2022年6月19日日曜日

世界標準と日本語 その8 


神戸の中で、最も神戸らしいと言われる場所にある茶店(カフェ)へ、絵を描きに行ってきました。
 
 ここメリケン波止場は、明治期には神戸港を代表する、さらに言えば日本を代表する波止場の一つとなり、多くの外国航路の船が行き来し、夏目漱石など海外への留学生や、移民、ビジネスマン、芸術家など、多くの洋行する人々の出発点、帰着点となりました。
 
メリケン波止場が最も賑わったのは、日本の高度成長期で、多くの貨物船が、屑鉄や鉄鉱石などの原材料を輸入し、製品を輸出して行きました(いわゆる加工貿易)。また、当時は国内輸送においても船便はよく使われ、鉄道輸送と並んで、日本経済の大動脈を形成していました。
上に写っている公園は、埋め立てられる前は海であり、数あまたの艀(はしけ)の船泊まりとなっていました。
貨物船が入港すると数えきれないほどの数の艀がタグボートに引かれて船に運ばれ、多くの沖仲仕たちが24時間交代で何日もかかってすべて人手で荷役を行っていました。
近くにある造船所(川崎造船や三菱造船。今は共に造船から重工に社名が変わっています。)も、荷役同様24時間操業を続け、大音響を港中に轟かせながら夜通し煌々とまぶしい灯りを海の上に放っていました。
そして、高度成長期の末には、日本は世界有数の(確か世界一の)鉄鋼の生産国、造船国になっていました。
 
忙しすぎて陸に上がって食事をするヒマもない港湾労働者たちに食事(弁当)を売る船や、また艀の片隅に残った積荷の残骸を買い取る古物商の船も行き来し、この辺りは24時間、人や荷物、そして大小の船でごったかえしていました。 
また艀には、多くの水上生活者の方も暮らしており、動力源がなく電気もガスも水道もない当時の艀の船上の生活の話をうかがうと、現代では考えられない異次元的、別世界の感があります。
そういったご苦労が現在の日本の礎(いしずえ)を作り上げたと感じます。
参考:かどもとみのる著「メリケン波止場」
カフェには平日に行ったので、店の中は修学旅行中らしい港湾史好きな(?)女子高校生たちがパラパラといる程度に空いていて、じっくりと大作を仕上げることができました。
 

自然言語の限界

 

OSIの実証実験に現れた「自然言語の限界」を、をコミュニケーション理論でよく登場する「送信者・受信者モデル」を使って図示したものが下の図です。

絵心がまったく無いため、フリー素材を使いながらメリケン波止場のカフェで格闘の末、完成しました。

フリー素材の作者の方々感謝いたします。

 

送信者・受信者モデル

 

図は、送信者はアプリケーションの仕様を自然言語へコーディングし、受信者は自然言語をデコーディングしてアプリケーションを開発している状況を示しています。

上図では、送信者側の「子犬」が受信者では「大怪獣ゴジラ」に変形していますが、情報の変形が起こる原因の大半は自然言語へのコーディングと自然言語からのデコーディング作業に問題にあり、逆にメディア(媒体)上のノイズの影響はほとんどありませんでした。

21世紀のテクノロジーの観点から見ると、この種の問題は、使用した言語、自然言語の実用限界そのものの問題に映ります。



2022年6月4日土曜日

世界標準と日本語 その7  日本語だけの問題ではなかった


OSIの世界標準をめぐり日本語訳や日本人の英文解釈が疑われたのですが、その疑惑はあっさり解かれました。

世界標準の解釈をめぐり揉めていたのは日本だけでなく海外でも揉めていたのです。

 おおむね日本語で解釈が揉めてる事柄は、英語の母語話者であっても、解釈が分かれる、あるいはどちらの解釈が正しいと言うことはできない、と言うレベルの解釈問題でした。

 世界中で解釈問題が発生し、結局のところ、実証実験を先に進めるために、エンジニア達は共通解釈を話し合って決め、世界標準を書き換え、更新を行なって、少なくとも実証実験を行った組み合わせのコンピュータ・システムは繋がるようになりました。

しかしながら 、OSIに対する熱は一気に冷めてしまいました。

実証実験の参加者達は、このOSIの方法論、つまり、世界標準を決めて、それを基に各社がシステムを実装し、コンピュータのインターオペラビリティ(相互接続性・運用性)を図ると言うアプローチそのものの実用性に疑問を呈し始めました。

世界標準を基に、自分のシステムのデバッグをしようとしても、そもそも標準や自分の解釈が正しいかわからない、あるいは実務者が議論して実証実験しなければ標準が決められない、さらには、実証実験した相手とは繋がっていても将来現れる接続相手とは繋がる保証がない(下図参照)と言うのは、果たして標準と呼んで良いのか?

少なくともユーザーやメーカー、あるいはエンジニア達が期待した世界標準ではない、と言う不満が溢れてきました。

と言うようなわけで、OSI熱は一気に冷めてしまったのですが、今振り返ってみると、当時とは異なる別の見方ができます。

21世紀の現在のテクノロジーから見れば、当時の問題は、日本語の問題でも英語の問題でもなく、自然言語の(実用)限界の壁にぶち当たったと言う問題なのです。

自然言語の(実用)限界

古来、自然言語は、様々な文学者や哲学者達によって変更や新しい概念の追加が試みられ、時の流れとともに言語空間が拡張されてきましたが、OSIの場合と比較できる例として、アイザック・ニュートンを取り上げたいと思います。

ニュートン自身も、そして当時の社会も、ニュートンその人自体は科学者ではなく哲学者と見做しており、近代科学はむしろニュートンが創成し、ニュートン以降、科学者と言う職業や、科学業界が誕生したたと言っても良いほとの時代のターニング・ポイントを作った人物です。

ニュートンは高校の古典力学の授業で必ず出てくる人物で、ライプニッツとともに微積分学を創始した人物ですのが、ニュートン記法と言う微分の表記法も作っております。

この表記法を発明したおかげで古典力学の正確な表現が可能になった訳であり、微分記号なしに、自然言語だけで表現しようとすると、古典力学は、とても、正確な議論をするなんて言うことは不可能です。

注: 微積分の表記は、現在では古典力学だけでなく、現代物理学でも必須であり、生物学から心理学、統計学、経済学の全般まで幅広く利用されており、およそ自然科学、社会科学を問わずサイエンスと名の付く科学分野では微積分の概念を使わない方が珍しい状況になっています。
OSIの場合も、古典力学に微分記号が果たした役割と同じような新しい言語が必要だったのです。

しかしながら、新しい表記法が登場し明確に定義されたのは、実証実験からおよそ20年ほど経ち、21世紀になってからのことでした。


2022年5月27日金曜日

世界標準と日本語 その6  日本語の問題か?


