2016年7月11日月曜日

組織と戦略

金剛峯寺
昨日は、涼を求めて高野山へ行ってきました。
何十年ぶりかで行ったので、どんな所だったか、ほとんど覚えておらず、何を見てもある意味すごく新鮮でした(笑)。(奥の院あたりだけが、かすかに記憶にある程度でした。)
行ったことのある方はご存知だと思いますが、高野山は山中にある盆地であり、周りを山々に取り囲まれています。
 いくつかの寺院を見たあと、とある場所で休憩して水を飲んでいたのですが、よく見るとそこはその高野山の外周をなす山へ登る登山口でした。
 そしてその案内板を見ていると、その道の向こうに、なんと弘法大師が立って筆者を手招きをして呼んでいる!! ような気がしたので(笑)、フラフラとその山道を登ってみることにしました。
筆者は昔、山岳部なんかにいたせいで山登りは好きな方ですが、最近は全く登っておらず、運動不足気味で、かつ、昨日は登山向きの格好はしておらず(特に靴が悲惨)、海抜1000メートル程度(登山口からの標高差2〜300メートル)の山でしたが結構疲れました。(良い子のみんなは、決して真似しないように。真夏の低山歩きは、高山歩きとは別種の疲労があります。)

山道に入ると土石が赤みがかっているのがわかります。
高野山の地主神がなるほど丹生都比売神社であることが思い出されます。

そして、 歩いていると、途中、女人堂(にょにんどう)の跡を示す立て札がありました。

高野山は標高900メートル程度のところにありますが、高さの割に山が奥深く、里からかなりの距離があります。
現代は、電車とケーブルカーやバスなどでスイスイと登って来れますが、昔の巡礼の人たちは、麓の里から延々歩いて登って来ました。(高野七口といい、かつては周辺の里から7本の道があったと言います。)
そして、女性たちは100年ほど前までは、高野山の街なかに入ることが許されず、男たちが高野山の街なかの宿坊に泊まれるのに対し、女性たちは境界をなす外周の山々に設置された女人堂に籠り、 外周の山々をめぐることしか許されませんでした。

山道をあえぎあえぎ登りながら、こう考えました。
高野山の街なかを歩くことに比べ、高野山の外周の山を巡ることは遥かに大変です。
彼女たちの信仰心の厚さには思わず尊敬の念が湧きます。
そして、同時に、彼女たちは山道で確実に弘法大師に出会えたであろう、と。

組織と戦略

世界史を紐解くと、アレキサンダー大王とかジンギスカンとか言った大天才が、必ずしも良い条件とは言えない境遇のなか、最初は非常に小さな勢力だったのが、極めて短期間のうちにみるみるうちに巨大な大帝国と呼べる存在に成し遂げる事例に出くわします。
よくもまあ一人でこんな短期間にこんな大帝国にできるもんだと感心しますが、面白いことに、ほとんどの今昔の組織的軍事的大成功の事例は一人の強力なリーダーに率いられた集団であって、むしろそれが普通と言えます。
組織論的には、一人だからこそできたとも言えます。
というのも、トップの数が少ないほど、組織の力の結集が容易だからです。
また一見するとグループで組織を指導しているように見えても、そのグループの中にトップがいます。(チーム型組織という形態もありますが、大規模組織には向きません。)
これはアレキサンダー大王とかジンギスカンと言った海外の例だけではありません。日本の急成長した組織もほぼ例外なく、強力なトップ1人に率いられています。
譬えて言えば、オーケストラの指揮者のようなもので、指揮者が2人も前に立つとオーケストラは大混乱に陥ってしまうようなものです。どっちの合図で出だしの音を出せば良いかも分からないかもしれません(笑)。
オーケストラと違う点は、オーケストラの指揮者は個々の演奏者の顔が見えますが、大組織ではリーダーは大部分の構成メンバーの顔を見ることはできません。
さらに言えば、専門性の高い分野では、リーダーはメンバーが何をやってるのかさえ理解できません。
そこで生まれてきたのが戦略の考え方です。
 発生的には軍事の分野で生まれ進化してきたものであり、その例で話した方がわかりやすいと思います。

続く


2016年7月8日金曜日

日本の戦略観 巨視 v.s. 微視

高校生の時感じた、「日本軍は兵器の性能や兵士の士気など細かいところは非常に注意を払うのに、大局的な問題には無頓着なんだなぁ。」という感想は、しかしながら今でも当たっていると思います。
それどころか、この傾向は 未だに続いており、日本の組織、なかでも日本政府などの大組織にその特徴は顕著です。
 歴史的に見ると、明治時代の半ばあたりから急激に加速度的にその傾向が進み、現代もますます加速中です。
これは、政府だけではなくシステム製品も同様です。個々の部品は非常にいいのに全体で見るといま一つパッとしないというのはむしろ定番の評価です。
これに対しマーケティング力の強化が図られていますが、果たしてそのような対処療法がどこまで有効かは疑問です。
というのは、個々の部品は良いのに全体で見るとパッとしないというのは、その組織全体の評価でもあるからです。
筆者は若い時から幾つかの企業を渡り歩きましたが、そのアウトプットである製品・サービスと、それらを生み出す組織の品質には、一種の相似形、似た者同士の関係にあり、アウトプットが良いのは、それを生み出す組織に理由がある、というのが自らの経験から得られた結論です。



