東慶寺 |
この寺は江戸時代まではずっと尼寺であり、別名、縁切寺、駆け込み寺とも呼ばれ、数少ない女人救済の寺でした。
グループシンク(集団思考)
前回はノモンハン事件について書きました。
日本軍内部の精神論者は、現代の視点で見ると、かなり異常性を帯びているのですが、その絶対的な勢力は終戦まで揺るぎませんでした。
異常性の一例を挙げると、ノモンハン事件の際、兵の無意味な損耗を避けるために、部隊を撤退させた連隊長が何人かいたのですが、彼らはその撤退の判断を責められて自決させられています。
そして撤退を否定された以上、 日本兵は前に進むしかなくなり、敵が待ち構えている事がわかっている戦場へ突進し敵軍の格好の標的となって全滅する、と言うプロセスを繰り返すことになります。
ちなみに、なぜ全滅したかと言うと、日本兵は生きて捕虜となる事を恥辱と教え込まれていたので降伏せず死ぬまで戦ったからです。
ノモンハン事件が終わり、勝利したソ連軍の将軍はモスクワに戻った後、スターリンに対し日本軍について次のように報告しています。
「日本軍の下士官は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である。」
この高級将校が無能と言う評価は、大東亜戦争を通して日本軍と戦った連合国軍側の将兵にある程度共通する認識ですが、残念ながら現代の日本人から見ても、否定はできません。
むしろ後世から見て、彼らの無能さは「滑稽なほど無能」と言う形容さえ似合うほどひどいものに映ります。
その滑稽味は、彼らが信じていた根拠の無いーあるいは結果を生まないー思い込み(精神威力の効果などが代表的です)とともに、何度失敗しても事実を直視せず事実から学ぼうとしない頑な態度に大きく起因します。
日本軍の高級将校たちはいわゆるグループシンク状態に陥っており、異論を受け付けず、異論を唱える者を徹底的に攻撃しました。
ちなみに、このグループシンクと言う言葉は比較的新しい単語ですが(OCEBにも出題される可能性があります)、概念そのものは日本にも古来からありました。
戦国時代、日本の武士たちは、戦(いくさ)評定の際はいかなる発言も許され、撤退を含めどんな選択肢も、あるいは一見馬鹿げた可能性についても吟味し、事実に基づかない集団的な思い込みの状態(往々にして根拠の無い期待の状態)へ陥るリスクを回避しようとしました。
無能と評された日本の高級将校ですが、彼らは自分たちは決して無能だとは思っていなかったというのもグループシンクの特徴です。
以前紹介したインパール作戦の司令官は、作戦の失敗は自分の無能のせいではなく、部下が無能だったからだと言ってのけています。
現代を生きる我々にとって他山の石とすべき教訓です。
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