2013年1月1日火曜日

OCEB講座 第21回 Why BPM 4

謹賀新年 
前回のブログで、昔は週刊誌が「今年の新入社員は〇〇世代だ」と1年ごとに世代を命名していたと書きましたが、改めて今思い返すとそれも無理からぬ現象と納得できる点があります。
というのも、筆者の少年時代を含め戦後の日本は1990年前後ぐらいまでは、世界史上の大波にもまれながら激変していたからです。
その反動かどうか、90年以降の日本は世界の変化に抗しながら独自路線を走り出した時代と言うことができると思います。

第二次世界大戦終了以降、今の日本社会に最も深い影響を与えた出来事は冷戦とその終結であったと思います。
経済的にはバブル経済とバブル崩壊が直接的でしたが、これは冷戦終了の前後に日本に咲いたあだ花であり、冷戦と表裏一体のものだと筆者は見ています。
 敗戦後、経済的に目覚ましい復興を遂げた国は日本と西ドイツの二国でしたが、両国民とも国のリーダーシップに問題があると言う共通の欠陥を持つものの、技術的工業的なポテンシャルが極めて高かったのは事実でしょう。
そして、両国とも戦後その技術力を買ってくれる自由市場を手に入れることができました。

日本は戦後西側陣営に組み入れられましたが、同時にアメリカ市場への自由なアクセスを手にすることができました。
当時の市場規模感は、(激しく変動する為替レートに振り回されるため) 数字で言うのは難しいのですが、昔ネットワーク機器のマーケティングに従事していた時の感覚で言うと、80年代のコンピュータや通信機器の市場規模は、日本市場を1とすると、アメリカはその10倍以上、アジアで日本に次いで大きかったオーストラリア市場でも日本の10分の1程度で、韓国や台湾、その他のアジア市場にいたっては日本の地方都市程度であり、海外市場=アメリカ市場と言っても過言ではありませんでした。
従って、日本の戦後の急速な復興からバブル経済までを支えた日本の輸出産業の主要市場は北米であったと言えます。
80年代、筆者はアメリカに住んでいたことがあるのですが、当時のアメリカは双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)やスタグフレーション( 景気後退とインフレーションの同時進行)に悩まされ非常に不景気でしたが、それでも日本の対米輸出は増加の一途でした。
たとえ話で言うと、北米市場と言うリングの上で、日本と西ドイツがアメリカをコーナーに追いつめボコボコに殴っている状態でアメリカは「もう勘弁してくれ」と言っているのですが、西ドイツは少し手を緩めたのに対し、日本はそれでも殴り続けていたので、アメリカはとうとう切れてしまい靴底からナイフを取り出して日本を脅しはじめた(少なくとも日本から見ると反則ワザ)、と言う状況でした。
 対日感情も悪化を続け、いわゆるジャパン・バッシングの状態でしたが、 反日暴動があったわけでもなく、まわりには親切な人も多かったので、個人的には至って平穏無事でした。
また、何と言っても強い円のおかげで、日本円でもらう給料が同じぐらいのレベルのアメリカ人労働者よりも高く、またインフレとは言いながら、日本に比べると農産品を中心に物価が極めて安いため(食材だと4分の1から3分の1程度)、結構快適に暮らしておりました。

(続く)



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