2018年8月11日土曜日

グローバル化と英語 その7 日本の英語教育

自転車で30分ほどの場所にある池
先月あたりから、パソコン(古いMacBook Airを愛用)の調子が悪くなり始め、最初のうちは騙し騙し使っていましたが、そのうちに症状が悪化してゆき、今ではまったく立ち上がらなくなってしまいました。

文字入力だけなら、どこからでも入力できるので別のパソコンから書いていますが、SysML図を書く描画はこのMacに導入してあるツールに慣れ切ってしまっており、このMacの運命が決定するまで、SysML講座は中断してしばらくは他のことを書いて行きたいと思います。
現在、故障の原因かも知れないと思われる部品(内臓キーボード)を、米国や中国のサイトで探しまわり、ようやく中古部品を見つけて取り寄せ中ですが結構時間がかかりそうです。
部品交換で治ることを期待していますが、症状から見て、あまり楽観できない状態です。

と言うわけで、SysML図が不要な話題として、本日は英語の話を書いて見たいと思います。
日本人が一般的に言って英語が苦手であることは日本人自身だけでなく、アメリカ人にも広く知れ渡っている観があります ー 別段難しい話ではなく、日本人と接したことのあるアメリカ人なら恐らく最初の数秒でその不得意さに気が付くでしょう。 
以前に紹介した世界の英語話者の推計数20億人には、その推計方法を見てみると日本人の英語話者の数がまったく含まれていませんが、推計した人は、きっと日本には全体の推計値に影響を与えるほどの数の英語話者はいないと踏んだのでしょう。

筆者は英語教育について語る資格などまったくありませんが、個人的な経験を通じて思うところを書いてみたいと思います。
外国語学習は、母語に似ている言語、同一の語族(英語はインドーヨーロッパ語族であり、アルタイ諸語である日本語とは系統がまったく異なります)に属する言語ほど上達が早いとよく言われており、それは母語の発音や語彙、文法知識が外国語学習に利用可能であるからであって、日本語話者にとって英語は関係性が極めて隔絶して遠く母語の知識がほとんど利用できないために、学習に非常に時間がかかります。(逆も真であって、英語話者にとって、日本語はアラビア語などと並んで会話能力の習得に最も時間がかかる言語(最難関言語)とみなされているようです(米国外交官養成局(FSI)の資料)。
この最難関という判定は、会話能力の習得に必要な時間だけの比較であって、日本語の漢字などの読み書き能力を獲得するにはさらに長大な時間を要するであろうことは容易に想像できます。
しかしながら、日本と同様に英語と言語距離が遠い他の東アジア出身の留学生と比べても、日本人学生の英語は飛び抜けて出来が悪いように思えます。
これは、よく言われる英会話能力だけでなく、読み書きの能力も含めて大きな落差を感じます。
特に英作文能力に隔絶した差があるように思えますが、英文の理解能力(英文を英文として翻訳せずそのまま理解する能力)も差があり、日本学生が優れているのは理解した英文を日本文に変換する(翻訳する)能力と実用的でない ーすなわち会話にも英作文にも使えないー 英語知識に限定されるような気がします。
日本の学生が、日本文への翻訳が卓越して上手いというのは、英語力が卓越していると言うよりも日本語ネイティブである事の要素がはるかに効いているからでしょう。
恐らく、英会話能力と、英作文能力や英文理解能力に極めて強い密接な(相互依存的な)関係があるからではないかと推察します。

多くの東アジアの学生も学校教育を通じて英語を学んできており、日常生活で英語が必要な環境に育ったわけでもないのに、日本のいわゆる受験エリートの学生よりも英語がかなりよくできます。

個人的な経験を言うと、筆者の世代は、灘高であろうが開成出身であろうが、どんな受験エリートであっても、中学ー高校と英語学習にそれなりに時間をかけたにも関わらず、大学入学時点での英語はかなりひどい状態でした。(入学後 ーそして往々にして卒業後ー 必要に駆られて英語を初歩から再学習する羽目に陥ります。ただし、ごく一部の帰国子女や語学オタなどの例外は別です)。

他国の学生も日本の受験エリートも、基本的に学校の評価基準に沿って語学の学習を進めて行く所は共通しています。
これは、自分勝手な評価基準で進めると、途中で中間基準を満たすことができなくなって落第したりするからです。
そして、日本の評価基準(ペーパーテスト等)で最高レベルの点数を取ったグループ ー 受験オタ もとい受験エリート ー が、大学入学後に、英語力において悲惨な状況を呈するのは、筆者は、日本人に英語の才能が根本的に欠けているからではなく、評価基準そのものの方に重大な欠陥があるからではないか、と強い疑惑の念を抱いております。

