2020年2月28日金曜日

10分の1の法則 その8

昨今はコロナウィルスの話題で持ちきりで、どこへ行ってもこの話で盛り上がっています。

筆者はウィルスどころか、生物学すらまともに勉強したことがなく、この分野にはまったくの素人なのですが、情報やデータの観点から、一言、感想を述べてみたいと思います。
というのも、今回の現象は、単にウィルス学や生物学(医学)上の問題だけでなく、広く社会科学的(法学、経済、政治などなど)な問題であり、そのなかで情報の扱いが極めて重大な意味をもつと考えるからです。

現状、海外の報道などを見ると、日本政府の対応に対して批判的に書かれていることが多く、一方の日本政府は海外に対して理解を求めていくという旨の答弁をしていましたが、試しに厚生省のホームページの英文を見ても、極めてブロークンな英文が羅列されているだけで、ブロークンさにおいては人後に落ちないつもりの筆者も降参するほどの意味不明さであり、これで果たして海外に対して情報発信しているつもりなのか?果たして意味が伝わるのか?大いに疑問です。(インターネットは政府にとっても、マスコミに依存せずに情報発信できる強力なツールであることは言うまでもありません。)
現実において、インターネット以外のメディアにおいても日本政府発の情報は殆ど見かけません。
また、英語媒体だけでなく、日本語の内容においても、果たして本当にデータの裏付けがあるのか?と言う疑問符がつく政治家、専門家の発言が多く、事実とオピニオンと願望が入り混じった混沌に見えます。
あえて情報戦略と言う言葉は使いませんが、とても説得力がある内容とは言えません。
戦略思考も、高次の合理思考の一種であり、合理的判断のできない組織に戦略思考を求めるのは、端から無理であったと言うのが筆者の感想です。

さて、情報とかデータとか言う話題で、思い出した出来事があります。

ディスコ・パーティー
1980年代の後半、日本はバブル景気真っ盛り、ワンレン・ボディコン(死語?)の女性たちが街を闊歩し、ディスコ(これも死語?)のお立ち台で踊り狂い、たしかジブリ映画の「となりのトトロ」や「火垂るの墓」が初上演されると言った頃のお話です。


筆者の知人、エヌ氏は、当時、IT企業に務める20代の若きコンピュータ・エンジニアでした。(以下の話は、彼の話に多少の変更を加えて書いています。)

エヌ氏が、その日の朝、いつも通りコンピュータに向かって仕事をしていると、ワンレン・ボディコン姿の秘書が、外人を一人、彼の席までエスコートして来ました。(注: 当時のOLのファッションは大体のところワンレン・ボディコンでした。)

エヌ氏は秘書の差し示す外人の名刺に訝しげに目をやりながら、挨拶をしました。
名刺には「英国外務省秘密情報部( MI6) ジェームス・ボンド」とありました(もちろん仮名)。
ボンド氏は、とても急いでいるようで、挨拶もそこそこに、「我々を助けてほしい、君のボスには許可を得ている。すぐに、一緒にオフィスに来てくれないか?」と言い、エヌ氏はせかされるまま、英国の高級車ジャガー(007の愛車)に載せられ、ボンド氏らのアジトへ連れてゆかれました。

エヌ氏は最初は英国大使館にでも連れて行かれるのかなと想像していたのですが、着いた先は都内某所の高級ホテルでした。
VIP専用エレベータに載せられて、エヌ氏が連れてゆかれた場所は、ホテルの広いスイートで、大きな机の上にパソコンが置かれており、要は、ボンド氏はエヌ氏に「そのパソコンが壊れているので直して欲しい」、と言う話でした。

当時は、パソコンはまだ高価な時代で、日本の企業内にも、さほど普及しておらず、会社でなく個人で使っている人は、まあオタクかその眷属と見て良い時代でした。
高価なだけでなく、当時のパソコンは動作が非常に不安定なところがあり、いったんトラブり始めると、なかなか素人の手に負えず、そのパソコンの持ち主も、やむを得ず、エヌ氏のような専門家の助けを求めたものと思われます。
当時は、たとえIT企業であっても、パソコンを実務に使っているのはもっぱら若手であり、マネージャたちは敬遠している状況でした。(世代的にも当時のIT企業のマネージャたちはメイン・フレーマー)

そんな頃でしたので、エヌ氏は診てくれと依頼されたパソコンをいじりながら、このパソコンの持ち主は一体どんな人だろうか? と想像を巡らせていました。
というのも、パソコンの使い方に、そもそも異質な点があり、気になっていたからです。
そして、ボンド氏にパソコンの主が誰であるか尋ねたところ、彼は隠す素振りもなく、英国首相であるサッチャー女史で有ることをあっさりと認め、そして、そのスイートそのものが滞日中の彼女の部屋(隠れ家?)であることをエヌ氏に説明しました。

「鉄の女」として名高いサッチャー女史は、当時、頻繁に日本に来ていました。
彼女が日本で何をしていたかはよく知りませんが、その滞在中、彼女の甘言に釣られて日本の自動車メーカーが何社もイギリスに連れ去られていったことは当時でも有名で、ご存知の方も多いと思います。(連れ去られて行った自動車メーカーは、今でも英国で元気にやっているようです(多分)。)

さて、後日、エヌ氏が居酒屋で我々に語ったところによると、彼が異質と感じた点は、パソコンに最先端のアプリが入っていたとか、特殊なプログラミングが施されていたと言う技術的な問題ではありませんでした。技術的な問題でしたら、エヌ氏自身が開発部門の技術ヲタ(かっこよく言えば、テッキーやギークたち)をたくさん見ているので、さほど奇異には感じなかったでしょう。
またその頃のサッチャー女史が60代後半であり、日本ではその年代の女性がパソコンをいじっているという事自体が当時としては極めて珍しかったと言うことでもありませんでした。
彼が異質と感じたのは、内容の強い情報志向性と論理性でした。
今考えると、短い時間でそれを感じ取ったエヌ氏の慧眼には感服しますが、聞き手側の我々は極めて鈍感であり(少なくとも筆者は鈍感でした)、もっと卑近な問題に話題はシフトしてゆきました。
80年代において、鈍感な我々も日本と欧米のマネジメントの違いには気づいておりました。
当時のIT分野では、その違いが端的に現れる面が強く、例えば使用する技術は優れているのに出来上がったシステムが極めてお粗末であり、その原因が技術不足ではなく、上流工程、例えば要求マネジメント、にあったと言うような問題はザラでした。

しかし、バブル期の当時、日本のIT産業自身が、アメリカに追いつけ追い越せの勢いの時代であり、急速な進歩の結果、日本のマネジメントが欧米を抜くのは時間の問題、と極めて楽観的に考えておりました。(これは、我々だけでなく日本の社会全体の気分と言って良い状態でした。)

続く