2016年7月7日木曜日

そして、神戸 ⑵

そして、神戸 続き 

百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る

神戸港 
高校の時聞いた左記の言葉は、妙に印象に残っています。
第二次大戦の頃は、時の東条英機(ひでき)首相以下、政治家・軍人もこの言葉を(肯定的に)言及していたそうです。
当時高校生だった筆者が引かれたのは、そういった歴史的事実ではなく、単純にこの言葉が確率的に正しいか? と言う問題でした。
よく知られているように、この言葉は確率的に妙な所があります。
簡単な思考実験をしてみましょう。

この言葉には、命中率と大砲の数しかあげられていませんので、他の条件は全て同じと仮定します。
まず、味方側には百発百中の大砲1門が配備され、敵側には百発一中の大砲が100門配備されているとします。
当時の大砲は(今の大砲もそうですが)、発射してから着弾するまで数秒から数分までの時間を要しますが、その到達時間は両者とも同じとし、また発射準備に要する装填時間も同じとします。
そうして、両者一斉に打ち始めるとすると、味方の百発百中の大砲から出た弾1発は確かに相手に命中しますが、敵方からも100発の弾が飛んで来ます。ほとんどが外れますが、確率的にはそのうちの1発が命中することになり、期待値計算では、双方が初弾を打ち合った段階 ー ここでは第1回戦と呼びます ー では、味方は1門しかない虎の子の大砲が被弾するのに対し、敵方には99門の無傷の大砲が残ることになります。

言うまでもなく、戦いの勝敗は、兵器の性能だけでなく、地勢や天候あるいは戦い方、作戦、将兵の士気など様々な要因に大きく依存しますので、一概に決められませんが、一般化した思考実験あるいは確率統計的なアプローチが大局的、長期的な予測には極めて有効であることがよく知られています。

さて、当時の日本軍は奇襲作戦や先制攻撃を重視していたと聞いていたので ー (ちなみに、あまりにそれを重視し過ぎたために攻撃がワンパターン化してしまい、のちには、敵に攻撃パターンを完全に読まれてしまい逆に奇襲攻撃を待ち構えられて迎撃されると言う皮肉な結果となり、それでもそのワンパターンな攻撃を繰り返したために、敵を気味悪がらせたと同時に、日本軍の将校は無能であるという悪評の一因にもなったようです)ー 敵の攻撃準備がととのわないうちに敵の戦力を破壊しておいてから撃ち合う事を前提とした言葉ではないかと思って、まず先に敵の大砲50門を破壊してしてから撃ち合うシナリオを考えましたが、仮に大砲1門対50門で戦っても結果に大差はありませんでした。
つまり、双方の第1発目で、味方の大砲は50%の確率で被弾し、敵は1門が破壊されます。2回戦目では、味方は敵の大砲2門を破壊するのに対し、敵からは49発の弾が飛んできます。つまり、味方は2発目までの間に99%被弾する(命中率100分の1の弾が99発飛んでくる)計算になり、3発目にはもはや生存確率は絶望的な数字になります。

【夏休みクイズ】
百発百中の大砲1門で優位に立つには、敵の大砲をいくつ事前に破壊しておけば良いでしょうか?
(解答は、次回以降そのうち)

従って、 大砲1門で勝つには、敵の大砲がマヌケにも一箇所にまとめて配備されており、一撃で敵の大砲100門が全滅するというような、漫画のような状況を昔の人は考えていたのではないだろうか、それでも相打ちどまりだけど、と当時高校生だった筆者は考えました。
 実際問題として、第二次世界大戦の日本軍も、このような推移、つまり兵器の優秀さや日本兵の士気は高かったが、物量豊かな兵力を散開する米軍に、時間の経過とともに負けていった経緯と妙に被ります。。

さて、今改めて考えてみると、どうでしょうか?
まず前半の部分ですが、高校生の推察は大間違いです。 むしろマヌケな漫画みたいな、と評した構図の方が事実に近かったでしょう。
少なくとも、この言葉が誕生した時点では、もっと真っ当な意味を持っていたようです。
つまり、この言葉はもともとは東郷平八郎の日本海海戦の状況を想定した言葉であり、船に大砲を載せて打ち合う場面で、昔の大砲の弾でも、当たりどころによっては船は大破し、航行不能、あるいは戦闘不能に陥っていました。実際にも軍艦の弾薬庫に火が回って一撃で沈没してしまった例もあったようです。
従って、大砲が100門あっても一撃で戦闘能力を失いうるわけで、たとえ数字上は互角であっても、少数だが命中率の高い方を取るというのは、決して珍説ではなく、実戦経験豊富な将軍の言葉は重みがあります。
戦史に疎いのでよくわかりませんが、日露戦争時の大砲はほとんど人手で操作しており、多数の砲を操るにはそれなりの人数が必要であって、大砲の数が増えれば増えるほど、その指揮系統は極めて煩雑なります。
また、写真で見る当時の軍艦はいかにも貧弱であり、多数の大砲を同時に撃って果たして船体がその衝撃に耐えられるのかも疑問です。
さらに、当時、戦艦などの日本の軍備はほとんどが外国製であり、勝負は兵の熟練度と指揮官の用兵の腕にかかっており、将兵はそのことを熟知していた、という点も挙げられるでしょう。


続く