2016年10月6日木曜日

日本型組織と戦略  その2 文系理系の誕生

横断歩道を渡る鹿
ボストンに行った時に、有名なハーバード大学を見に行ったことがあります。
同大学の卒業生である知人のD氏の車に乗せてもらい、ボストンから川1つ隔てた隣のケンブリッジの町にある大学のキャンパスを案内してもらったのですが、非常に印象に残ったことが1点あります。
それは、彼が筆者を乗せて真っ先に向かった先が、時計台とか講堂と言った(写真写りの良さげな)場所ではなく、彼が4年間の学生時代を過ごした、キャンパス脇にある地味な(失礼)学生寮だったことです。
ご存知の通り、アメリカでは高校までの教育過程は日本に比べ随分のんびりとしていますが、 大学に入ると急に忙しくなり、毎日をパッパラパーと過ごしていた高校生も突然勉学三昧の日々を送ることになります。
Dさんもきっと教室と学生寮を往復する生活を送っていたのでしょう、4年間を過ごした学生寮そのものが 大学を象徴する場所、最も思い出深い場所になっていたに違いありません。
彼の大学は日本の大学とは違い、理系文系の区別がなく、また日本の学科に当たるようなものもないため、どういう分野を勉強するかは学生の判断に委ねられており、Dさんは英文学を専攻したそうです。
ところが同時に、将来的には父君の後を継いで医者になるつもりでもあったため、医師養成の大学院(メディカル・スクール)の入学要件である生物学や化学などのサイエンス系の授業も取ったそうです。

アメリカの教育制度の一端を見て、考えさせられました。
日本の大学では、文学を専攻しながら医学系大学院の必修要件を満たすことはかなり大変です。
それどころか、文系を選ぶと大学レベルのサイエンス系学科の単位を取得すること自体が困難になっており、場合によっては高校段階で難しくなって来ます(大学入試に直接関係のない科目の勉強をすることになるため)。

教育制度もさることながら、大学間の国際競争を考えた場合、日本の大学が世界の優秀な学生(特にリベラルアーツ系と共にサイエンスも学びたいと考える日本を含む世界の学生)を獲得する上で大きな課題となりそうです。

文系と理系の誕生

 明治政府が最初に建てた大学、帝国大学ー後の東京大学ーは、当初は欧米の大学を1校そのまま輸入したような学校で、教師の大部分は外国人であり、彼らは外国語で講義をしていました。
従って、学生は大学入学前に外国語を習得しておく必要があり、その為に建てられた教育機関が、大学予備門でした。
大学予備門は後の旧制高等学校に繋がりますが、初期の頃は欧米の中等教育をそのまま持って来た形で、文系も理系もありませんでした。
実際、大学予備門を卒業した夏目漱石(後の高名な小説家)も大学の進学にあたり工学部*へ行くか文学部**へ行くか迷っており、その時点で文科理科関係なくどちらでも行けた状態でした。(* 、**: 注 当時は、工科大学とか文科大学とか呼ばれていたようです。)
文系・理系の区分が本格化したのは明治時代半ば、旧制高等学校の誕生の頃です。
これは大して哲学的な理由があったわけではなく、極めて現実的な要請からそうなったのだと推察します。
当時、高等教育機関そのものが極めてお金がかかる上に、各種の専門家の早期の養成が求められており、できるだけ短期に安上がりで大量に養成したかった、と言うのが本音でしょう。



2016年10月3日月曜日

日本型組織と戦略

通天閣
「日本はなぜ第二世界大戦に大敗したのか?」と言う疑問は、筆者が戦略に興味を持った始まりでした。
そして、そこから、当時の日本はどのような戦略で戦おうとしたのか?と言う疑問に変わって行きました。
その結果、果たして、(以前この ブログで触れたかと思いますが)、「戦略と作戦の不一致」と言うような戦略的な大問題に当惑させられてしまう事になりました。
この不一致は、そもそも戦略を無意味なもの貶めるほど酷いものですが、当時の将校たちは、何故、この問題を放置したままだったのでしょうか?
あるいは、問題に気づいていたのかさえ疑問なところがあります。
 当時の緊迫した国際情勢が思考能力を麻痺させてしまったのだろうか?と以前は想像していました。
と言うのも、この状況は、日本型組織にしばしば見られる、いわゆる「上に行くほど無能なリーダー像」だけでは説明できない現象に思えるからです。組織の戦略は、(無能な)リーダーだけが見たり書いたりするものではなく、組織の主要なメンバー(下位の戦略部門のラインやスタッフ(参謀)など)も見て、議論され、そして下位の計画が立案されて、最後に実行に移されるものだからです。
日本軍の戦い方は、上位のリーダーだけでなく、少なくとも作戦に関わる将校たちも相当な無能に見え、今はやりの表現で言えば、組織全体が『積極的無能主義』に陥っていたように見えます。