前回(世界標準と日本語 その5) のブログで、OSIの世界標準の解釈に各メーカー間で食い違いが発生した際、まず第一に日本語訳やその解釈が疑われたことを述べました。

これは当時の日本人技術者たちが英文解釈に絶対の自信を持っていなかったこともありますが(笑)、もう一つ別の理由がありました。

実はOSIの相互接続性実証実験を遡る数年前に日本でX.25パケット通信サービスが始まったのですが、その時にも、英文解釈に関連にする問題が発生していたのです。

X.25パケット通信は、低速(9.6kbps〜48kbps程度)のパケット通信であり、OSIと同じくCCITT(ISOの前身)が定めた通信プロトコルを指し、OSI参照モデルの第3層、ネットワーク・レイヤーに相当し、相互接続性実証実験でもそのプロトコルが使われていました。

日本でX.25パケット通信サービスが始まった時には、内外の通信機器(コンピュータ)メーカー達は、当然のことながら世界標準X.25に則り通信機械を製造し販売を開始していましたが、日本メーカーの機器だけが、当時、まだ民営化前だった電電公社(今のNTTの前身)の公衆パケット網に繋がり、外国製機器が全く繋がらないと言う問題が発生していました。

そして、この通信障害を解決するために様々な検証や実験が行われた末に解ったことは、この通信障害、インシデントの原因は、国際標準の日本語への誤訳にあったことでした。

日本語訳を誤り、その誤訳された接続標準を基に通信システムを設計した日本のメーカー同士や電電公社の間は繋がりましたが、海外製の機器とは全く繋がらなくなってしまったのです。

しかしながら、前回の公衆パケット網の障害と、今回のOSIの接続性実証実験の障害とでは、症状の出方はかなり異なっていました。

OSIの相互接続性実証実験では、単純に国産機同士が繋がると言う訳ではなく、外国製と国産機が繋がる場合もあるし、国産機同士であっても繋がらないと言う事態や、AとB、AとCは繋がるがBとCは繋がらないがと言う問題がメーカの母国語を跨いで混在し、極めて不思議な、謎めいた状態を示していました。

 

2022年5月24日火曜日

日本の経済モデル ビジョンの失敗

 

久しぶりに鎌倉の友人から電話があり、積もる話、四方山話の中で、日本の経済モデルに関する筆者の意見を聞かれました。

元より筆者は経済の専門家でも何でもなく、また、このプロマネBlogにそんな経済分野の話題が求められているとは思わなかったのですが、ビジネス・パースペクティブ、特に戦略論の観点から、私見を書いてみたいと思います。

 成長戦略の失敗

以前、〜確か数年前〜、世間で大きく話題になったものに「成長戦略」なる言葉がありました。皆様の中にも憶えておられる方も多いと思います。日本は、明治中盤以降、軍事や経済分野でも戦略的な動きが全く無くなってしまっており、筆者もたいへん注目しており期待を持って見守っておりました。

(注:明治中盤以降から昭和、平成にかけて、戦略という言葉自体は広く蔓延していましたが、そのアプローチは科学的ではなく、むしろ神秘主義的、宗教的な様相を呈しており、まるで「お題目」的な扱いでした。)

しかしながら、日本社会の熱気と大きな期待とは裏腹に、あっという間に失敗と幻滅、失望へと変わってしまいました。失敗と一口に言っても、世の中の失敗の中には、悪いことばかりでなく良い失敗も沢山あるのですが、この成長戦略の失敗は、かなり悪性度の高い失敗でした。経済成長の種をほとんど残さず、むしろ大金をかけて悪化のスピードを加速させ、社会を成長がより難しい体質に変える結果となってしまいました。

 戦略の失敗は、当然、トップの指導者の無能を意味しますが、この成長戦略の失敗や、同時に行われた他の関連する経済施作などは、はからずもトップだけではなく、トップを支えるブレーンたちや、官僚機構の(少なくとも上層部の)無能も明らかにしてしまいました。

ビジネス・パースペクティブから見た現在の日本経済

 1990年代から現在に続く日本経済の停滞状況〜いわゆる「失われた20年とか30年」〜は、通常の季節的な景気循環に見られる金利の上下動や投資の波では説明がつかない症状を示している事は論を俟ちません。

筆者は現在の日本の経済状況は、歴史的に見て一つの王朝・国家の繁栄・衰亡を決定しうる重大な局面を呈していると考えます。

話をより具体的にするために、歴史的に類似する例を挙げて、比較して見たいと思います。

現在の日本の経済の症状に最もよく似た例を歴史上から探すとすると、1970年代から80年代にかけてのアメリカ経済の衰退が挙げられます。

 第二次世界大戦後のアメリカは、戦争の被害も少ないこともあり、その工業力は目覚ましい発展を遂げ、世界最大の工業国、世界の工場として君臨し、その経済力には飛ぶ鳥を落とす勢いがありました。ところが、70年代に入ると、その勢いも急激に鈍化してゆきました。工業力、特に重工業分野での国際競争力を失い、工場は閉鎖され、大口の雇用先が次々と無くなってゆきました。多くのアメリカの製造業はアメリカ国内への投資をやめ、海外投資に向かいました。

当時、アメリカの新しい産業分野である、コンピュータ産業、情報産業は絶好調と言って良いほどの好業績で高い成長率を維持していましたが、アメリカの工業力の衰退を埋め合わせて引き上げるだけの力はありませんでした。

失業問題や都市の犯罪事件の増加、景気後退と高インフレの同時進行という大不況の中にアメリカは喘いでいました。このアメリカ経済の急激な減退は、その工業分野の国際競争力の急速な失墜によるものでした。

もう一つ似た例を挙げるとすると、19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス経済の失墜が挙げられます。ご存知の通り、イギリスは世界最初の工業国になった国家で、19世紀はパックス・ブリタニカと呼ばれたイギリスの時代となり、世界最大の工業国として君臨していました。ところが、20世紀に入ると、2度の世界大戦の敗者であるドイツに工業分野の国際競争力で2度も負けてしまいました。

詳しくは、本ブログのOCEB講座:戦略とビジョンの中のビジョンの失敗:イギリスの場合を御参照ください。
20世紀後半、アメリカが工業分野の国際競争力で敗れた相手は、世界大戦の敗戦国、日本と西ドイツでした。日本は、アメリカに対し、低コスト、高品質を武器に輸出を増やし1980年代には、アメリカにとって最大の工業製品の輸入相手となり、貿易赤字と財政赤字のいわゆる「双子の赤字」と「スタグフレーション」は、停滞期(70年代〜80年代)のアメリカ経済を象徴する言葉となってしまいました。

 一国の経済環境の国際競争力失われた場合、その分野への新規の投資が先細りしてゆき、競争相手である国際競争力の勝った国へ資本が流れていく事は19世紀であろうが21世紀の現在であろうが変わりません。むしろ流出速度は相対的に上がっています。

日本の国際競争力が負けた相手は、80年代に日本に遅れて急成長してきた東南アジア、そして中国でした。 東南アジアと中国の強みは個々異なりますが、大きく言って、低価格と大市場へのアクセス(大陸中国)の2点と言って良いと思います。

ビジョンの失敗

自国の国際競争力の失墜に対し、アメリカ政府とイギリス政府の対応は対照的でした。

アメリカ政府は自国の製造業を強化する為のあらゆる方策(品質改善運動など)を尽くし、海外企業(特に製造業)を国内に呼び込むために海外資本が投資しやすい環境を整備し、また新規産業の育成を図りました。

それに対しイギリス政府は国際競争力を取り戻すための政策をほとんど行いませんでした。

そして日本政府の対応は当時のイギリス政府の対応に酷似しています。

「イギリス政府は、既得権益の保持に終始し、新分野(当時の新分野は重化学工業)、自然科学の基礎研究分野への投資が疎かになってしまった事が大きな失敗であった」、つまりピーター・ドラッカー氏の言う所のビジョンの失敗を、日本政府も犯し続けています。