筆者は、CBT(Computer Based Test)の試験問題の作成などを通して、ある程度ペーパーテストやCBTの利点、問題点などを経験することがありました。
ペーパーテストやCBTも他の評価基準と同様、評点と実践能力の間に強い直線的な相関関係があることを理想とすることは共通しています。
英語で言えば、英語でバリバリ仕事や勉学で成果をあげる人が、高得点を取るような英語テストが理想的です。(逆もしかりで、高得点を取った人が英語を実践的に使えると言う条件も満たす事が求められます。)

このような試験問題を作成するには、ある程度の統計的処理が必要ですが、語学分野は、強い制約条件付きながらある程度まではCBTでも実現が可能であるとみなされてきています。

これには、問題ごとに追跡調査を行い、高い実績をあげる人が高い正解率を取るような出題を残し、相関関係の薄い出題や逆相関の問題を削除して行って、新規の問題と入れ替えていく作業が必要となります(問題は受験生を通して外部へ流出していくリスクを常に抱えており、常に同程度の難易度を維持しながら更新されていく必要があります)。
AI技術などが取り入れられていない従来型のCBTでは、英文理解力やヒアリング能力のテストは行えますが、英作文や発音のテストは実現困難で通常は含まれていません。
この問題は、人間本来の能力の間には強い相関関係を呈示する分野があり、CBTでは、その相関関係を積極的に利用して構成しています。
例えば、発音能力とヒアリング能力の間には、あるレベルまでは、強い相関関係があり、ヒアリング能力が高い人は概して発音も正しい傾向があるということで、発音のテストを省略しても、ある程度までは有効な指標であると看做されます。
人間は構造上、自分の発音を自分の耳で聞いて、その良否を聞き分けて自分の発音を修正する機能が、元々備わっています。
同様にして、英作文能力や語彙力は、あるレベルまでは読書量との相関関係が強く、その読書量は英文理解力と強く相関しており、英文理解力のテストだけで、ある所まではそれらの能力を測定することが可能であると考えられています。

しかしながら、発音や英作文能力を重要視する分野では、CBT以外のテストを計画する必要がありますが、その場合でもCBTが無駄にはならず補完的なテストとして有効な測定方法になりえます。

CBTに関しては、高度な実績を上げるために必要な自主性、創造性、忍耐力等々の行動科学的特性等がまったく評価できないない等の問題がありますが(ペーパーテストもほぼ同様の欠点があります)、少なくとも実績を上げるための必要条件を満たしているかを測定することは可能であると考えられてきています。
テストが十分条件でないことは、むしろ自明でしょう 。CBTやペーパーテストに限らず、テストというのは、人間と言う複雑な存在の持つ複雑な能力のある一側面を測定した結果に過ぎません。
つまり、英語である程度の高評価を得た日本人学生の大部分が、英語をまったく実用的に使えないと言う問題は、日本人学生の能力が、これらの各能力間に通常、人種や文化を超えて見られる相関関係を超越した型破りのパターンを示している、と言うわけではなく、評価基準の方に重大な欠陥があると筆者は考えます。
例えば、大学入試の英語の試験をSATのそれに置き換えただけで、受験生はより実用的な恩恵をこうむることができると思います。(当然、教育課程もそれに沿った形に修正する必要がありますが。)

と、ここまで書いてきましたが、 日本の英語教育が実用性を著しく欠くことは、別にCBTを持ち出さなくとも、相当古くから言われており、かつ強く実証されてきたことです。
少なくとも筆者が子供時代には既に言われていましたし、おそらく、日本中を米兵が闊歩していた昭和20年代には判っていたと思います。

根本的な問題は、日本社会が豊かになり国際化が浸透して来た時代になっても、それを改めようともせず放置してきたことの方でしょう。
この問題は、一種の教育のガラパゴス化の問題であり(英語力に関する日本固有の評価基準など)、そして、その原因が日本人の英語力の低さであり、かつ結果であるという点が、長年に渡る英語教育の停滞を象徴しています(英語における低学力の再生産サイクル)。
普通に考えると、ガラパゴス化と言うのは、外部からの情報が遮断された環境下で起こりやすく、そう言う意味では、外国語教育はガラパゴス化が最も起こりにくい分野だと思われがちであり、案外な思いがします。