ところが最近になって、筆者の見方も完全に変わってきました。
最近は、日本型組織でも、テレビ等のマスコミを通して「なんとか戦略」と言う言葉がよく発せられるようになって来ました。 
筆者にとっては、ある種の社会実験が行われているように映り、たいへん興味深く眺めていたのですが、そのうちに「なるほど!」と膝をポンと叩きたくなるほど合点が行く局面に度々遭遇するようになって来ました。
本当は「ユーレカ!」と叫びながら裸で街を駆け回りたくなったのですが、今はその衝動をぐっと抑えて、このブログを書いています(笑)。
 と言うのも、現代の日本型組織の思考様式の属性が、旧日本軍の思考様式とあまりに共通しているからです。
 旧日本軍は、軍事学をサイエンスとしては研究していませんでした。
旧日本軍も戦略という言葉は知っていますし、盛んに使っていましたが、あるのは、言葉だけであって実質は空疎なものでした。一種の言葉遊びと言ってよいでしょう。
孫子を始め、古来から戦略論を論じた書物は数あり、エリート軍人たちも一生懸命勉強しましたが、言語学的、あるいは文学的、さらに言えば規範的(学問的の反対語、非科学的という意味で)に学んだだけであって、決してサイエンスの目で学んだ訳ではありませんでした。
現代の目から見ると、バラバラに見える日本軍の戦略や作戦論も、彼らの目には、言語学的にはつながっていて、それで良しとしたのでしょう。
言葉の表現だけで繋いでいるだけで、論理もデータもないどころか、日本の中世の武将でさえ持っていた合理主義もありません。
そして、それとそっくり同じ症状が現代の日本型組織、特に政府系組織に如実に現れています。
 基本的に、言葉でつながっているだけの状態で放置されています。

自然科学の発達以降 ー 特にニュートン力学の目覚ましい発展以降 ー、社会科学の研究もサイエンスの手法を取り入れること急で、 近代学問として、社会科学もサイエンスとして捉えるのが当たり前になって来ました。
軍事学は元々、合理性を尊ぶことは洋の東西を問わず熱心であって、例えば、日本の戦国時代、武将たちは必死に神仏に戦勝を祈ること半端ではなかったのですが、それだけでは決して勝てるとは思っておらず、神仏に祈ることと並行して同時に、武器や戦術、あるいは戦略を文字通り必死に研究しました。
現代の目から見て、戦国武将達の姿は科学的とは呼べないまでも、少なくとも極めて合理主義的であったことは間違い無いでしょう。
 近代の軍事学は、自然科学と社会科学の境界的な性格を持ちますが 、基本的に"Military Science"と言う言葉通り、科学(サイエンス)として研究されることが通例です。
また、社会科学も同様で、 社会、ー つまり人間の集合 ーを、科学的に解明すると言うのが基本的なスタンツになって来ています。
「社会 = 人間の集まり」という対象物を様々な角度から様々な様相に着目して究明していくわけで、例えば経済学や法学というのは、それぞれ主体である人間集団の経済的側面、法学的側面に注目した学問であり、政治学も同様で、一個の対象物が見せる様相の一つに特化した分野であり、互いに密接な関係があるのはむしろ当然です。
マネジメント・サイエンスも同様で、人間集団を一個の視線から(上から目線で)組織として捉えた合目的的な方法論であって応用科学的な側面を持っています。

文系と理系 の問題

文系、理系といっても、文系出身だからあんたは非科学的だとか、理系出身だからお前は視野が狭いとか言う議論をするつもりはありません。
文系学部を卒業して科学分野で業績を上げておられる方もおられますし、理系出身でも文学や宗教といった幅広い分野に精通しておられる方もおられます。
人をステレオタイプで判断する態度は強く戒められるべきことでしょう。
 では、なぜ文系や理系をここで取り上げるのかと言うと、人間集団や組織を捉えた場合、その特徴が如実に現れやすい点に着目しています。
組織の行動は、人間自体の持つ個々の特性とは別に、その集団の持つ文化的特性が大きな影響を与えることが知られています。
その特性は、意思決定にも大きな影響を与え、考え方や議論の進め方、リーダーの決め方から、結論の出し方、決着のつけ方(責任の問題)まで、様々な影響を与えます。