 (続く)


 

 

 

 

2022年5月13日金曜日

世界標準と日本語 その5

OSIの接続試験に時間が掛かったのは、大きく分けて2つの要因によるものでした。

1つ目は、参加企業の技術力や対応能力の違いでした。A社とB社の接続で問題が発見された場合、OSI標準に則り原因が究明され、一方もしくは両方の開発部門により修正が加えられて再テストすることになりますが、その対応スピードに差がありました。

しかしながら、この対応速度の差は事前に予想されており適当なスケジュール・バッファーが取られており、結果的にはほとんど問題にはなりませんでした。繋がらない原因が判明すれば、原因側の企業はさっさと、ー 時間が掛かっても、せいぜい2、3日以内に ー 修正して来ますし、接続機器がパソコンなんかだと、その場でテスト機に直接修正を加えコンパイルして完了、と言った感じで、その修正の速さに、メインフレーム側のエンジニアを驚かせていました。

注) メインフレームなどの大型機は、テスト機が接続試験会場に持ち込まれることはなく、遠隔地にあるメインフレームに繋がった通信回線のもう一方の他端が試験会場に来ているだけなので即時の対応が難しく、それに対し、パソコンなどの小型機は会場に直接持ち込まれるケースもありました。

 接続試験に時間が掛かった2つ目の要因 ー 実はこちらが本質的な問題でした ーは、不具合の原因がわからないと言う問題でした。

不具合が発生すると、当然、OSI標準に則って、標準通りに動作しているか調査され、どちらが間違った動作をしているか? あるいは、両者とも間違っているか?と言ったことが調べられるのですが、当事者以外の専門家が見てもどちらが間違っているか判断が付かないケースがしばしば発生しました。

また問題は、2社間の接続だけでなく、3社間以上の組み合わせで発生するような問題も起こりました。

どう言うことかと言うと、例えば、「A社とB社の接続では何の問題もなく、A社とC社の接続も滞りなく繋がる、ところがB社とC社で繋ごうとすると問題が発生して繋がらない。」と言うような問題がしばしば起こりました。(下図参照)


そして、A、B、Cの三社とも、自分は標準通り作り、I標準通り動作していると信じています。
すなわち、各社の標準の解釈が異なっており、どの解釈が正しいか、標準を見ただけでは、第三者の立場に立つ専門家にも判断がつかないと言う事態に陥ってしまっていました。

また、この問題には、非常に興味深い特徴がありました。

OSIのアーキテクチャーは、他の大部分の通信プロトコルと同様に階層型アーキテクチャーを採用しています。(下記のOSIの階層図を参照)  

OSIの階層
図を簡単に説明すると、一番上のアプリケーション層がアプリーケーション(ソフトウェア)そのものであり、下位の層が一つ上の層に対しサービスを提供する形で階層を構成しており、最下層の物理層が電線や光ファイバーなどの通信回線となります。
コミュニケーション理論で言うと、下位層はメディア(媒体)を管理し、上位は意味を扱うレイヤーになります。
 
そして、上記の問題は、面白いことに、下位のレイヤーでは殆ど起こらず、大部分が上位層で発生していました(特に、アプリケーション層を中心に上位の層に集中する傾向)。
上位の層は、アプリケーション自体やアプリケーションに近い、つまり人間側に近い内容を扱っていたのに対し、下位は、電気信号などの物理的な内容、一言でいうとメディア(媒体)固有の問題や、ネットワーク・アドレスなどの基本的な論理的内容を扱っていました。

1980年代、 OSIは、当時フランスに本部があった国際電気連合の標準化部門、旧CCITTで、標準化が進められており、フランス語を始めとするいくつかの国際言語(国連のそれと大体同じ)で記述されていましたが、実際問題として世界のIT企業の大勢は、英語版をもとに実装化を図っていました。そして、多くの日本企業も、英語版や英語版からの和訳版を使っていました。

そして、まず第一に疑われたのは、標準の誤訳や、英文解釈の間違いでした。

2022年4月17日日曜日

世界標準と日本語 その4

 OSIに対する失望の原因としてOSIの仕様(スペック)そのものが魅力的でなかった事を述べましたが、もう一つの要因としてOSIの接続設定に非常に手間がかかったことが挙げられます。
 むしろ、後者の接続に手間が掛かることこそが、圧倒的に重要な問題でした。
姫路城の桜
姫路城の桜

OSIの仕様が魅力的でないと言うのは、当時の一般人、マスコミの評価であって、システム関係者や専門家にとっては、仮にそう言ったことが問題であったとすれば、わざわざ時間をかけて標準の実装を行い接続試験をするまでもなく、仕様そのもの策定段階で既に解っている事であり、接続実験後に改めて騒ぐ事はありません。
システムの専門家にとっては、標準化というのは、決して新しいアプリや機能を生み出すものではない事は、当たり前のことであり、十分承知していました。
システムの専門家のOSIに対する最大の期待は新たな機能やアプリの登場ではなく、接続の容易性の向上そのものにありました。
それを説明するためには、OSI誕生以前の異機種間のシステム接続に関する状況に触れた方が良いでしょう。 

OSI誕生以前の状況

OSI誕生以前にも異機種間のネットワーク接続はありましたが、大変に手間と時間がかかるものでした。
あるユーザー企業が、例えばA社製とB社製の2種類のコンピュータを持っており、仮にA社製のプロトコルで両機を繋ぐと決定したとします。
そうすると、ユーザー企業はA社側に接続仕様を提出させて、それを元にB社側にインタフェースを実装させることになります。
そして、実装が終了すると、接続テストは、ユーザー企業のコンピュータ環境で、ユーザー企業のアプリケーションを使って行います。
こう言った作業だけでもユーザー企業にとっては手間の掛ることでしたが、
接続が上手く行った後も問題は続きます。
例えば、ソフトウェアのリリースアップやハードウェアのコンフィグ変更のタイミングで、あるいは、極端な例では、ある日突然、何のシステム変更もしたつもりはないのに障害が発生し始めるするなんて言うことがにありました。
そう言った場合、A社側は接続仕様に変更が無いこと、さらにA社側の後方互換性(バックワード・コンパチブル)の確認(例えば、A社製の既存の機器と、新しいリリース・レベルが接続して問題が無いか等の確認)を行い、B社側でも、仮に直接繋がっている機械に変更がなくても他の間接的に繋がっている後方システムに変更が無いかを調べます。
システムに何の変更も加えてないのに、ある日突然、障害が出始めると言うパターンは、往々にして、ユーザー側での使い方の変化や、ユーザー・データーの構成フローの変化が原因だったりするのですが、システム関係者はその変化を知らず、トレースをとって見て初めて発見されると言うケースがままありました。

このような作業をユーザー企業が中心となって行わなければならない訳で、極めてユーザー企業の負担が大きく、またメーカー側の負担も相当なものでした。

そして、OSIの登場以降は、ユーザーは単に「異機種間の接続はOSI仕様で」と指定すれば良いだけであり、メーカー側の余計な負担も無くなるはずでした。


2021年11月2日火曜日

世界標準と日本語 その3

 10分の1の法則(13) & グローバル化と英語(10) 合併号 

 

