2013年11月22日金曜日

OCEB講座 第36回 日本型組織と海洋汚染問題 その7

富士山と相州大山
鎌倉生まれの友人、M君によると、鎌倉周辺の市町村では、時々「湘南」の定義を巡って大論争になるそうです。
「湘南」と言う地名は、元々は中国に存在した禅宗のメッカ、「湘南県」から来たものだそうで、鎌倉時代には、鎌倉市内の山中にある建長寺や円覚寺などの禅寺を中心とした地域を漠然と指したものだったようです。
また本家の湘南県はその風光明媚さが有名です。日本でも多くの画家達が見たこともない「湘南県」を空想しながら山水画を描き残しています。本家の「湘南県」は日本の文人墨客が憧れる言わば理想郷になり、その湘南を流れる大河、湘江の水風景がついてまわるようになります。(残念な事に、本家の中国の湘江は、現在では中国で最も重金属汚染が激しい汚れた川となってしまっているようです。)
そうして、時代が下るにつれて「湘南」の地名は次第に禅寺の多い鎌倉を離れ、海沿いの美しい水風景を求め西に移動し、江戸時代には相模川を越えて相模湾岸の西側の小田原や大磯あたりの海岸を中心とした地名になったようです。

鎌倉が湘南の名前を取り戻したのは、明治になってからで、東京の保養地としてハイカラな避暑地、医学的効用を期待した海水浴の場、そして当時の国民病、結核の療養の場として、東は逗子、葉山から西は小田原の先まで、「湘南」は相模湾岸全体を指し示すかなり広い範囲を示す言葉となりました。
この頃の湘南のイメージは、もはや禅宗や山水画を完全に離れ、ハイカラな避暑地、高級な別荘地です。
現在この地域にある大きな病院の大部分が、かつては結核療養所、サナトリウムであり、
長期滞在型の保養地であって、言って見れば、高級避暑地「軽井沢」の海浜バージョンとなっていました。
夏目漱石の小説「こころ」で、主人公が鎌倉の海岸で「先生」と外国人が会話するのを目撃する場面が描かれていますが、湘南海岸には外国人の姿も結構見られたようです。

そして、21世紀の今日、このブログの読者諸兄姉が「湘南」と聞いて思い浮かべるであろう「若い男女が出会いがしらに十八女合い、意味もなくセックスするロマンチックな場所」のイメージは、M君によると、第二次大戦後マスメディアによって作られたものだそうです。
そして、ここまで「湘南」のイメージが変わってしまうと、今までずっと指をくわえて推移を見守っていた海岸から離れた山沿いに住む恐らく海など見た事もないような人たちまで、自分も湘南だと主張し始めました。確かに最新の定義から言うと、立派な湘南かも知れません。
また逆に、鎌倉などはその低俗なイメージを嫌い、うちは湘南ではないと言い出すようになってしまいました。

公害の話は、また次回に。






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