筆者は、旧日本軍や日本の大型組織に蔓延する言語学的な思考形式(注: 筆者は言葉が持つ「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせる」力を決して否定するものではなく、ここでは、理論的、実証的あるいはデータ的裏付けのない言葉の連鎖だけの思考形式 ー いわゆる”語呂盤”を弾く形態 ーを「言語学的」と呼んでいます。)の根元は、日本の言語文化の伝統ではなく、むしろ明治中期以降に広まった文系、理系の区分にあると見ています。
江戸時代の支配階級である武士社会では実のない軽い言葉は軽侮の対象であり、また朋輩間の戯言ならともかく、公的な言動、特に自分の主君に達するような言葉(建白書など)には自己の生命をかける、と言うのが当時の道徳観 ー 武士道でした。
明治期に入り、西洋文明の導入とともに、高等教育システムも激変しました。
そして、明治半ばに達するころ、日本的な学問の受容形態、文系理系の区分が始まります。
西洋にも文系理系に似た区分、リベラルアーツ系とサイエンス系がありますが、かなり異なります。(リベラルアーツ系は、哲学や数学の扱いをどうするかを別にすれば、日本の人文科学とほぼ同義と考えてよいでしょう。)
そして、区分に関する大きな違いは、社会科学の取り扱いです。
西洋の大学では、法学や経済学、政治学などの社会科学はサイエンス系、言わば理系に入ります。
そして、問題は単なる区分そのものではなく、理系志望の学生に対してリベラルアーツ系の教育を行わなくなり、あるいは相当減らし、文系志望の学生からサイエンス系の学習機会を奪い、そして少なくとも学部レベルでは社会科学をサイエンスとして教育しない悪弊が生まれます。(もちろん、大学院レベルでは、研究論文が書けなくなるので社会科学分野もサイエンスとして教えているでしょうが、ごく最近まで、文系で大学院に進む学生は研究者志望の人をのぞくと極めて少数でした。)
この明治期に始まった習慣はかなりの影響を後世に残しており、例えば、筆者は一応、理系の教育を受けたのですが、初めての海外経験で受けた大きなショックの一つは、いかに自分がリベラルアーツ系の教養に欠けているか!と言う驚きでした。筆者の場合は、哲学や宗教学の分野で痛感したのですが、 理系出身の同輩たちは皆似たような経験を共有していました。
また、学生時代、社会科学系の他学部の授業にも出席したのですが、ほとんどの学部では社会科学をサイエンスとして教育することなく、ひどい場合は極めて規範的な議論に終始するものでした。
文系学生向けに自然科学の授業もあったのですが、実験など無しに結果だけを示すような内容で、とても科学的、あるいは学問的とさえ呼べないようなものでした(学問とは、全てを疑えと教えられて始まり、全てを疑えという姿勢を次の世代に引き継いでいくというのが伝統です。)
多分、最近はかなり改善されているとは思いますが、筆者を含め現役世代の多くは、まだまだ、旧弊の影響下にあると思います。
社会科学分野の議論が、研究者レベルはともかくとして、実務家レベルでは完全に言語学的になってしまったのは 、この悪弊による影響が大である、と筆者は見ます。



続く

2016年9月18日日曜日

成長分野

奈良公園 
昨日は、法隆寺に行ったついでに、藤ノ木古墳も見てきました。

成長分野

筆者は若い頃 ー1980年代頃 ー、外資系の大手のコンピュータメーカーに勤めていた事があり、そこで製品企画の仕事などをしていました。
その会社には、各事業部ごとにストラテジストという社内タイトルを持つ人達が少人数存在していて、普段はそれぞれの分野の専門家として普通に働いているのですが、半年に一度ぐらいの割で集まり、主に会社や業界の将来展望などを議論する場が設けられていました。
 そして、当時の話題の中には ー その時は全く気にもしていなかったのですが ー、数十年経った今、折に触れ印象深く鮮明に思い出すものがあります。

その1つが、いわゆる投資のための戦略ポートフォリオを組む上での基礎資料となる市場の分野別成長予測でした。
まず市場を適宜議論し定義分割し、その分割された分野ごとに成長予測を行うわけですが、たとえ専門家であっても真の正解を知らない将来に関しする予測を、今でも行われる、いわゆる『専門家のコンセンサスを取るグループ討議の技法』を使って行なっていました。
この手法により個々の専門家の個人的なバイアスがある程度取り除くことができ、例えば誰でも自分が興味ある分野 ー 多くは自分の専門分野 ー の将来像は過大に見積もる傾向がありますが、この手法を取るとその偏りがある程度補正されます。
こうして、その時点での最善のguess(当て推量)を取りまとめたものを見る機会があったのですが、今思い返してもかなり的中しています。新規分野に関してはドンピシャと言って良いでしょう。
もっとも、見積もられた成長率は、 実際、後年明らかになった劇的な急成長に比べると遥かに低いのですが、これは、投資判断という資料の性質上、少なくともこのぐらいの成長はするだろうという極めて控えめな形でコンセンサスが取られ推計されたせいでしょう。
急成長すると予測された分野には、当然、今の言葉で言うと、パソコンやインターネット分野も含まれていました。
ちなみに当時は、必ずしも現在呼ばれている名称では呼ばれておらず、例えば、インターネットは当時は、数ある通信プロトコルのうちの1つを指す名称として認識されていただけで、初期の頃は、そのインターネット・プロトコル自体は全体のネットワーク・トラフィックの中でそれほど目立つ存在ではなく、決して代表的とは言えない存在でした(初期の頃は、UNIX系システム間の通信のみ)。

