そのついでに温泉にも浸かって来ました。
左の写真は旧相模川にかかっていた旧馬入橋の橋脚で、源頼朝公が無くなる直前にその橋の落成式に訪れたと記録されています。
これらの橋脚は大正時代の関東大震災のおりに水田の中から突如地表に現れ出て来たそうです。
この場所は、数百年の間に流路が変わってしまい現在では川ではなく陸地となってしまい、相模川の本流とは1〜2キロ離れています。(写真の水風景はプールで、橋そのものはこのプールの真下に水中保存されており、地上に出ている橋脚はレプリカです。)
しかし面白いことに、遺構は現在の国道1号線 ー 昔の東海道 ー のすぐ脇にあり、鎌倉から西へ向かう湘南の街道筋は当時から(川筋が大きく変わってしまったにもかかわらず)ほとんど変わっていないことを暗示しています。
つまり、古代から、川筋は変わって行ってもこの辺りの旧東海道の道筋はほとんど変わらず、橋や渡渉地点が変わるだけと言うこの街道の性質を密かに示しているように思われます。
話はちょっと変わりますが、筆者の母方の祖父は今から40年ほど前 ー筆者が子供だった頃ー に亡くなりましたが、最近になって彼が晩年に書いた回顧録がまとめられ 製本されて親戚や知人に送られて来ました。
死後40年経ってようやく日の目を見たわけですが、これは長い間彼の回顧録の所在がわからなくなってしまっていたためで、なんでも、伯父夫婦が家の改築をするために片付けをしていたところ使っていない古いピアノの中からその原稿が出て来たそうです。
祖父は明治21年に九州の山村に生まれそこで一生の大半を過ごしましたが、その土地を知る者にとっては彼の回顧録はたいへん興味深いものです。
明治になって数十年経っても田舎はほとんど江戸時代のままの生活で、電灯が引かれたのはかなり後の時代です。
回顧録の一節に彼の親の世代から伝え聞いた江戸時代の道に関する記述があります。
江戸時代の山村の暮らしは不便きわまりなく、どこに行くにも川を渡ったり峠を越えたりする必要があり、街灯など当然なく提灯や松明を持って、すべて徒歩で行き来していたそうです。
また峠をいくつか越えた先に温泉があるのですが、藩が異なり通貨が違うために藩境の手前にある村の庄屋の所へ立ち寄って両替をしなければなりませんでした。
特に大変なのが川で、川を超えて隣の村に行って帰って来るだけで一日仕事でした。
川には渡し舟がありましたが、不定期でいつ舟が現れるか分からず、また舟が来て乗り込んだ所で乗客が十分揃うまで出発せず、随分とのんびりしたものでした。
今だと車で10分もかからぬ程度の距離ですから、今昔の隔たりは想像以上です。
また山村では、江戸時代の主な道筋は今の幹線と随分と異なる部分があり、山中の峠越えの道が中心で、大名行列も山道を進んでいました。
これは渡渉の煩いを厭い、川沿いの狭く崩れやすい道を避けた結果と言えます。
かつて大名行列が歩いた山中の街道は今ではほとんど誰も歩かず、知る人ぞ知ると言うような存在になってしまいました。
明治になって川に橋が架かったとき、村中がお祭り騒ぎだったと言うのも不思議ではありません。
鎌倉時代に相模川に橋が架けられたとき、 当時の鎌倉の人々の喜びが大変なものであった事は想像に難くありません。
頼朝公がわざわざ落成式に赴いた事も、当時橋の完成がいかに重大な出来事であったかを物語っています。
BMM
今までBMMの概念図を何度も表示して来ましたが、再度掲示します。「End」が目的概念BMM図 |
そして、「Vision」に対して「Mission」、「Goal」にたいして「Strategy」、「Objective」に対して「Tactics」がそれぞれ対応する事はご理解されていると思います。
今回は、この絵をより正確に理解するために、次に「End」のUML図を示します。
下の「End図」を参照してください。
End図 |
一つの企業にとってビジョンはトップのレベルにあるものが唯一ですが、ゴールとオブジェクティブは階層的、あるいは部門別にいくつも存在します。
左図の「Desired_Result」の再帰関連(composed_ofとpart_ofの関連端名が付けられた自分自身に戻る関連) が、その事を示しています。
より具体的に言うと、企業のビジョンはトップの経営者しか決める事が出来ない専権項目なのに対し、ゴールとオブジェクティブは、開発部門あるいは 営業部門と言った個々の部門別、あるいは階層別に決めて行くが出来ます(あるいは決める必要があります。)
このことは対応する手段側にも同様に言えて、企業レベルの戦略から部門レベルの戦略まで詳細化、細分化する事になります。
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