本ブログで取り上げたいテーマ「世界標準と言語」の話をする前に、ちょっとだけインターネットの歴史を見てみましょう。
 

インターネット・プロトコル(TCP/IP)台頭の前夜

OSIの熱が冷めた後、市場は一挙にインターネットへと行ったかと言うと、そうはなりませんでした。

インターネット・プロトコル自体も、OSIと並んで有力な共通プロトコルの候補でしたが、大きな問題を抱えていました。

 

 インターネット・プロトコルのルーツ 

インターネット・プロトコルのルーツは冷戦にありました。

冷戦には様々な定義がありますが、冷戦時代の最大の問題, あるいは冷戦の象徴といえば、何と言っても、核戦争の危機が揚げられます。

安全保障は当然として、多くの国際間の問題も、この核戦争危機を中心に回っていました。

これは通信の世界も例外ではなく、インターネット・プロトコルの誕生にも冷戦が大きく関わっています。

すなわち、軍は核戦争を前提とした技術、すなわち核攻撃にも耐えられるネットワーク を必要としていました。

つまり、核攻撃で回線や施設が破壊されても、生き残った回線経路(ルート)を探し、複数の経路が残っている場合にはその中で最適なルートを決定し再接続する作業を自動的に行なえる通信プロトコルが要求され、そして生まれたのがインターネット・プロトコル(の前身)でした。(下図参照)

(図)回線切断と経路の自動設定


たいへん便利な通信プロトコルであり、中継ノード(図中の通信制御装置)自体に経路(ルート)を探査し、最新の情報を互いに交換し合って共有する機能が備わっており、回線や中継ノードの破壊や能力低下に備えて常に最適な経路を維持管理する機能を持っています。

中継ノード、通信制御装置が、こう言った機能、役割を持つことから、ルーターと呼ばれるようになったのは、皆さんご存知のことだと思います。

ではこの便利なインターネット・プロトコルで、いったい何が問題だったかというと、その経済性の低さでした。

常に最適な経路を維持管理すると言うことは、逆に言うと、常にネットワーク全体の経路情報を各ノード間で交換し合って常に最新の情報を共有しなければならないことを意味します。

また、全ての経路を常に最速のルートで結ぶと言うのは、ネットワーク全体の資源効率を悪化させることがあります。(必ずしも全ての経路が、最速である必要はないことに注意。現代インターネット技術のポリシー・ルーティング参照)

当時は、通信コストが非常に高額だったため、基幹経路を除けば、ほとんどの通信路は電話回線であり、モデムの処理速度はたかだか14,4kbps〜19.2Kbps程度でした。 

そう言う細い(低速の)通信回線の中に、ユーザー・データだけでなく大量のネットワーク管理情報が流れるわけであり、プロトコル・アナライザーなどで測定してみると、コントロール・データ(管理用データ)の比率が50%を超えてしまう事も珍しくありませんでした。

と言うわけで、WAN分野では、軍用や研究用を除き、商業分野では、インターネット・プロトコルなどの動的ルーティングを使うことは稀で、大部分は静的ルーティングを採用し、経路情報やパフォーマンス・チューニング用パラメータを事前に設定するプロトコルを使っていました。

そして、OSIの次に来たのは、プロトコルを共通させるのではなく、マルチ・プロトコル、すなわち、複数種類のプロトコルをまとめて一本の物理回線を共有させて運ぶテクノロジーの時代でした。

ネットワーク・ベンチャーの時代

OSI以前からネットワーク・ベンチャーは存在していましたが、主にLAN分野で活躍していました。
しかし、群雄割拠するプロプライアタリなプロトコル群を、一本の物理回線にまとめて運ぶマルチ・プロトコル・ルーターの登場とともに、データ通信分野の主役は、従来のメインフレーム・メーカーからネットワーク・ベンチャーへと、あっと言う間に様変わりしました。

この当時、1990年前後の代表的なプロトコルは、データ量的には、1. パソコン系プロトコル(マイクロソフトやアップルなど), 2.インターネット系(UNIX系)の順で、メインフレーム系のプロトコルは極めて少数派になっていました。

1990年は、IBMが当時アメリカ史上最大の赤字を計上した年でしたが(注; 後に、その最大赤字の記録は破られます)、メインフレーム系のプロトコルは重要度はまだまだ高かったのですが、データ量的には新興勢力に圧倒され始めていました。


2021年10月9日土曜日

世界標準と日本語 その2

 

OSI の問題

 前回のブログでは、OSIは、
ネットワーク
1980年代後半の市場から熱狂的に待望されていたが、実際に出来上がってOSIネットワークが繋がり、詳細が広く知れ渡るにつれ、それまでの熱気が嘘のように消え去り、期待が失望に転じ、熱狂が落胆に変わって行ったと書きました。期待が大きかった分だけ失望も大きかったと言えます。
 
失望の理由は大きく言って2つがあげられました。
 
1.  OSI仕様(スペック)そのものの問題
 
OSIは、1988年時点で実用段階にあったネットワーク技術の総まとめ的な性格を持ちました。 
80年代当時の最先端アプリ、たとえばマルチメディア(音声、画像、動画)などが市場ではさかんに話題になっていましたが、まだまだ研究段階であって、とても標準化の対象にはなりえませんでした。
たとえば、現在、皆さんが楽んでおられるYOUTUBEなどの動画アプリは、実験室レベルでは当時から既に存在していましたが、極めて大規模な設備と莫大なコストを要し、研究途上、発展途上の段階であって、とても標準化の対象とはなり得ませんでした。
 
つまり、ユーザー目線から言うと、OSIは、当時すでに実用段階にあったアプリを単に標準化しただけの存在であり、導入したところで何か新しい事ができたり、コストが安くなったりするようなものではなかったのです。
また、さらに言えば、OSIの対抗勢力である企業固有の(プロプライエタリな)ソリューションは、プロトコルは確かに非標準でしたが、基本機能に企業独自の拡張が付け加えられているいることが多く、実装標準を決める段階でこれらの拡張機能が対象外になりOSIには盛り込まれませんでした。
企業固有の拡張機能は、単なる通信の問題を超えてしまい、接続される2台のコンピュータが同じメーカーどうし(たとえばIBMのメインフレームどうし)でないと意味がないようなものも多く、当時の標準化の段階ではとても(標準化の)対象にはなりませんでした。 
こういうわけで、OSIの仕様は小さくなり実装が容易になったわけですが(前回のブログ「世界標準と日本語 1」(注*) 参照)、ユーザー目線から言うと、極めて魅力の無いものになってしまいました。

  

2. 長い作業時間
 
OSIの相互接続は、市場が予測していた以上に手間と時間がかかりました。
そもそも昔の通信プロトコルは、たとえ同じメーカー同士であっても接続に時間がかかる、つまり手間がかかるものが多かったのですが、異なるメーカー間の異機種接続となるとさらに ー 当時のソフトウェア品質が発展途上でまだまだ不十分な段階にあったことも絡んで ー 非常に困難が伴いました。
当時のネットワーク・エンジニアが、現代主流になっているインターネット(TCP/IP)プロトコルを初めてさわった時など、あまりに簡単に、あっと言う間に短時間で繋がってしまい、驚いてしまった、とか、むしろ、繋がって欲しくない所まで繋がってしまい切る方が大変だった、という感想が多かったのも、頷けます。
 