そして、製品戦略ですが、大体この予測に沿った形で開発予算が配分されていきました。
開発予算に関しても、競合他社に比べて決して負けない、というか軽く凌駕する金額がつぎ込まれていたような気がします。
さて、それから月日は流れ、成長市場として位置付けられた市場は当初の予測を遙かに超えて急成長して行きました。
さぞかし製品は大成功したかというと、10年ほど経って、その結果を見てみると(筆者はその頃はすでに別の会社に転職しておりましたが、近い業界にはおりました)、結果は真逆で、傍目からみると、多くの分野で決してメジャーになることはなく、基礎研究や特許収入などの知的財産を除いて、ほとんどの新規分野から撤退するか撤退間近の状態でした。
これは、しかしながら、この会社だけがそうなったわけではなく、当時のメインフレーム系メーカー(みな大企業です)の大多数は、大なり小なり新規分野に投資していたのですが、それらの分野では決してメジャー・プレイヤーにはなれませんでした。


2016年7月11日月曜日

組織と戦略

金剛峯寺
昨日は、涼を求めて高野山へ行ってきました。
何十年ぶりかで行ったので、どんな所だったか、ほとんど覚えておらず、何を見てもある意味すごく新鮮でした(笑)。(奥の院あたりだけが、かすかに記憶にある程度でした。)
行ったことのある方はご存知だと思いますが、高野山は山中にある盆地であり、周りを山々に取り囲まれています。
 いくつかの寺院を見たあと、とある場所で休憩して水を飲んでいたのですが、よく見るとそこはその高野山の外周をなす山へ登る登山口でした。
 そしてその案内板を見ていると、その道の向こうに、なんと弘法大師が立って筆者を手招きをして呼んでいる!! ような気がしたので(笑)、フラフラとその山道を登ってみることにしました。
筆者は昔、山岳部なんかにいたせいで山登りは好きな方ですが、最近は全く登っておらず、運動不足気味で、かつ、昨日は登山向きの格好はしておらず(特に靴が悲惨)、海抜1000メートル程度(登山口からの標高差2〜300メートル)の山でしたが結構疲れました。(良い子のみんなは、決して真似しないように。真夏の低山歩きは、高山歩きとは別種の疲労があります。)

山道に入ると土石が赤みがかっているのがわかります。
高野山の地主神がなるほど丹生都比売神社であることが思い出されます。

そして、 歩いていると、途中、女人堂(にょにんどう)の跡を示す立て札がありました。

高野山は標高900メートル程度のところにありますが、高さの割に山が奥深く、里からかなりの距離があります。
現代は、電車とケーブルカーやバスなどでスイスイと登って来れますが、昔の巡礼の人たちは、麓の里から延々歩いて登って来ました。(高野七口といい、かつては周辺の里から7本の道があったと言います。)
そして、女性たちは100年ほど前までは、高野山の街なかに入ることが許されず、男たちが高野山の街なかの宿坊に泊まれるのに対し、女性たちは境界をなす外周の山々に設置された女人堂に籠り、 外周の山々をめぐることしか許されませんでした。

山道をあえぎあえぎ登りながら、こう考えました。
高野山の街なかを歩くことに比べ、高野山の外周の山を巡ることは遥かに大変です。
彼女たちの信仰心の厚さには思わず尊敬の念が湧きます。
そして、同時に、彼女たちは山道で確実に弘法大師に出会えたであろう、と。

組織と戦略

世界史を紐解くと、アレキサンダー大王とかジンギスカンとか言った大天才が、必ずしも良い条件とは言えない境遇のなか、最初は非常に小さな勢力だったのが、極めて短期間のうちにみるみるうちに巨大な大帝国と呼べる存在に成し遂げる事例に出くわします。
よくもまあ一人でこんな短期間にこんな大帝国にできるもんだと感心しますが、面白いことに、ほとんどの今昔の組織的軍事的大成功の事例は一人の強力なリーダーに率いられた集団であって、むしろそれが普通と言えます。
組織論的には、一人だからこそできたとも言えます。
というのも、トップの数が少ないほど、組織の力の結集が容易だからです。
また一見するとグループで組織を指導しているように見えても、そのグループの中にトップがいます。(チーム型組織という形態もありますが、大規模組織には向きません。)
これはアレキサンダー大王とかジンギスカンと言った海外の例だけではありません。日本の急成長した組織もほぼ例外なく、強力なトップ1人に率いられています。
譬えて言えば、オーケストラの指揮者のようなもので、指揮者が2人も前に立つとオーケストラは大混乱に陥ってしまうようなものです。どっちの合図で出だしの音を出せば良いかも分からないかもしれません(笑)。
オーケストラと違う点は、オーケストラの指揮者は個々の演奏者の顔が見えますが、大組織ではリーダーは大部分の構成メンバーの顔を見ることはできません。
さらに言えば、専門性の高い分野では、リーダーはメンバーが何をやってるのかさえ理解できません。
そこで生まれてきたのが戦略の考え方です。
 発生的には軍事の分野で生まれ進化してきたものであり、その例で話した方がわかりやすいと思います。

