリカで働いたことがありますが、そこでアメリカを発見する事になりました。
今の時代に「アメリカを発見」と言う言葉は大げさに聞こえるかも知れませんが、実際、冷戦下の日本のマスコミはやたら社会主義、共産主義を礼賛する傾向が強く、ソ連や文化大革命などを賞賛したりする一方、日本やアメリカを強く批判し、 海外の情報が相当に歪んだ形で国内に伝わっていました。
日本独自の見解を持つ事は大切ですが、国外の情報を正しくつかむ事も同じぐらい重要です。
 当時のマスコミが伝えるアメリカ像も相当に歪んだものであり、筆者も現実とのキャップに驚かされた一人でした。
 そしてアメリカを発見する以上に日本を発見することになります。
 アメリカで生活をする上で自分の内なる日本人を意識せざるを得ず、また海外から見る世界の中の日本と言う視点も日常的に加わります。
こういった体験は明治時代は国費留学生等のエリートだけのものでしたが、80年代には筆者のような一般大衆のレベルのものになって来ました。
かつてエリートだけが海外渡航していた時代には、相対的な日本観を口にする事は極めて危険な行為であり、「アメリカでは ・・・」とか「おフランスでは・・・」と言う発言は誤解を呼びやすく「西洋カブレ」とラベルを貼られたり、組織の中で浮いてしまい攻撃を受けたりするリスクが非常に高かったのですが、相対的な日本観が大衆化した今では、世代にもよりますが、かなり普通になって来つつあります。
 とは言え、21世紀の現代でも筆者などが海外事例の話をしていたりすると、『西洋カブレ』に類するような批判を受けたりする事がたまにあるぐらいですから、かなり根深い感情です。
 ちなみにこのような批判に直面した場合、筆者などは苦笑するだけであえて反論をしません。
理由として大きく2つあり、1つは、事実として筆者自身、相当に「西洋カブレ」している点です。カブレかたもかなりひどく重度の重傷であることを認めざるを得ません。
もう1つの理由は、「西洋カブレ」と批判する御本人が筆者に負けず劣らず相当にカブレている事です。
つまり、猫がほかの猫から猫顔を批判されているようなものであり、猫顔を批判する猫と批判される猫の違いは、鏡を見た事があるかないかの違いです。

言い換えると、我々の世代は、大衆レベルで多くの人が日本を外から見るチャンスを得始めた嚆矢と言えます。
筆者の世代では、決して多数派とは言えませんが、一定の割合で海外勤務の経験者が増えて来ました。
統計的な数字は持っていませんが、個人的に学生時代の友人を考えると6割以上が海外勤務の経験を持っており、 中には通算して国外にいる時間の方が長い人もおります。
場所も欧米だけではなく、様々な国に赴任しており、筆者の親戚の中には、南米のチリで南極のペンギンと一緒に撮った家族写真を送って来たかと思うと、次の年には極北のロシアから年賀状を送って来た人もいます。
 着実に、日本社会の中に日本を外から眺める機会があった人の割合が増えて来ていると言えるでしょう。

2013年1月1日火曜日

OCEB講座 第21回 Why BPM 4

謹賀新年 
前回のブログで、昔は週刊誌が「今年の新入社員は〇〇世代だ」と1年ごとに世代を命名していたと書きましたが、改めて今思い返すとそれも無理からぬ現象と納得できる点があります。
というのも、筆者の少年時代を含め戦後の日本は1990年前後ぐらいまでは、世界史上の大波にもまれながら激変していたからです。
その反動かどうか、90年以降の日本は世界の変化に抗しながら独自路線を走り出した時代と言うことができると思います。

第二次世界大戦終了以降、今の日本社会に最も深い影響を与えた出来事は冷戦とその終結であったと思います。
経済的にはバブル経済とバブル崩壊が直接的でしたが、これは冷戦終了の前後に日本に咲いたあだ花であり、冷戦と表裏一体のものだと筆者は見ています。
 敗戦後、経済的に目覚ましい復興を遂げた国は日本と西ドイツの二国でしたが、両国民とも国のリーダーシップに問題があると言う共通の欠陥を持つものの、技術的工業的なポテンシャルが極めて高かったのは事実でしょう。
そして、両国とも戦後その技術力を買ってくれる自由市場を手に入れることができました。

日本は戦後西側陣営に組み入れられましたが、同時にアメリカ市場への自由なアクセスを手にすることができました。
当時の市場規模感は、(激しく変動する為替レートに振り回されるため) 数字で言うのは難しいのですが、昔ネットワーク機器のマーケティングに従事していた時の感覚で言うと、80年代のコンピュータや通信機器の市場規模は、日本市場を1とすると、アメリカはその10倍以上、アジアで日本に次いで大きかったオーストラリア市場でも日本の10分の1程度で、韓国や台湾、その他のアジア市場にいたっては日本の地方都市程度であり、海外市場=アメリカ市場と言っても過言ではありませんでした。
従って、日本の戦後の急速な復興からバブル経済までを支えた日本の輸出産業の主要市場は北米であったと言えます。
80年代、筆者はアメリカに住んでいたことがあるのですが、当時のアメリカは双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)やスタグフレーション( 景気後退とインフレーションの同時進行)に悩まされ非常に不景気でしたが、それでも日本の対米輸出は増加の一途でした。
たとえ話で言うと、北米市場と言うリングの上で、日本と西ドイツがアメリカをコーナーに追いつめボコボコに殴っている状態でアメリカは「もう勘弁してくれ」と言っているのですが、西ドイツは少し手を緩めたのに対し、日本はそれでも殴り続けていたので、アメリカはとうとう切れてしまい靴底からナイフを取り出して日本を脅しはじめた(少なくとも日本から見ると反則ワザ)、と言う状況でした。
 対日感情も悪化を続け、いわゆるジャパン・バッシングの状態でしたが、 反日暴動があったわけでもなく、まわりには親切な人も多かったので、個人的には至って平穏無事でした。
また、何と言っても強い円のおかげで、日本円でもらう給料が同じぐらいのレベルのアメリカ人労働者よりも高く、またインフレとは言いながら、日本に比べると農産品を中心に物価が極めて安いため(食材だと4分の1から3分の1程度)、結構快適に暮らしておりました。

(続く)