 
こうした訳で、当時、実験的なシステムはともかくとして、実際に稼働しているプロダクション・システムをわざわざOSIに移行しようという気にはとてもなれなかったことは、ご理解いただけたかと思います。
 
では、世界の潮流が、OSIを諦めて、一気にインターネット(TCP/IP)に向かったかと言うと、決してそうではありませんでした。
 インターネットの方はインターネットで、問題を抱えていたからです。
 また同時に、本ブログの主題である「世界標準と言語」という問題も明らかになってきました。
 
続く・・・
 

2021年9月30日木曜日

世界標準と日本語 その1

10分の1の法則(11) & グローバル化と英語(8) 合併号

Network
ネットワーク

 以前の投稿、10分の1の法則 その7でちょっと触れましたが、日本経済がバブルまっただ中の80年代後半、日本人がみんなイケイケだった頃のことですが(笑)、日本のIT産業で非常に大きな話題になった事柄に、ISDNとOSIがありました。

 

ISDN、ー NTTの商品名サービス名でいうとINS ー、の方は単に日本国内だけの騒ぎで終始しましたが、もう一方のOSI(Open Systems Interconnect)は日本だけではなく、非常に短い期間ではありましたが、世界的に大きな注目を浴びるブーム、一大エポックとなっていました。

 とは言え、 当時はまだソ連崩壊前でしたので世界と言っても西側世界と言った方がより正確ですが。

OSIが注目された理由

 80年代の東西冷戦下、西側諸国で急速に進められた通信の自由化に伴って、データ通信分野の急拡大が始まりましたが(この流れは、現代のインターネットの興隆に直接つながります)、肝心の通信プロトコルの方は、戦国時代さながらの状況で、例えば大型機の分野ではIBMのSNA、パソコン分野ではマイクロソフトのNetBIOSやアップル社のAppleTalk、NetwareのIPX・・・等々と言った感じで、各企業固有の(プロプライエタリな)プロトコルが群雄割拠しており、異機種間の互換性は皆無で、そのままでは全く繋がりませんでした。

そして、世界の大規模なネットワーク・ユーザーを中心に、異機種間の相互接続性を求める強い要求が、大海を揺るがすうねりとなって、世界中を荒れ狂っていました。

 その大波の中、異機種間を接続する共通のプロトコルの有力候補として、注目されたのがOSIでした。

理由として、

  • まず第一に挙げられる点は、何と言ってもOSIが新しい世界標準であったことでした。企業固有のプロプライエタリなものとは異なり、どの会社もまだ実装しておらず、企業に依存せず独立したプロトコルであって、有利不利なく平等な競争が期待できました。
  • また、プロトコルとしてのOSIは比較的に小規模で軽く(注*)、当時の非力なパソコンでも実装が容易であったことも、OSIが着目された重要なポイントでしょう。
そうして、OSIの標準化が進められ、その国際標準に基づく実装化が各企業で急ピッチに進められていました。
当時は日本も極めて意欲的、積極的に、世界標準化、実装化に参加しておりました。
ー 80年代は、日本の通信メーカーは世界の通信分野の先頭集団を形成していたと言っても良いほどでした。
確か1988年頃だと記憶していますが、こうして各企業が実装した機器を通信回線を経由して接続して、コンパチビリティ(互換性)を検証するイベント、相互接続性試験が行われました。
このイベントは海外企業勢も巻き込み、結果的にかなり大掛かりなものとなり、当時、筆者はOSIとは直接関係の無い部署にいたのですが、パートタイム的にエンジニアとして駆り出され、この検証プロジェクトに否応なく巻き込まれていました。
 

 接続試験の成功と市場の落胆

この相互接続性検証プロジェクトは、期間的に数ヶ月間続き、結果的にはすべての検査項目が検証され、接続試験は成功裏に終わりました。
ところが、そのOSIの動向を熱狂的に注視していた世界市場は、詳細が明らかになるにつれて、急激に冷えてゆきました。
あれだけOSIで盛り上がっていた日本市場も、あえてOSIを採用しようという企業は公的私的を含めて現れて来ませんでした。(当時は、公的機関ほどベンダー独立のプロトコルを採用したがっていると言われていました。)
 
市場は、OSIに失望、落胆したと言った方がより正確だったと思います。
 
続く・・・
 
 
 

 

2021年1月13日水曜日

謹賀新年 令和3年

 

 謹賀新年

令和3年 元旦 

 あけまして、

     おめでとう ございます。

 

昨年は、高齢の親戚が相次いで亡くなり、年賀状は欠礼しましたが、筆者が生存していることを友人知人に知らせる手段は年賀状くらいしかなく、年始にあたり、やむを得ずこのブログを更新して、まだ生息していることを知らせることにしました。

例にもれず、筆者も昨年はどこにも出かけておらず、唯一の旅行先は、昨年秋に行った信州の上高地だけでした。

上高地もすいており、例年は予約がなかなか取れない帝国ホテル も本年は簡単に予約できたことぐらいが、クロナ禍の中、不幸中の幸いと言うべきでしょうか。

昔、筆者が江戸のはずれに住んでいた頃は、しょっちゅう上高地に行っていたのですが、その頃は、上高地は山登りの出発点、終着点であり、泊まろうなんて言う大げさな振る舞い、大名登山 、狂気の沙汰は夢にも考えたことはなかったのですが、昨年は、大胆不敵にも連泊してしまいました。

人間、堕落すると、どこまでも落ちてしまうものです。

とは言え、帝国ホテルそのものは、なかなか良いホテルでした。

 

2020年4月10日金曜日

10分の1の法則 その10 ロジスティクス 兵站

昨今、アベノマスクと言う新造語がよく飛び交うようになってきました。
どうもその発端は、政府がマスクを付けるように指導したところ、もとより不足していたマスクが、流通上の問題(買い占め、転売等)のために、市場から払底し、いくら増産しても最終の消費者に届かなくなったという問題に起因するようです。
つまり、ロジスティクス上の問題が発端だったようです。
これは、本部のロジスティクス計画に問題があったのか、あるいは計画の実行上に問題があったのか分かりませんが、どうも伝わって来る話の中で気になるのは、本部の人間(政府関係者)のロジスティクス軽視とも取れる発言です。
これは、現政権だけの問題か、あるいは官僚機構全般に見られる傾向なのか良く分かりませんが、兵站(ロジスティクス)軽視は戦前の日本軍の思考様式にもよく見られたもので、気になります。

さて、ロジスティクス、兵站はもともと軍事用語であり、武器・弾薬や食料・生活雑貨などを最前線の兵士達に送り届けることを意味しており、早くより最も情報化(IT化)が進んで来た分野の1つです。
そして、軍事から派生して、今では軍事分野以外にも、流通業、製造業など様々な分野で使われている言葉となっています。

しかし、筆者の経験では、海外では非常によく聞く言葉ですが、国内ではあまり聞きません。
これは、企業文化、組織文化の違いもあるでしょう。
昔、筆者は、アメリカの大型コンピュータ・メーカーでプロダクト・マネージャをやっていたことがあるのですが、そこでは毎日のようにこの言葉を聞いていました。