続く


2016年7月8日金曜日

日本の戦略観 巨視 v.s. 微視

高校生の時感じた、「日本軍は兵器の性能や兵士の士気など細かいところは非常に注意を払うのに、大局的な問題には無頓着なんだなぁ。」という感想は、しかしながら今でも当たっていると思います。
それどころか、この傾向は 未だに続いており、日本の組織、なかでも日本政府などの大組織にその特徴は顕著です。
 歴史的に見ると、明治時代の半ばあたりから急激に加速度的にその傾向が進み、現代もますます加速中です。
これは、政府だけではなくシステム製品も同様です。個々の部品は非常にいいのに全体で見るといま一つパッとしないというのはむしろ定番の評価です。
これに対しマーケティング力の強化が図られていますが、果たしてそのような対処療法がどこまで有効かは疑問です。
というのは、個々の部品は良いのに全体で見るとパッとしないというのは、その組織全体の評価でもあるからです。
筆者は若い時から幾つかの企業を渡り歩きましたが、そのアウトプットである製品・サービスと、それらを生み出す組織の品質には、一種の相似形、似た者同士の関係にあり、アウトプットが良いのは、それを生み出す組織に理由がある、というのが自らの経験から得られた結論です。



2016年7月7日木曜日

そして、神戸 ⑵

そして、神戸 続き 

百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る

神戸港 
高校の時聞いた左記の言葉は、妙に印象に残っています。
第二次大戦の頃は、時の東条英機(ひでき)首相以下、政治家・軍人もこの言葉を(肯定的に)言及していたそうです。
当時高校生だった筆者が引かれたのは、そういった歴史的事実ではなく、単純にこの言葉が確率的に正しいか? と言う問題でした。
よく知られているように、この言葉は確率的に妙な所があります。
簡単な思考実験をしてみましょう。

この言葉には、命中率と大砲の数しかあげられていませんので、他の条件は全て同じと仮定します。
まず、味方側には百発百中の大砲1門が配備され、敵側には百発一中の大砲が100門配備されているとします。
当時の大砲は(今の大砲もそうですが)、発射してから着弾するまで数秒から数分までの時間を要しますが、その到達時間は両者とも同じとし、また発射準備に要する装填時間も同じとします。
そうして、両者一斉に打ち始めるとすると、味方の百発百中の大砲から出た弾1発は確かに相手に命中しますが、敵方からも100発の弾が飛んで来ます。ほとんどが外れますが、確率的にはそのうちの1発が命中することになり、期待値計算では、双方が初弾を打ち合った段階 ー ここでは第1回戦と呼びます ー では、味方は1門しかない虎の子の大砲が被弾するのに対し、敵方には99門の無傷の大砲が残ることになります。

言うまでもなく、戦いの勝敗は、兵器の性能だけでなく、地勢や天候あるいは戦い方、作戦、将兵の士気など様々な要因に大きく依存しますので、一概に決められませんが、一般化した思考実験あるいは確率統計的なアプローチが大局的、長期的な予測には極めて有効であることがよく知られています。

さて、当時の日本軍は奇襲作戦や先制攻撃を重視していたと聞いていたので ー (ちなみに、あまりにそれを重視し過ぎたために攻撃がワンパターン化してしまい、のちには、敵に攻撃パターンを完全に読まれてしまい逆に奇襲攻撃を待ち構えられて迎撃されると言う皮肉な結果となり、それでもそのワンパターンな攻撃を繰り返したために、敵を気味悪がらせたと同時に、日本軍の将校は無能であるという悪評の一因にもなったようです)ー 敵の攻撃準備がととのわないうちに敵の戦力を破壊しておいてから撃ち合う事を前提とした言葉ではないかと思って、まず先に敵の大砲50門を破壊してしてから撃ち合うシナリオを考えましたが、仮に大砲1門対50門で戦っても結果に大差はありませんでした。
つまり、双方の第1発目で、味方の大砲は50%の確率で被弾し、敵は1門が破壊されます。2回戦目では、味方は敵の大砲2門を破壊するのに対し、敵からは49発の弾が飛んできます。つまり、味方は2発目までの間に99%被弾する(命中率100分の1の弾が99発飛んでくる)計算になり、3発目にはもはや生存確率は絶望的な数字になります。

【夏休みクイズ】
百発百中の大砲1門で優位に立つには、敵の大砲をいくつ事前に破壊しておけば良いでしょうか?
(解答は、次回以降そのうち)

従って、 大砲1門で勝つには、敵の大砲がマヌケにも一箇所にまとめて配備されており、一撃で敵の大砲100門が全滅するというような、漫画のような状況を昔の人は考えていたのではないだろうか、それでも相打ちどまりだけど、と当時高校生だった筆者は考えました。
 実際問題として、第二次世界大戦の日本軍も、このような推移、つまり兵器の優秀さや日本兵の士気は高かったが、物量豊かな兵力を散開する米軍に、時間の経過とともに負けていった経緯と妙に被ります。。

