2016年10月6日木曜日

日本型組織と戦略  その2 文系理系の誕生

横断歩道を渡る鹿
ボストンに行った時に、有名なハーバード大学を見に行ったことがあります。
同大学の卒業生である知人のD氏の車に乗せてもらい、ボストンから川1つ隔てた隣のケンブリッジの町にある大学のキャンパスを案内してもらったのですが、非常に印象に残ったことが1点あります。
それは、彼が筆者を乗せて真っ先に向かった先が、時計台とか講堂と言った(写真写りの良さげな)場所ではなく、彼が4年間の学生時代を過ごした、キャンパス脇にある地味な(失礼)学生寮だったことです。
ご存知の通り、アメリカでは高校までの教育過程は日本に比べ随分のんびりとしていますが、 大学に入ると急に忙しくなり、毎日をパッパラパーと過ごしていた高校生も突然勉学三昧の日々を送ることになります。
Dさんもきっと教室と学生寮を往復する生活を送っていたのでしょう、4年間を過ごした学生寮そのものが 大学を象徴する場所、最も思い出深い場所になっていたに違いありません。
彼の大学は日本の大学とは違い、理系文系の区別がなく、また日本の学科に当たるようなものもないため、どういう分野を勉強するかは学生の判断に委ねられており、Dさんは英文学を専攻したそうです。
ところが同時に、将来的には父君の後を継いで医者になるつもりでもあったため、医師養成の大学院(メディカル・スクール)の入学要件である生物学や化学などのサイエンス系の授業も取ったそうです。

アメリカの教育制度の一端を見て、考えさせられました。
日本の大学では、文学を専攻しながら医学系大学院の必修要件を満たすことはかなり大変です。
それどころか、文系を選ぶと大学レベルのサイエンス系学科の単位を取得すること自体が困難になっており、場合によっては高校段階で難しくなって来ます(大学入試に直接関係のない科目の勉強をすることになるため)。

教育制度もさることながら、大学間の国際競争を考えた場合、日本の大学が世界の優秀な学生(特にリベラルアーツ系と共にサイエンスも学びたいと考える日本を含む世界の学生)を獲得する上で大きな課題となりそうです。

文系と理系の誕生

 明治政府が最初に建てた大学、帝国大学ー後の東京大学ーは、当初は欧米の大学を1校そのまま輸入したような学校で、教師の大部分は外国人であり、彼らは外国語で講義をしていました。
従って、学生は大学入学前に外国語を習得しておく必要があり、その為に建てられた教育機関が、大学予備門でした。
大学予備門は後の旧制高等学校に繋がりますが、初期の頃は欧米の中等教育をそのまま持って来た形で、文系も理系もありませんでした。
実際、大学予備門を卒業した夏目漱石(後の高名な小説家)も大学の進学にあたり工学部*へ行くか文学部**へ行くか迷っており、その時点で文科理科関係なくどちらでも行けた状態でした。(* 、**: 注 当時は、工科大学とか文科大学とか呼ばれていたようです。)
文系・理系の区分が本格化したのは明治時代半ば、旧制高等学校の誕生の頃です。
これは大して哲学的な理由があったわけではなく、極めて現実的な要請からそうなったのだと推察します。
当時、高等教育機関そのものが極めてお金がかかる上に、各種の専門家の早期の養成が求められており、できるだけ短期に安上がりで大量に養成したかった、と言うのが本音でしょう。