一例を上げると、プロダクトを発表し、注文が入って数カ月後、初出荷のタイミングが来たとします。
その時、出荷OKかどうかのチェックポイント会議が開催されるのですが、メンバーの一人として必ずロジスティクス部門の代表が出席します。
そして、そこでロジスティクスの代表がNOと言えば、出荷は止まってしまいます。
プロダクトマネージャ(以下PM)は、出荷ができないと製品の売上が計上できないので、大慌てでその問題を解決しようとします。
大体の場合、NOが出るのは、その部門だけでは解決できない問題が発生していることが多く、関係部署を集めて会議を開きます。
プロダクトマネージャ制に馴染みがない方のために書くと、ほとんどすべてのミーティングの議長はPMが行います。
そうした場合、IT企業では、往々にして、PMがメンバーの中で一番若かったり、社内格付で一番下っ端であったりするのですが、そういうことにお構いなく、決定はPMが行います。
なぜ、そういうことが可能かというと、1つにはプロダクト部門が予算を握っており、他の部門はプロダクト部門にサービスを売っている形になっている事が挙げられます。
PMに公式に決定する権限がなくても、最終の決裁権をもつ上級のマネージメントに、PMが「このように問題を解決したいと思います。」と報告すれば、それが恒久的な解決策になるかは別ですが、少なくとも応急処置的には認められることが多いことも挙げられます。
また、殆どありませんが、仮にあるマネジメントが会ってくれない、あるいは協力してくれない場合、そこでプロセスを止めてしまってはPM失格で、そのマネージャの上司に問題をエスカレーションします。
上級マネジメントほど、会社の売上げが立てられない問題に対し、オレは関係ないと無視できなくなります。
また、ミーティングのメンバーだけでは解決できないことが判明した場合、問題を更に上級のマネジメントにエスカレーションします。
言ってみれば、PMは他所の部門から見ると、お客さん側の有力な担当者の一人に見えるわけです。

ロジスティクスは、チェックポイント会議の重要なメンバーであるだけでなく、日常的なオペレーションでもPMとは関係が深く、ロジスティクス計画の策定にもPMは関与します(プロダクトのコストやサービス品質、販売戦略にも大きな影響があります)。

日本との比較で言うと、当時から日本は品質に非常に敏感で厳しく、80年代のアメリカ企業は品質に関しては発展途上で、その代わりロジスティックスには敏感だった言えます。
( 日本製品が世界に躍進できた大きな要因は品質だったと言われています。 )
つまり、日本企業が品質に対してフォーカスするの一方、アメリカの企業はロジスティックスに対して注意を払っていたと言えます。

アベノマスクの例で言えば、マスクの品質の問題と、マスクの配布の問題に対する注意で、極論すれば、マスクの品質にうるさい日本と、マスクの配布にうるさいアメリカの対比となります。
もちろん、品質と配布は車の両輪のようなもので、どちらかが欠けても問題です。

民主国家の軍隊では、最前線の将兵の声が最も大きく、後方支援部隊はその満足度を最優先に計画実行するのに対し、製造業では最末端の消費者の満足度を最優先に行動する点で、トポロジー的に似ています。

2020年3月5日木曜日

10分の1の法則 その9

オーケストラと指揮者
今回のコロナウィルスの問題に限らず、内外のメディアなどからは日本政府の対応はいつも "Too slow , too small"(遅すぎる、不十分すぎる)と昔からよく批判され、"too slow, too small"がまるで日本政府のトレード・マークのように 言われていますが、これは決して日本の組織だけの特徴ではなく、また、どんな組織体でもー瞬のうちにこのようなことが常態化する事態に陥いるリスクがあります。
筆者自身も昔、バブルの頃、所属していた組織の状況が急変し、みるみるうちに後手後手のモードに陥り墜落していく姿を内部から目撃した経験があります。

しかし、それを語る前に、まず組織の(情報)モデルについて触れたいと思います。

組織は船に良く例えられます。大きな船は ー 例えば航空母艦のように ー、規模の経済(スケール・メリット)が効く分野の利益を最大限享受でき、大波や強風にも強く安定的で、強大な攻撃力を持ちえますが、同時に、様々な弱点があります。

いくつか上げると、まず、大きな船は自身の慣性力が大きく、急な動作が不得意であり、急激な進路変更や発進・停止ができません。
組織で言えば、大組織は、たとえ官僚主義が蔓延していなくとも、小部隊に比べると動作が遅く機敏さが欠けます。 
しかし、一旦動き出すと、その力は極めて強大であることは言うまでもありませんが。
また航空母艦は攻撃能力は非常に高いのですが、その反面、防御能力が弱く、自身単体で自分を守ることが殆どできません(機敏な動きができない大きな図体の船が、チャプチャプとのんびりと海洋に浮かんでいるわけであり、敵にとっては一撃で倒せる格好の標的になります。
こういうわけで、空母が単独で行動することは通常はなく、大小の多くの軍艦や潜水艦、航空部隊などを引き連れて艦隊を構成して進軍します。

したがって、大規模な艦隊の司令官は、早め早めに指示を出すことが要求されます。曲がれと指示を出してから、舵を切り、実際に巨船が曲がり始め、最後尾の船が完全に曲がり切るまでに相当の時間がかかり、その間、艦船は慣性力であさっての方向に進んでしまうからです。

このように大組織のトップは、オーケストラの指揮者のように、演奏中の音よりも何拍か先を振ったり、何拍か先を指示したりする必要があります。(さもないと、指揮者は、単にオーケストラの前で棒振りダンスをしているだけの存在になってしまいます。)

巨額な費用をかけた艦隊(組織)が、リーダーの遅い指示のために、ドジでのろまな亀(バブル時代のテレビドラマ参照)になるリスクがあるわけです。

続く








2020年2月28日金曜日

10分の1の法則 その8

昨今はコロナウィルスの話題で持ちきりで、どこへ行ってもこの話で盛り上がっています。

筆者はウィルスどころか、生物学すらまともに勉強したことがなく、この分野にはまったくの素人なのですが、情報やデータの観点から、一言、感想を述べてみたいと思います。
というのも、今回の現象は、単にウィルス学や生物学(医学)上の問題だけでなく、広く社会科学的(法学、経済、政治などなど)な問題であり、そのなかで情報の扱いが極めて重大な意味をもつと考えるからです。

現状、海外の報道などを見ると、日本政府の対応に対して批判的に書かれていることが多く、一方の日本政府は海外に対して理解を求めていくという旨の答弁をしていましたが、試しに厚生省のホームページの英文を見ても、極めてブロークンな英文が羅列されているだけで、ブロークンさにおいては人後に落ちないつもりの筆者も降参するほどの意味不明さであり、これで果たして海外に対して情報発信しているつもりなのか?果たして意味が伝わるのか?大いに疑問です。(インターネットは政府にとっても、マスコミに依存せずに情報発信できる強力なツールであることは言うまでもありません。)
現実において、インターネット以外のメディアにおいても日本政府発の情報は殆ど見かけません。
また、英語媒体だけでなく、日本語の内容においても、果たして本当にデータの裏付けがあるのか?と言う疑問符がつく政治家、専門家の発言が多く、事実とオピニオンと願望が入り混じった混沌に見えます。
あえて情報戦略と言う言葉は使いませんが、とても説得力がある内容とは言えません。
戦略思考も、高次の合理思考の一種であり、合理的判断のできない組織に戦略思考を求めるのは、端から無理であったと言うのが筆者の感想です。