さて、今改めて考えてみると、どうでしょうか?
まず前半の部分ですが、高校生の推察は大間違いです。 むしろマヌケな漫画みたいな、と評した構図の方が事実に近かったでしょう。
少なくとも、この言葉が誕生した時点では、もっと真っ当な意味を持っていたようです。
つまり、この言葉はもともとは東郷平八郎の日本海海戦の状況を想定した言葉であり、船に大砲を載せて打ち合う場面で、昔の大砲の弾でも、当たりどころによっては船は大破し、航行不能、あるいは戦闘不能に陥っていました。実際にも軍艦の弾薬庫に火が回って一撃で沈没してしまった例もあったようです。
従って、大砲が100門あっても一撃で戦闘能力を失いうるわけで、たとえ数字上は互角であっても、少数だが命中率の高い方を取るというのは、決して珍説ではなく、実戦経験豊富な将軍の言葉は重みがあります。
戦史に疎いのでよくわかりませんが、日露戦争時の大砲はほとんど人手で操作しており、多数の砲を操るにはそれなりの人数が必要であって、大砲の数が増えれば増えるほど、その指揮系統は極めて煩雑なります。
また、写真で見る当時の軍艦はいかにも貧弱であり、多数の大砲を同時に撃って果たして船体がその衝撃に耐えられるのかも疑問です。
さらに、当時、戦艦などの日本の軍備はほとんどが外国製であり、勝負は兵の熟練度と指揮官の用兵の腕にかかっており、将兵はそのことを熟知していた、という点も挙げられるでしょう。


続く

2016年6月30日木曜日

そして、神戸

神戸港
前回京都の話が出たので、神戸の話を書きたいと思います。
神戸は奈良や京都、あるいは大阪に比べ、極めて新しい街とみなされています。
事実、文化財の数なんかを見ても、周辺の農村部と比べてさえ圧倒的に少なく ーー という言い方はなまやさし過ぎ、壊滅、あるいは文化財の空白地帯と言った表現の方がぴったりするほどです。
しかしながら、神戸の地は古事記や日本書記にも登場する古代から拓けたところであり、源氏物語で有名な須磨、明石や歌枕の地として有名な布引の滝、そして神戸を愛した政治家にして武将、平清盛が一時遷都を試みた福原京、雪の御所跡地も神戸市内です。(注: 旧明石郡は一部のみが別の市(明石市)ですが、源氏物語の主要部分は神戸市内にあります。 )
そして神戸港は、かつては兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれ、平安時代以降、それまでの難波津(なにはのつ、今の大阪港)に代わって、みやこの海の玄関口として栄え、先の大震災までは日本一の貿易港でした。
空海や最澄などを載せた遣唐使船も神戸港から出ており、また、小説やドラマで有名な北海道航路を拓いた海商、高田屋嘉兵衛も兵庫津に本拠を置いていました。

そう言う訳で、文化財などが残らないはずがない場所柄です。
読者諸兄姉の中には、きっと先の阪神淡路大地震のとき消失したんだろうと思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、実際には大震災は、文化財がとっくに無くなってしまった後に起こっています。
すべての文化財は、実際には、第二次大戦中の神戸大空襲の時に失われてしまっています。
 大戦時に空襲を受けた日本の都市は多かったのですが、神戸の場合は街が山と海に挟まれて非常に狭く人口密度も高い割に空爆量は甚大で、正確な統計がないのではっきりしたことはわかりませんが、人口当たり、あるいは単位面積当たりの被害は日本有数のものに上っただろうと言われています。
その様子は、悲惨とか言う言葉が意味をなさないほどのもので、戦後多くの文芸作品のモチーフにも取り上げられております。若い人でも、ジブリ映画の「火垂るの墓」や小説の「少年H」などを通じてご存知の方も多いと思います。
実際、神戸の市街地は完膚なきまで徹底的に失われ、当時の写真を見ても、建物らしきものは全く残っておらず、何もない地面が漠然と広がっているだけです。

筆者の高校時代、学校の先生の40代後半以降の方たちは、神戸大空襲の実体験者が多く、時々空襲の生々しい話をされているのを聞きました。
また、空襲に限らず戦時中の話を色々と聞きましたが、その中で、変に記憶に残っている言葉があります。

「百発百中の砲一門は、百発一中の砲百門に勝る。」

どういう脈略で、この言葉を聞いたのか、全く思い出せませんが、妙に印象に残っています。

次号に続く(いつになるかわかりませんが)



2016年2月3日水曜日

戦略と戦略眼 その4

南禅寺
前回触れたように、筆者は一時期京都にはまり、京都市街を徘徊していましたが、行き先は京都にとどまらず滋賀や奈良の方へも向かって行きました(よほど暇だったのでしょうね)。
京都市街はともかくとして近江や大和を回るとなると車が無いと極めて不便です。
筆者の性向として車の中では情景と全く異質なジャンルの音楽を聴く傾向があり、かつてカリフォルニアでは演歌を良く聞いていましたが、近江路や大和路の車中では主にロック・ミュージックを聞いておりました。
そして、暇のあまりに出かけた旅の合間に筆者が当時最もよく聞いていた曲、それがかの有名なジョン・レノンの名曲「暇人」でした。(大変失礼しました。)

