2013年5月25日土曜日

OCEB講座 第28回 Why BPM? ビジョンの問題


カフェテラス 入り口
源氏山の山道を歩いていると、コナラの木(?)の下に「カフェテラス」の看板を見つけました。
林の細道を降りて行くと、山の中腹の林間の斜面を利用したカフェテラスが現れました。
宮沢賢治の童話にでも出て来そうな樹間の空中庭園です。

目的の喪失と組織の影響


 筆者の友人にP君と言う東南アジア出身で日本の大学を卒業し、そのまま日本企業に就職しSEをしている人がいます。
浅黒い肌と黒い大きな目が彼の特徴で、その黒い瞳をキラキラさせながら、将来は母国に帰って自分の会社に建てると頑張っています。
そんなP君ですが、珍しく不満げな面持ちをして筆者に次のような話をしてくれました。
P君は日本と彼の母国の開発部隊との間のリエゾンSEの役目を担っているそうですが、故郷のプログラマー達から「P君の送って来る要件仕様は非常に正確できめ細かく助かっているが、なぜその仕様になるのか理由が解らないために、非常にフラストレーションがたまる。」と言われたそうです。
P君自身もそれは感じていた所だったので、自分の語学能力の問題だと思って日本人の同僚たちに要件がそうなる理由・背景を尋ねた所、驚いた事に同僚達は「そんなの知らない。顧客がそれを要求していると言うことで十分じゃないか。」と言われたそうです。
 P君は、「日本人は指示の理由や目的を上司や顧客に聞く事を悪い事と思っている〜 これじゃSEワークにならないじゃないか〜!」と不満を訴えています。


さて、日本人の名誉のために言うと、P君の指摘は一部間違っています。
日本人が目的に鈍感なのではなく、日本の大きな組織に入った人間が10年ぐらいの訓練を経た結果、完璧に鈍感になることができるようになるのです。
「君も頑張って10年ぐらい会社で働いていると完璧な鈍感になれるよ。」と言ってP君を励ましましたが、ひよっとしたら逆効果だったかもしれません。

この話を聞いて、むっとした組織人の方もいらっしゃると思います。
しかし、組織は個人の思考形式に驚くほど大きな影響を与えます。


ノモンハン事件

ノモンハン事件と言う戦いが大東亜戦争の数年前に満州の地でソ連軍相手に行なわれ、日本軍は大敗しました。
 陸軍の本部は前回にも触れたように明確な態度を欠き、その間、満州にいた関東軍が暴走したと言う構図ですが、本部、関東軍の両者に共通していたのは、ソ連軍に対する過小評価 ーあるいは軽侮、慢心と言った方が正確かもしれませんー でした。
陸軍本部側は、たいして意味のない作戦に大量の兵力を投入し無意味な消耗を強いる事への懸念を示したのに対し、現場の関東軍は統率上の必要性を唱え、勝敗よりもむしろソ連軍が撤退してしまう事を心配していました。
本部、関東軍とも勝利は疑わなかったわけですが、結果は膨大な戦死者を出して大敗に終わりました。
 戦いの経過は、その後の大東亜戦争の日本軍の戦いぶりを予感させるものでした。
直接の敗因は兵力・物量の差ですが、日本軍はソ連軍の兵力や物資の移送能力を過小評価し、自分たちと同程度だろうと十分な根拠も無く決めてかかり、ソ連軍がほぼ毎日偵察機を飛ばして関東軍の動勢を探っていたのに対し、関東軍は十分な偵察活動をしないばかりか、本部から寄せられる自軍にとって不利な状況にあるとの情報を無視し続け、自分たちに都合の良い情報のみに基づいた作戦を遂行した結果、ほとんどの部隊が敵に撃破され、撤退の判断をためらいずるずると遅延した結果、壊滅の状態で戦いは終わりました。

学習しない組織

日本側はノモンハン事件終了後、作戦失敗の研究を行いましたが、その報告書はたいへん興味深いものがあります。
日本軍の研究班は兵力・物量の格差を認めています ー いわく、砲兵力不足、架橋能力不足、後方補給能力不足、通信能力不足。
そして兵力以外の要因として、敵戦力の過小評価や軽侮に加え特定の師団に対する任務過重を問題視しています。
興味深い点は、今後日本軍の取るべき道筋として、火力戦闘能力の飛躍的な向上とともに、物的戦力の優勢な敵に対しては日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきだ、としている点です。
林の中のカフェ
歴史的に言うと、昔の戦争はむしろハングリービジネスであり、貧しい方が結構(精神力で?)勝っていましたが、20世紀以降、特に第一次大戦以降は完全に物量戦の時代に変わってきました。
しかしながら、日本軍首脳部は大東亜戦争を大敗北で終結するまでその変化を認めませんでした。
日本軍はノモンハン事件以降、何度も物量の差で負けて学習するチャンスが度々あったのですが、面白い事に、物量の差で負ければ負けるほど、むしろ内部では精神論者の方が優勢になって行きました。