さて、情報とかデータとか言う話題で、思い出した出来事があります。

ディスコ・パーティー
1980年代の後半、日本はバブル景気真っ盛り、ワンレン・ボディコン(死語?)の女性たちが街を闊歩し、ディスコ(これも死語?)のお立ち台で踊り狂い、たしかジブリ映画の「となりのトトロ」や「火垂るの墓」が初上演されると言った頃のお話です。


筆者の知人、エヌ氏は、当時、IT企業に務める20代の若きコンピュータ・エンジニアでした。(以下の話は、彼の話に多少の変更を加えて書いています。)

エヌ氏が、その日の朝、いつも通りコンピュータに向かって仕事をしていると、ワンレン・ボディコン姿の秘書が、外人を一人、彼の席までエスコートして来ました。(注: 当時のOLのファッションは大体のところワンレン・ボディコンでした。)

エヌ氏は秘書の差し示す外人の名刺に訝しげに目をやりながら、挨拶をしました。
名刺には「英国外務省秘密情報部( MI6) ジェームス・ボンド」とありました(もちろん仮名)。
ボンド氏は、とても急いでいるようで、挨拶もそこそこに、「我々を助けてほしい、君のボスには許可を得ている。すぐに、一緒にオフィスに来てくれないか?」と言い、エヌ氏はせかされるまま、英国の高級車ジャガー(007の愛車)に載せられ、ボンド氏らのアジトへ連れてゆかれました。

エヌ氏は最初は英国大使館にでも連れて行かれるのかなと想像していたのですが、着いた先は都内某所の高級ホテルでした。
VIP専用エレベータに載せられて、エヌ氏が連れてゆかれた場所は、ホテルの広いスイートで、大きな机の上にパソコンが置かれており、要は、ボンド氏はエヌ氏に「そのパソコンが壊れているので直して欲しい」、と言う話でした。

当時は、パソコンはまだ高価な時代で、日本の企業内にも、さほど普及しておらず、会社でなく個人で使っている人は、まあオタクかその眷属と見て良い時代でした。
高価なだけでなく、当時のパソコンは動作が非常に不安定なところがあり、いったんトラブり始めると、なかなか素人の手に負えず、そのパソコンの持ち主も、やむを得ず、エヌ氏のような専門家の助けを求めたものと思われます。
当時は、たとえIT企業であっても、パソコンを実務に使っているのはもっぱら若手であり、マネージャたちは敬遠している状況でした。(世代的にも当時のIT企業のマネージャたちはメイン・フレーマー)

そんな頃でしたので、エヌ氏は診てくれと依頼されたパソコンをいじりながら、このパソコンの持ち主は一体どんな人だろうか? と想像を巡らせていました。
というのも、パソコンの使い方に、そもそも異質な点があり、気になっていたからです。
そして、ボンド氏にパソコンの主が誰であるか尋ねたところ、彼は隠す素振りもなく、英国首相であるサッチャー女史で有ることをあっさりと認め、そして、そのスイートそのものが滞日中の彼女の部屋(隠れ家?)であることをエヌ氏に説明しました。

「鉄の女」として名高いサッチャー女史は、当時、頻繁に日本に来ていました。
彼女が日本で何をしていたかはよく知りませんが、その滞在中、彼女の甘言に釣られて日本の自動車メーカーが何社もイギリスに連れ去られていったことは当時でも有名で、ご存知の方も多いと思います。(連れ去られて行った自動車メーカーは、今でも英国で元気にやっているようです(多分)。)

さて、後日、エヌ氏が居酒屋で我々に語ったところによると、彼が異質と感じた点は、パソコンに最先端のアプリが入っていたとか、特殊なプログラミングが施されていたと言う技術的な問題ではありませんでした。技術的な問題でしたら、エヌ氏自身が開発部門の技術ヲタ(かっこよく言えば、テッキーやギークたち)をたくさん見ているので、さほど奇異には感じなかったでしょう。
またその頃のサッチャー女史が60代後半であり、日本ではその年代の女性がパソコンをいじっているという事自体が当時としては極めて珍しかったと言うことでもありませんでした。
彼が異質と感じたのは、内容の強い情報志向性と論理性でした。
今考えると、短い時間でそれを感じ取ったエヌ氏の慧眼には感服しますが、聞き手側の我々は極めて鈍感であり(少なくとも筆者は鈍感でした)、もっと卑近な問題に話題はシフトしてゆきました。
80年代において、鈍感な我々も日本と欧米のマネジメントの違いには気づいておりました。
当時のIT分野では、その違いが端的に現れる面が強く、例えば使用する技術は優れているのに出来上がったシステムが極めてお粗末であり、その原因が技術不足ではなく、上流工程、例えば要求マネジメント、にあったと言うような問題はザラでした。

しかし、バブル期の当時、日本のIT産業自身が、アメリカに追いつけ追い越せの勢いの時代であり、急速な進歩の結果、日本のマネジメントが欧米を抜くのは時間の問題、と極めて楽観的に考えておりました。(これは、我々だけでなく日本の社会全体の気分と言って良い状態でした。)

続く




















2019年6月21日金曜日

10分の1の法則 その7

紫の睡蓮
最近、米中貿易戦争や中国の製品の話題がニュースによく登るせいか、まったくITに無縁な人などから、『なぜ日本はファーウェイみたいなハイテク製品が作れないのか? 聞くところでは、主要な部品の大部分は日本製なのに ・・・、』と言った類の質問を受けることがあります。

『日本は部品を作る能力は高いけれど、部品を統合して製品にして、それを売る能力が低いから』と言う答えは、明らかに物事を単純化し過ぎており、決して良い回答になっていません。
日本には、部品を作るのも上手いし、それを組み合わせて製品にするのも上手い分野 、例えば 自動車産業などが存在し、また逆に主要部品は海外に依存するけれど、それらを組み合わせて製品にして販売も上手い分野、例えば パソコン分野などは主要部品のCPUやOSは海外技術に依存しつつも製品化や販売は比較的上手く行っている面もあるわけで 、単に部品とか統合のレベルでは語れない問題です。

筆者の個人的な経験から言うと、実は、日本産業のこのような問題の傾向は既にバブル時代、1980年代には少なくとも産業内部の技術関係者の目には明確に現れており、90年代になって急激に一般化し外部の人にも徐々に知られていくと言う歴史的経緯をたどっているように思えます。

80年代と言うと日本のハイテク産業が飛ぶ鳥の勢いで躍進していた時代であり、特に通信分野は当時の日本のお家芸的存在であったのです。
そして、世界的な通信の自由化の進展期間でもあって、コンピュータと通信の融合分野、つまりデータ通信分野は今のインターネットの発展につながる急成長分野と見なされ、日本の通信関連企業にとっては、持てるテクノロジーが直接利用可能であり、成功に最も近い企業群だと思われていました。

と言うのも、当時の欧米のデータ・プロセッシング機器メーカー、例えばIBMなど、はコンピュータ技術には長けていても通信技術に関してははっきり言って未熟であり、一方、AT&Tに代表される通信系企業は、逆に通信技術には長けているけれどデータ・プロセッシング分野は経験不足、と言った状況であったのに対し、日本のコンピュータ・メーカー(以下JCMと略: Japanese Computer Manufacturers) は、もともと通信機器メーカーであった所が多く(いわゆる電電(NTT)ファミリー)、通信技術とコンピュータ技術の両方を持ち、極めて有利なポジションに立っていました。(当時、マスコミでは通信とコンピュータの技術融合などと言われていました。例 C&C)

戦略の失敗

ところが、90年代以降、データ通信分野が世界的に勃興し始めると、JCMはデータ通信分野において大きく出遅れてしまい、存在感が急激に希薄化して行きました。

筆者は、このような事態を招いた最大の原因は戦略の失敗だと思います。
80年代の日本のデータ通信分野の大きなトピックに、ISDNとOSI (Open Systems Interconnect)が挙げられます。
と言っても、それらのサービスは日本だけではなく、世界的に実施されていましたし、ISDNはともかくとして、OSIは、非常に短い期間ではありましたが一時期、日本だけでなく世界的にも注目を集めた話題でした。
では、何が問題だったかを考えてみたいと思います。

ISDNとは?