背景2 通信の自由化

インターネットの隆盛を語る上で、もうひとつ重要な出来事は通信の自由化です。
日本においても1985年には旧電電公社がNTTとして民営化されました。
自由化前は、国境を越え海外とコンピュータ同士を回線経由で接続することさえ自由には行えませんでした。 
しかしながら、NTTが民営化された後もしばらくは独占・寡占状態が続くことになります。
筆者の記憶では、民営化後の日米の通信料金(電話料金)には10倍程度の開きがありました。
すなわち、日本の通信料金はアメリカのそれの10倍ぐらいの価格でした。

1980年代は日本の製造業が大躍進を遂げた時代であり、北米市場でも破竹の勢いでアメリカ勢を窮地へ追い込んでいました。
筆者が当時勤めていた外資系コンピュータ会社においても最強の競争相手は日本のコンピュータメーカーと見なされていました。
 日本以外の国のコンピュータ市場はIBMが過半を占めていることがむしろ普通で、IBMの最大のライバルは米国司法省と独禁法だとさえ言われていましたが、日本市場は過半どころか、首位からも陥落し苦戦していました。
当時、日本の製品レベルのハードウェア技術は、世界一の水準であった上に、IBMは長い間、独禁法の制約からネットワークビジネスへの進出を強く制限されていた一方、日本のコンピュータメーカーの多くのは元々通信機器ベンダーであったところが多く、IBMにとってネットワーク分野への進出が遅れた問題は極めて深刻でした。
インターネット勃興前の時代ですが、通信とコンピュータの統合、すなわちデータ通信分野は既に強い成長分野だと見なされていました。
NTTが民営化されしばらくするとIBMは独禁法の呪縛から解放されましたが(同時にAT&Tもコンピュータ分野への進出が可能になりました)、その時はすでに多くの企業が自営ネットワーク網を構築し終えた後で、もう美味しいところはほとんど残っておらずIBMはここでも苦戦することになります。
当時の国内外のネットワークを流れるデータ通信と音声通信の比率は5対95ぐらいで、電話のトラフィックがデータのトラフィックを圧倒しており、音声系を制するものがネットワークを制する状態で、データ通信技術中心の企業には極めて不利でした。
NTTとNTTファミリー企業のガッチリ組んだスクラムは、当時は非常にうまく機能していたように思われます。(後年、いわゆるガラパゴス現象(キャリアと通信機器メーカーの共同での独自仕様の市場囲い込み)を生む遠因になったのかどうかは知りませんが・・・)
 揺籃期にあった日本の通信機器メーカーに日本市場をゆりかごとして提供し、同時に日本市場を外資の魔の手から守るという一石二鳥の効果が得られました。
これは、その悪魔の手先だった筆者が言うのだから間違いありません(笑)。
ただ難点は 市場の独占に起因する高額な通信料金ですが、当時の日本は個人も企業も大金持ちでしたから、問題なしでしょう。

また、音声系とデータ系の技術文化は日本のみならず世界的に異なっていました。
一例を揚げてみましょう。
筆者は後年、局用のフレームリレー交換機のメーカーに勤務したことがありますが、そもそも局用交換機は基本的に完全二重化されていなければならず、電源部を含め全ての部品がホット・スワッパブル(交換機を稼働させたままの状態で、全部品が交換修理可能)でなければなりません。
また耐震基準も厳しく、一クラス上の性能が求められます。振動に弱い磁気ディスク装置なんて言うのは論外で、強い軽蔑の対象であり常に憎悪と蔑みの視線に晒されていました。(こういうコンピュータ・システムもありますが大型機では皆無です。)
 コンピュータ屋から見ると、完全二重化とはいえ本番機とバックアップ機が2台一緒に同じ場所にいること自体、妖しい危険な香りを感じます。
「東京のサーバーが落ちたら大阪のサーバーに切り替えればいいじゃん、最高ジャ〜ン♫」という相州相模弁のノリが、コンピュータ屋のそれです。
システムの複雑度からいうと、コンピュータはネットワークより複雑度が数段高く、地震どころか微風すら吹かない久かたの光のどけき春の日にも静心なく良く落ちがちで、地震以上のトラブル要因が山のようにあり、サービスの中断よりもサービス機能の喪失を恐れる傾向があります。
一方ライフラインとしての電話回線は、最後の住民が倒れるのを見届けてから死ぬというのが最高の死に様、美学、理想像とするもので、言わば演歌ドブ板派の世界です。
「磁気ディスクの使え無いシステムなんてロックじゃねえじゃん、最低ジャ〜ン  ウワァァ━━━━━。゚(゚´Д`゚)゚。━━━━━ン!!!!  ( ;∀;)  」という相模弁のノリと演歌ドブ板派の相性は最悪でした。