2016年10月3日月曜日

日本型組織と戦略

通天閣
「日本はなぜ第二世界大戦に大敗したのか?」と言う疑問は、筆者が戦略に興味を持った始まりでした。
そして、そこから、当時の日本はどのような戦略で戦おうとしたのか?と言う疑問に変わって行きました。
その結果、果たして、(以前この ブログで触れたかと思いますが)、「戦略と作戦の不一致」と言うような戦略的な大問題に当惑させられてしまう事になりました。
この不一致は、そもそも戦略を無意味なもの貶めるほど酷いものですが、当時の将校たちは、何故、この問題を放置したままだったのでしょうか?
あるいは、問題に気づいていたのかさえ疑問なところがあります。
 当時の緊迫した国際情勢が思考能力を麻痺させてしまったのだろうか?と以前は想像していました。
と言うのも、この状況は、日本型組織にしばしば見られる、いわゆる「上に行くほど無能なリーダー像」だけでは説明できない現象に思えるからです。組織の戦略は、(無能な)リーダーだけが見たり書いたりするものではなく、組織の主要なメンバー(下位の戦略部門のラインやスタッフ(参謀)など)も見て、議論され、そして下位の計画が立案されて、最後に実行に移されるものだからです。
日本軍の戦い方は、上位のリーダーだけでなく、少なくとも作戦に関わる将校たちも相当な無能に見え、今はやりの表現で言えば、組織全体が『積極的無能主義』に陥っていたように見えます。

ところが最近になって、筆者の見方も完全に変わってきました。
最近は、日本型組織でも、テレビ等のマスコミを通して「なんとか戦略」と言う言葉がよく発せられるようになって来ました。 
筆者にとっては、ある種の社会実験が行われているように映り、たいへん興味深く眺めていたのですが、そのうちに「なるほど!」と膝をポンと叩きたくなるほど合点が行く局面に度々遭遇するようになって来ました。
本当は「ユーレカ!」と叫びながら裸で街を駆け回りたくなったのですが、今はその衝動をぐっと抑えて、このブログを書いています(笑)。
 と言うのも、現代の日本型組織の思考様式の属性が、旧日本軍の思考様式とあまりに共通しているからです。
 旧日本軍は、軍事学をサイエンスとしては研究していませんでした。
旧日本軍も戦略という言葉は知っていますし、盛んに使っていましたが、あるのは、言葉だけであって実質は空疎なものでした。一種の言葉遊びと言ってよいでしょう。
孫子を始め、古来から戦略論を論じた書物は数あり、エリート軍人たちも一生懸命勉強しましたが、言語学的、あるいは文学的、さらに言えば規範的(学問的の反対語、非科学的という意味で)に学んだだけであって、決してサイエンスの目で学んだ訳ではありませんでした。
現代の目から見ると、バラバラに見える日本軍の戦略や作戦論も、彼らの目には、言語学的にはつながっていて、それで良しとしたのでしょう。
言葉の表現だけで繋いでいるだけで、論理もデータもないどころか、日本の中世の武将でさえ持っていた合理主義もありません。
そして、それとそっくり同じ症状が現代の日本型組織、特に政府系組織に如実に現れています。
 基本的に、言葉でつながっているだけの状態で放置されています。

自然科学の発達以降 ー 特にニュートン力学の目覚ましい発展以降 ー、社会科学の研究もサイエンスの手法を取り入れること急で、 近代学問として、社会科学もサイエンスとして捉えるのが当たり前になって来ました。
軍事学は元々、合理性を尊ぶことは洋の東西を問わず熱心であって、例えば、日本の戦国時代、武将たちは必死に神仏に戦勝を祈ること半端ではなかったのですが、それだけでは決して勝てるとは思っておらず、神仏に祈ることと並行して同時に、武器や戦術、あるいは戦略を文字通り必死に研究しました。
現代の目から見て、戦国武将達の姿は科学的とは呼べないまでも、少なくとも極めて合理主義的であったことは間違い無いでしょう。
 近代の軍事学は、自然科学と社会科学の境界的な性格を持ちますが 、基本的に"Military Science"と言う言葉通り、科学(サイエンス)として研究されることが通例です。
また、社会科学も同様で、 社会、ー つまり人間の集合 ーを、科学的に解明すると言うのが基本的なスタンツになって来ています。
「社会 = 人間の集まり」という対象物を様々な角度から様々な様相に着目して究明していくわけで、例えば経済学や法学というのは、それぞれ主体である人間集団の経済的側面、法学的側面に注目した学問であり、政治学も同様で、一個の対象物が見せる様相の一つに特化した分野であり、互いに密接な関係があるのはむしろ当然です。
マネジメント・サイエンスも同様で、人間集団を一個の視線から(上から目線で)組織として捉えた合目的的な方法論であって応用科学的な側面を持っています。

