2018年3月13日火曜日

纏向遺跡にて その2  <漢字と日本語について>

邪馬台国への道

魏志倭人伝


邪馬台国の話題になると、その唯一の記録文書である所謂「魏志倭人伝」を当たる必要があります。
しかしながら、この文書は読み手の立ち位置(視点、目的、意図)により解釈が多岐にわたることが知られています。
したがって、筆者の立ち位置に触れておいた方が良いでしょう。

ちなみに、この現象に似たような情報の変形はシステムモデルなどにもよく現れ、同一のシステムに対し、その視点«viewpoint»が異なればシステムの見え方«view»も大きく異なります。
例えば、原子力発電システムは、経済的観点から見たモデル、業務的・オペレーション的な観点、あるいは品質管理的観点から見た場合では、見え方、モデルは全く異なり、また安全保障的観点から見るとまた全く別のモデルが現れます。

日本語システムの特殊性


今から30年ほど前のことですが、筆者はアメリカと日本の間を頻繁に往来する時期がありました。
その頃、アメリカの出張先で、仕事上はあまり直接的な関係はなかったものの、よく顔を合わすアメリカ人エンジニア、Bさんがおりました。
彼は、筆者が日本から来ているのを誰かから聞いていたらしく、日本語で話しかけて来ました。
職場には日本語を話す人が他におらず、Bさんは筆者にとっては唯一の日本語での会話が可能な人でした。
彼はMITかどこかアメリカ東部の有名大学の卒業生で、そこで日本語を第二外国語として勉強したそうです。(第一外国語は確かスペイン語だったと思いますが、フランス語だったかもしれません。いずれにせよ、Bさんは両方とも喋れたようです。)
彼の日本語は大変流暢で外国人が話す日本語としては申し分の無いレベルに達していたと思いますが、本人は「まだまだ、」と謙遜していました。

そんなBさんと日本語の特性について話をしたことがあります。
Bさんは学生時代、日本語を勉強し始めて2年ほど経った時、友人たちと一緒に日本に遊びに来たことがあったそうです。
その時点で彼は大学の授業で日本語の日常会話は大体マスターしたと自負しており、辞書さえあれば旅行レベルでの会話には困ることはないだろうと思っていたそうです。
実際問題として、彼が大学で取った第一外国語では、その語圏への旅行では、日常会話と辞書で十分なんとかなったそうです。
来日の際、彼が空港に降り立ちホテルに着くまでは何の問題もなかったのですが、街に一歩出た途端に予想外の困難に遭遇してしまったそうです。

街で出くわす漢字は、彼の知る範囲をはるかに超えていたので、さっそく持参して来た辞書を引こうとしたのですが、和英辞典も国語辞典もその漢字の読み方が分かっていないので引けず、今度は漢和辞典を用いて漢字を引いても読み方が漢音ではどう発音するとか、呉音ではどう、訓読みではどう、とか書いているだけで、熟語例も漢籍から取られた用法が圧倒的で、とても現代日本語を引けないものでした。

この状態は30年後の今もさほど変わっておらず、手元の漢和辞典を見ても基本的に漢文学習者むきに作られており、和英辞典も国語辞典も基本的に読みからしか索けません。
科学技術の進歩の結果、今現在可能性がある方法としては、AI技術を使った文字認識などが考えられますが、決してハンディな方法にはまだなっていません。

Bさんは、都会の真ん中で辞書が全く使えず、文字どおり完全に文盲になってしまい、そして、この体験は彼の初めての来日の強烈な思い出の一つになったようです。
この日本語の表記システムの特性は、日本人自身にとってはさほど大きな問題とは感じられないかもしれませんが、海外の日本語学習者にとっては最大の障害(の一つ)になっているようです。
Bさんによれば、同じ漢字文化圏にある中国語や韓国語(朝鮮語)と比較しても日本語の表記システムのこの特性は際立っており、中国語では漢字は表意文字であると同時に表音文字としても機能しており、基本的に一字ー音であって字づらだけを見て辞書を索くことが可能であり、韓国語に至っては15世紀以降、表記に表音文字(ハングル文字)を採用し、大抵の場合辞書は音だけで検索可能です。
この困難は、例えて言えば、現代日本人が萬葉集を読む上で感じる困難と(困難の程度は度外視して)同質的です。一例として、次の歌を見て見ましょう:

春過而 夏来良之 白妙 衣乾有 天香来山

この歌はかなり有名なので ー 百人一首の元歌の一つです ー 簡単に読める方もいらっしゃるかと思いますが、仮にこの歌を知らなかった場合、漢字辞典だけを使って読もうとすると極めて困難な作業になります。(萬葉集の中には、読み方に関し専門家の間でも意見が分かれる歌もあるほどです。)

春すぎて 夏来たるらし しろたえ ころも干したり あまかぐやま

この歌は漢字を主に訓で読んでいますが、ところどころ音読みの部分が混ざっています。「らし(良之)」 、 「の(能)」の二ヶ所は音読みで読んでいますが(ともに呉音)、面白いのは「之」と言う字で、二句の「夏来たるらし」では音読みなのに、結句の「あまのかぐやま」では「の(之)」と訓で読んでいます。
救いは、萬葉集の時代の漢字の読みが呉音(古代の音)中心なので、平安時代以降に日本に入って来た漢音や唐音を考える必要がないところぐらいだけです。
現代の日本語文は、萬葉集のように全文字が漢字ということはなく、半分ぐらいは「かな」で書かれていますので、その点だけで随分マシにはなっていますが、それでも訓読み、音読み(呉音、漢音、唐音など)が入り乱れて読み方を決定する文法的なルールは存在せず、面倒なことに、同じ字づらでも読み方が変われば意味が変わってしまうような場合もあって、非常に厄介です。(読むための一貫したルールが存在せず、かつ、字面だけで辞書を索くことが非常に困難な言語)
これほどめんどくさい表記システムを採用している言語は、筆者の知る限り日本語だけです。
例えばスペリングと発音が必ずしも一致しない言語として有名な英語でも、スペリングだけで(どう発音するか知らなくても)辞書を索くことが可能であり、またロシア語などのように語形変化が多い言語でも、少数の例外的な単語を除き語形変化が極めて規則的であって、初学者でも基本形は簡単にわかります(ロシア語の辞書は基本形で索く必要があります)。
そして、古典語と呼ばれるギリシャ語、ラテン語、サンスクリット語、中国語などは、すべては(事情はそれぞれ異なるようですが)字面だけで辞書を索くことが可能です。

Bさんによれば、日本の複雑な表記システムさえなければ、日本語の文法そのものは他の言語に比べて決して難解なものではなく、発音に関しては他の言語に比べ音の種類はむしろ限られており、決して学習困難な言語ではないと思えるそうです。

(続きは後日)