続く

2016年1月25日月曜日

戦略と戦略眼 その3


京都の恋
高校生の頃から、京都の街を度々訪れていました。
生まれた街、神戸もいいのですが、やはり京都は特別です。

京都の楽しみ方は人それぞれですが、筆者の場合、30代の頃、会社を辞めて次の会社に勤め始めるまでの間、かなりの時間が空き、極めて暇を持て余していたことがありました。
友人達も、皆勤めを持っていて、そんな暇人とそうそう付き合ってくれるわけがなく、一人で読書や旅行に明け暮れていました。
その時は時間が無限にあるように感じられたので(後に錯覚だとわかったのですが)、普段読めないような本を読もうと思い、仕事とは全く無関係な本を読み散らかしていましたが、その中で最も愛読していた本の一つが「源氏物語」です。
 その時は、結構のめり込んでいて、「源氏物語」を観光ガイドブックの代わりにして、物語に登場する場所を訪ね歩いていました。
近江の妙法寺廃寺跡など、単に地名だけが登場するだけで、主人公たちがまったく行ってないような場所もしばしば訪ねています。
そうして、現代の風景越しに平安時代の京都の情景を重ね合わせて、頭の中に古代を空想して楽しんでいました。
平安時代の内裏跡など、今では単なる住宅地になってしまっているのですが(現在残る京都御苑は後世のもので紫式部の時代の内裏跡ではありません)、その住宅地の中を古代の姿を頭の中に思い描きつつニタニタ笑いながら歩いていたわけですから、今考えると、結構アブナイ人と思われていたかもしれません。

1980年代のネットワーク事情


80年代のネットワーク事情を語る前に、2つの重要な項目をお話ししなければなりません。 一つはパソコンの台頭、そして2つ目は日米政府の政策の変化、すなわち通信の自由化です。

背景1 パソコンの台頭


70年代後半に8bitパソコンが次々と登場してきていましたが、基本的に個人向けで、ビジネスユースにはかなり非力とみなされていました。
しかしながら、80年代に入り16bitパソコンが出始めると、急速に業務でパソコンが利用され始めました。
とは言え、最初の主な使用法は、ワープロや表計算などの個人的なデータ処理とメインフレームやオフコンの通信端末としてであって、パソコン自体に業務アプリケーションを載せて走らせるにはパワーも信頼性も足りないと言う状況がしばらく続きます。
しかしながら、パソコンの性能は毎年2倍以上の速度で向上して行き、80年代の末あたりになるとCAD/CAMなどと言った元々メインフレームが得意としていたエンジニアリング業務などの分野のアプリケーションがパソコンに急速に移行して行き出します。
 そしてLAN、ローカルエリア・ネットワークが普及し始めたのもこの頃です。


続く


2016年1月23日土曜日

戦略と戦略眼 その2

冬の金閣寺
昨秋は2度ほど京都に行ったのですが、2度目は紅葉があらかた終わってしまい、金閣寺では写真のように完全に冬の光景に変わってしまいました。

 

 

 

 

1980年代のインターネット勃興前のネットワーク業界


このブログで以前触れたような気もしますが、筆者は昔、某外資系コンピュータ会社で、通信製品のプロダクトマネージャをしていたことがあります。
二十代の筆者にとっては戦略(製品戦略)を扱う初めての体験でした。
当時は冷戦末期であり、アメリカは極めて不景気で、いわゆる双子の赤字(膨大な貿易赤字と財政赤字)とスタグフレーション(不況とインフレの同時進行)に苦しんでいる一方、日本はバブル経済の真っ最中で異常なくらい好景気でした。
日本の対米輸出は急増の一途を遂げ、日米間の貿易摩擦の問題は頂点に達し、アメリカの対日感情は悪化の一途をたどっていました(いわゆる、ジャパンバッシングの状態)。

ついでに言うと、アメリカの空港のイミグレーション(入国管理局)での日本人に対する対応は極めて悪く、現在のようなフレンドリーさは皆無でした。
幸い筆者はさほどひどい扱いを受けたことはありませんでしたが、知り合いの中には散々意地悪をされ不快な思いをした人も結構いた時代でした。

また、ついでのついでに言うと、貿易摩擦の問題交渉の場で、当初はアメリカ側は対日穏健派の意を汲み日本側に対する要求は非常に穏やかなものでしたが、まったくラチがあかないので、対日強硬派の意見を入れて、極めて強引に譲歩を迫ったところ、日本側はあっさり「はい」と認めてしまったために、対日穏健派が米国内で立場を失ってしまったと同時に、日本の政治家は皆んなマゾじゃないか?と言う強い疑惑がアメリカ政界に巻き起こったのも、この件がきっかけです。
あれだけ泣いて騒いで懇願してもウンと言わなかったものが、乱暴に強く迫った途端に要求をあっさりとしおらしく受け入れたわけですから、マゾ説が根強くささやかれるようになったのも無理はありません。
ちなみに、現在では、アメリカの外交官の教科書には、日本の政治家に何かお願い事がある時は、最初に有無を言わさず頬を2、3度はたいて脅し、お願い事はぶっきら棒に、かつ強引に命令形で言うこと、と言うのが最も上品で正式な方法であると明記されています。
この方法が最も成功率が高いというのも、ワシントンの「日本の政治家=ドM説」をさらに強固なものにしています。

うっかり与太話に脱線してしまいました。本題のネットワークの話は、また次回。