2013年5月14日火曜日

OCEB講座 第27回 Why BPM? ビジョンの問題

浄智寺 山門
源氏山への登り口はたくさんありますが、北鎌倉側からですと浄智寺が一般的です。

 浄智寺は北条氏が建立した鎌倉五山第四位の禅寺です。

皆さんご存知の通り、北条氏は鎌倉時代には事実上の日本の支配者でしたが、他の時代の支配者と比べ華美に走らず、鎌倉中にいくつも禅寺を建て、どの寺も質素剛健の印象が強く、一言で言うと風変わりな支配者でした。


ビジョンの問題 ー 目的の喪失


「失敗の研究」は、様々な日本の組織的問題を揚げていますが、このブログでは、指摘された問題を、出版後30年経った現代の視点で未だに大きく残る問題(その多くは、筆者の視点では、当時より、さらに悪化しています)をピックアップして議論して行きたいと思います。
そして最後に最大の謎(もっとも筆者にとっての謎ですが)、なぜ日本では組織的問題が増大し続けるのか?についても議論したいと思います。 

あいまいな戦略目的と作戦目的との不一致

大東亜戦争での日本軍の中枢部から示される戦略目的は極めてあいまいで発散的であり、極端な場合は両論併記ーいわゆる玉虫色であり、後付け的な対応と追認的な態度とが相まって、この時点で既に敗北を運命付けられていた観があります。
また戦略目的が不明瞭ですので、現場の解釈はさらに発散し、作戦目的はバラバラになり中途半端なものになって行きます。
そしてついには組織から目的が失われ、何のための作戦か解らないものが作られ実行に移されて行きました。
インパール作戦はその典型例の1つであり、莫大な犠牲(参加人員10万人中戦死者3万人、戦傷戦病で後送された者2万人、残りの5万人のうち約半数は病人であったと言う)を払って惨憺たる失敗に終わり、作戦が中止された時には、確保していたビルマの防衛も失ってしまいました。
なお、この作戦に参加した3個師団の師団長全員が作戦途上で解任・更迭されると言う異常事態を生みました。
この作戦など仮に成功していたとしても大勢に影響は無く(端的に言えば、日本軍の最大の敵である米軍にとっては痛くも痒くもない戦略上の要地でもない失地)、司令官の点数稼ぎのための作戦だったと言われています。
ちなみにこの司令官は、当時の日本軍の基準でも無能の極みでしたが、上層部のおぼえがめでたかったのか、責任を問われる事もなく、その後も陸軍に居続けました。

2013年5月11日土曜日

OCEB講座 第26回 Why BPM? ビジョンの問題

源氏山公園
「♬源氏山から北鎌倉へ〜 あの日と同じ道程で〜 たどりついたのは縁切寺〜♪」と、鎌倉のテーマソング「縁切寺」を口ずさみながら、佳日、源氏山を歩いてきました。
「♪今日の鎌倉は人影少なく、思い出にひたるには十分過ぎて♫」、と言う歌詞の通り、連休中ですが、朝のうちは行き交う人もまばらです。

日本軍の組織的問題

前回話題に揚げた「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」と言う本ですが、お読みになっていない方もおられると思いますので簡単に紹介したいと思います。

この書物では、「大東亜戦争で日本軍はなぜ負けたか?」と言う疑問には、日米の国力の差があまりにも大きい現実的問題に打ち当たり、「そもそも日本はなぜ無謀にも大東亜戦争に突入してしまったのか?」と言う疑問に転化してしまうが、この書では、あえてその問題には触れず、日本軍の諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、現代日本の組織の教訓、反面教師として活用する事が狙いである、としています。

 戦争は錯誤と偶然の連鎖であり、個々の作戦では不思議の勝ちがあったり意外な負けがあったりする不確実性の集合体ですが、より大局的には要諦となるべき戦略的な要因が戦争の行く末、大勢に大きく影響する事が古くから知られています。孫子の兵法などは、戦略論の嚆矢でしょう。

日本軍の諸作戦の組織的問題ですが、少数の成功例を除き、大東亜戦争では惨憺たる状況でした。これは、彼我の戦力、物量の差の問題ではなく、例えば、決定に要する時間が極めて長くかかり、ある戦場では撤退を決めるまでに数ヶ月間を空費し、その間に大部分の兵士が餓死してしまった、とか、いつも攻撃のパターンが決まっており、敵に完全に読まれているにもかかわらず同じ攻撃パターンを何度も繰り返し大敗している(あるいは、外目には、敵に読まれている事すら気づいてないかのような行動パターンをとり、敵軍に気味悪ささえ感じさせている)、と言った問題など、現代の日本の官僚主義の蔓延した組織にも共通してみられる現象です。
また、これらの失敗は、けっして敵軍との戦力差が大きい局面に限った話ではなく、日本軍の方が戦力的、物量的にかなり優位に立っていた戦場でも見られ、外部要因ではなく、明らかに日本軍の内部的問題です。