2018年6月30日土曜日

10分の1の法則 その1

あこがれのIBM PC
Photo By Ruben de Rijcke - http://dendmedia.com/vintage/
   筆者が1980年代にIBMに入社した頃は、会社は既にコンピュータ業界の巨人としてその独占的地位を確立していましたが、その製品力は、一人のプロダクト・マネージャの立場で内部から見た場合、そのピークはとうに過ぎてしまっていて、完全に営業力、特にSEの力で売っている状況に映りました。


プロセッサー装置(パソコンで言うCPU部分)の競争力はともかくとして、通信機器や印刷装置(プリンター)などの周辺装置などは、徐々に競合ベンダーにシェアを奪われつつあり、その中で最も手ごわい強敵が富士通や日立と言った日本の互換機(IBM機のソフトがそのまま動く機械)ベンダーでした。

当時、開発部門の古参の人に聞いた話では、IBMは元々機械式の会計機のメーカーだったので、プロセッサーなどの電気製品はともかくとして、ギアとかカム、シャフトと言った機械装置の製造技術には定評があり、例えばIBM製のタイプライターと言えば泣く子も黙るほどの風格と権威があり、重要な契約書は必ずIBM製タイプライターで打つと言われたほど、その印字の美しさと信用力は際立っていたそうです。
そして、プリンターもその印字品質、印刷速度とも機械式の時代にはトップに君臨していたのですが、電子式の時代の到来とともに、徐々に凋落の道をたどることになります。

通信機器分野では、各国の個々の通信事情への対応が信じられないほどに遅く、売れるとか売れない以前に、つながる・つながらないのレベル、あるいは通信コストが、高いとか安いとか言うオーダーを遥かに超越した存在、等の理由で、同じように凋落の途次にありました(厄介なことに、本部はその事実さえも最後まで認めようとしませんでしたが)。

最大の原因は、やはり、上述の通信分野に端的に示されるように、社内のあらゆる分野に蔓延していた官僚主義、大企業病と言うやつで、のちにアメリカ市場最大の赤字を出した時は(確か90年ごろ)、巨体の割に脳みそが3グラムしかない恐竜に喩えられ揶揄されていました。
後年、アップル社の創業者スティーブ・ジョブズが当時のIBMの経営者を、「スマートで雄弁な素晴らしいセールスマン、しかし、自分の製品のことは何も知らない。」と評していましたが、ジョブス氏が、いかなる意味でそう表現したのかよく知りませんが、個人的には彼の評価に妙に納得していました。
筆者の目には、当時の経営者は、製品を単に数字でしか見ておらず、そして、その姿勢がマネジメント全体に蔓延しているように映りました。

しかしながら、IBMが最初からこのような状況だったわけではなく、先ほどの古参の人によると彼が入社した60年代の頃のIBMの開発部門はテクニカル・バイタリティーに溢れ雰囲気は随分と違っていたそうです。

IBMのコンピュータ揺籃期


そのころは、開発エンジニアが、社長であるトーマス・ワトソンJr.へ自分のアイディアを売り込みに行き、社長が気に入れば、ポンと開発費を出すと言うスタイルがむしろ常態だったようで、その結果、社内には機能や位置付けが重複し合う開発プロジェクトがいくつも乱立していました。
そして、開発が終わってもすぐには製品として売り出されるとは限らず、社内で内部ツールとして使いながら競争させ、勝ち残ったものだけを外部に製品として売っていたようで、大体のところ10あるうちの1つぐらいしか商品として世に出なかったようです。
開発期間中よりも、むしろこの社内ツールとして使っている期間が、製品を育てる、円熟させる上で非常に重要だったようで、一旦、社内競争で敗れ商品化されなかったものが社内ツールとして使われ続け改良を加えられた結果、再度社内競争に挑み商品化され、一旦社内競争で敗れた先行製品を遥かに凌ぐ営業成績を上げる、といった事態も珍しくありませんでした。
開発拠点も米国内だけではなく、海外にも増え始めた結果、開発拠点間の競合も激しく、重複する分野・製品群を巡ってしのぎを削っており、この社内競争の激しさが会社の製品力の向上の源となっていました。