2012年6月15日金曜日

原発事故に対するシステム工学の視点 7

北鎌倉 東慶寺
モデリングに関して、一般の人に対して話す場合によく取り上げる話題の一つに、次のようなものがあります。

筆者は若い頃、アメリカの会社でアーキテクトをやっていた事があります。
誤解を避けるために念のために付け加えますと、別にアメリカで大工をやっていたわけではありません。ネットワークやソフトウェアのアーキテクチャを構築する仕事に従事しておりました。
職場にはいろんな人がいましたが、アメリカ社会全般の人口比に比べ開発部門にはアジア系の人間が多い事はよく知られていますが、ソフトウェア関係は特にその傾向が顕著でした。
そして、一口にアジア人と言っても筆者のような極東系は極めて少なく、中東系の人が中心をなしていました。
なおここで言う中東系は、世間一般の定義よりもやや狭く、西はイスラエルから東はインド辺りまでの地域にルーツを持つ人たちの事を指しています。
この人たちの特徴は、やたら抽象的な話を好む事で、哲学っぽい話が大好きでした。
 筆者の経験から言うと、ヨーロッパ人も(高等教育を受けた人は特に)抽象的な話が好きですが、高い抽象度を好む面においては、中東系の方がかなり上でした。
そして、同じヨーロッパでもイギリス辺りになると随分と具体的な話が好きになり、アメリカに行くと、さらに具体性を好む傾向が強い ー と言うよりも、具体性を好む人と抽象的な話を好む人が混在している状態 ー と言うのが筆者の印象です。
では、日本はどうかと言うと、中東とは真逆の対極に位置し、極めて具体的な事柄を好む傾向が強く、抽象的と言う言葉自体にネガティブな響きさえ込められる局面にたびたび出くわします。
この傾向は、一般の社会だけでなく、最も抽象的な話を好みそうな大学内でも同じ事が言えます。
欧米の大学はリベラルアーツ教育を重視しますが、そのルーツは古代のギリシャ哲学にあると言われています。
古代ギリシャの哲学者たちは形而上的なものを志向し、具体物ではなく概念(イデア)こそが真の存在、と考えるまでに至ります。
ギリシャのこのような抽象志向は中東 ー 特に古代バビロニアあたり(今のイラクの地域) ー からの影響だと、筆者はニラんでいますが(古代ギリシャ人は、自分たちの先祖は東方から移住して来たと信じていたようですし、ユダヤ人も自分たちの先祖はバビロニアのウルからやって来たと聖書にも書き残しています)、それはともかくとして、欧米の教育のバックボーンには哲学の伝統があり、哲学教育を通じて若者にコンセプチャル・シンキングやシステム・シンキング等の抽象的な思考(アブストラクト・シンキング)の訓練を行なって来た、と言えます。
一方日本は(少なくとも明治以降)、具体性のある「もの」への指向性が強く、システム屋から見るとシステム・シンキングの欠如と思える事象が数あまたあります。
また、「もの」とは一見遠いはずのソフトウェア産業においても同様の傾向があり、「もの」に近いプログラミングなどの実装技術には興味も強く技量的には世界水準にあると思いますが、より抽象度の高い分野やシステム・シンキングを要する分野に関しては、改善の余地が多々あります。



さて、昨年の原発事故以来、原発そのものの安全性に対する見直しなどは行なっているようですが、一方で昨年問題となった社会システムに対する対策がほとんど行なわれていないように見受けられます。
この夏は、再開する原発に経産省や電力会社から20名ほどの幹部の方が常駐するそうですが、まるで人柱を立てた宗教政治に戻ったかのようです。
また、原発事故は国家の安全保障のレベルの問題であるのに対し、自衛隊や警察からの核問題の専門家は参加されないようです。

宗教政治は冗談ですが、20名は今回の事故で最も信用を失った組織から出されるようで、それだけ住民の不信感が強い事を象徴しているようです。心理政治と言うべきでしょうか。





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