文系と理系 の問題

文系、理系といっても、文系出身だからあんたは非科学的だとか、理系出身だからお前は視野が狭いとか言う議論をするつもりはありません。
文系学部を卒業して科学分野で業績を上げておられる方もおられますし、理系出身でも文学や宗教といった幅広い分野に精通しておられる方もおられます。
人をステレオタイプで判断する態度は強く戒められるべきことでしょう。
 では、なぜ文系や理系をここで取り上げるのかと言うと、人間集団や組織を捉えた場合、その特徴が如実に現れやすい点に着目しています。
組織の行動は、人間自体の持つ個々の特性とは別に、その集団の持つ文化的特性が大きな影響を与えることが知られています。
その特性は、意思決定にも大きな影響を与え、考え方や議論の進め方、リーダーの決め方から、結論の出し方、決着のつけ方(責任の問題)まで、様々な影響を与えます。

筆者は、旧日本軍や日本の大型組織に蔓延する言語学的な思考形式(注: 筆者は言葉が持つ「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせる」力を決して否定するものではなく、ここでは、理論的、実証的あるいはデータ的裏付けのない言葉の連鎖だけの思考形式 ー いわゆる”語呂盤”を弾く形態 ーを「言語学的」と呼んでいます。)の根元は、日本の言語文化の伝統ではなく、むしろ明治中期以降に広まった文系、理系の区分にあると見ています。
江戸時代の支配階級である武士社会では実のない軽い言葉は軽侮の対象であり、また朋輩間の戯言ならともかく、公的な言動、特に自分の主君に達するような言葉(建白書など)には自己の生命をかける、と言うのが当時の道徳観 ー 武士道でした。
明治期に入り、西洋文明の導入とともに、高等教育システムも激変しました。
そして、明治半ばに達するころ、日本的な学問の受容形態、文系理系の区分が始まります。
西洋にも文系理系に似た区分、リベラルアーツ系とサイエンス系がありますが、かなり異なります。(リベラルアーツ系は、哲学や数学の扱いをどうするかを別にすれば、日本の人文科学とほぼ同義と考えてよいでしょう。)
そして、区分に関する大きな違いは、社会科学の取り扱いです。
西洋の大学では、法学や経済学、政治学などの社会科学はサイエンス系、言わば理系に入ります。
そして、問題は単なる区分そのものではなく、理系志望の学生に対してリベラルアーツ系の教育を行わなくなり、あるいは相当減らし、文系志望の学生からサイエンス系の学習機会を奪い、そして少なくとも学部レベルでは社会科学をサイエンスとして教育しない悪弊が生まれます。(もちろん、大学院レベルでは、研究論文が書けなくなるので社会科学分野もサイエンスとして教えているでしょうが、ごく最近まで、文系で大学院に進む学生は研究者志望の人をのぞくと極めて少数でした。)
この明治期に始まった習慣はかなりの影響を後世に残しており、例えば、筆者は一応、理系の教育を受けたのですが、初めての海外経験で受けた大きなショックの一つは、いかに自分がリベラルアーツ系の教養に欠けているか!と言う驚きでした。筆者の場合は、哲学や宗教学の分野で痛感したのですが、 理系出身の同輩たちは皆似たような経験を共有していました。
また、学生時代、社会科学系の他学部の授業にも出席したのですが、ほとんどの学部では社会科学をサイエンスとして教育することなく、ひどい場合は極めて規範的な議論に終始するものでした。
文系学生向けに自然科学の授業もあったのですが、実験など無しに結果だけを示すような内容で、とても科学的、あるいは学問的とさえ呼べないようなものでした(学問とは、全てを疑えと教えられて始まり、全てを疑えという姿勢を次の世代に引き継いでいくというのが伝統です。)
多分、最近はかなり改善されているとは思いますが、筆者を含め現役世代の多くは、まだまだ、旧弊の影響下にあると思います。
社会科学分野の議論が、研究者レベルはともかくとして、実務家レベルでは完全に言語学的になってしまったのは 、この悪弊による影響が大である、と筆者は見ます。



続く