ISDNはネットワークの最末端の接続情報を規定する世界標準であり、電力網の例で言うと、電気のコンセントに当たる概念です。
電気のコンセントは、皆さんご存知の通り、国や地域によって、その形状や電圧、周波数などはまちまちですが、例え世界標準に準拠した通信インタフェースと言っても事情はまったく同じで、国や地域によって結構バラバラです。
例えば、フランスのISDNと米国のISDNは少し異なりますし、日本のISDNもちょっと違いますが、みんな世界標準準拠を謳っています。

ちなみに、通信機器のプロダクト・マネージャーは、各国の通信インタフェース情報と通信タリフ(価格体系)に対しては、非常に敏感でした。
何となれば、通信インタフェースの仕様に多少とも違いがあれば、それが原因で繋がらなくなる可能性が発生し、繋がらない通信機械は、当然、その国ではまったく売れませんし、また、通信タリフの違いによって、どのようなネットワーク機器が売れるのか大きく変わってきます。
例えば、その国のキャリアが、固定回線の料金をパケット交換回線よりも割高に設定していれば、顧客はパケット交換サービスに流れ、固定回線を買って自衛網を構築する顧客は減り、自衛網構築用ネットワーク機器の売り上げは上がらなくなる、と言った風なわけです。


(続く)

2019年5月19日日曜日

SysML初級講座 第33講のアップのお知らせと今後の予定


SysML初級講座 第33講「視点«ViewPoint» とビュー«View» 」をアップしました。
リンク先は→こちら


SysML初級講座は、あと2講ほどで完了します。
また、現在準備中の 「OCSMP モデルユーザー 英語受験・対策コース」は、6月中に開講予定です。

そして、モデルユーザー以降のOCSMPモデルビルダー(ベーシック、インターミディエイト、アドバンスト)への対応ですが、モデルビルダー認定試験の出題傾向が、実際にモデリングを行なっている実務者向けの内容であり、受験対策を単に問題演習だけで行うには無理がある ー(加えて、意味もない)ー ため、モデルユーザー合格者、もしくは同等の知識をお持ちの方を対象に、SysMLのモデリング演習講座を開催する方向で検討中です。(モデリング・ツールとしては、無料ツールのエクリプスなどを検討中)

決まりましたら、このブログでもお知らせしたいと思います。

2019年3月28日木曜日

大塚美術館 探訪

スクロヴェーニ礼拝堂(環境展示)
先日、「鳴門のうず潮」で有名な徳島県鳴門市にある大塚美術館に行ってきました。
この美術館の特徴は展示作品がすべて陶板に焼き付けられたレプリカ(複製)である事です。
複製品と言っても色合いや凹凸感もすべて原寸大に精密に模写してあり、また左の写真のように、環境展示と言って、古代遺跡や礼拝堂などをそっくりそのまま立体展示されており、実際にその場に立つと臨場感が圧倒的です。

有名なレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」も実物大サイズで見ると、ど迫力です。


最後の晩餐
また、この美術館では、陶板を手でさわったり、写真をとったりすることもできます。

幻のゴッホのひまわり

ゴッホは日本人に非常に人気のある画家ですが、
彼の描いた「ひまわり」が戦前の日本に存在していました。(「芦屋のひまわり」)
スイスから日本の実業家が求めたものだそうですが、残念な事に大戦中の神戸大空襲(昭和20年5月11日)の猛火の中に焼滅しています。

この大塚美術館では、その「芦屋のひまわり」を陶板技術を使って復元しています。
復元されたゴッホの「ひまわり」
(芦屋のひまわり)


SysML初級講座 第31講をアップしました → リンク











2019年3月14日木曜日

10分の1の法則 その6 ジャパン アズ ナンバーワン

SysML初級講座 第30講「要求の関係 «verify» と «testCase»」あっぷしました。 → リンク先 


 輸入品のコストを上げる要因としては、1.市場のサービスに対する要求レベルの高さに加えて、2.日本法人の高コスト体質の問題がありました。
ここで言う高コストと言うのは、日本企業との比較ではなく、日本以外の国に配備されたIBMの現地法人、ー 例えばオーストラリアIBMなど ー、との比較です。


優れたコストパフォーマンスの80年代の日本 
 80年代の日本の製造業は非常にスリムで若々しく、テクニカル・バイタリティに溢れており、IBMとは比べ物にならないほどの高いコスト・パフォーマンスをあげているように筆者の目には映りました。

 一人当たりの人件費は、日米でさほど差がなかったのですが(*注)、コストを比較する上でまず目につくのが、英語⇔日本語の翻訳コストでした。

オーストラリアは英語が公用語ですので問題はありませんが、アジアの日本を除く非英語圏は、市場規模が小さく人員も限られており、現地語へ翻訳するとしてもパンフレットや基本的な概要書程度であり、翻訳に時間とお金をかける国は日本以外にはありませんでした。
当時の大型コンピュータ関係のマニュアルの量は膨大なものがあり、また当時、IBM固有のジャーゴンの混ざった技術文献の翻訳を外注に出すことが難しいこともあって、主なマニュアルの翻訳は社員がやっており、さらに、社員しか読まない、かなりの量の内部文書も日本語に翻訳されておりました。

これは、日本をのぞく海外の子会社の社員はマネジメント系、SE系を中心に英語と現地語の両方を話す二言語話者(バイリンガル)が雇われておりましたが、日本法人の場合、規模がそこそこ大きいこともあって、大半の人材の供給を新卒市場に依存しており、ほとんどの新入社員は英語ができない状態で入社していたと言う状況にあったからです。

さらに、もう一つ重要な要素として、80年代は、日本法人自体のオペレーションが米国型から日本型にシフトして行った事も上げる必要があります。

当時は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」とか「ノーと言える日本」と言った書物がベストセラーとなった事に象徴されるように、ことごとく日本型経営に学べ、と言う機運が強く、外資系子会社でありながら、社内の全てのやり方が急速に日本企業を見習ったものに変貌してゆきました。
最近は、中国で「ジャパン アズ ナンバーワン」がよく読まれていると言う話を聞くと、それはそれで非常に感慨深く感じます。 
なんでも、現在の中国の状況に80年代の日本を彷彿とさせる点が多いとか。
この結果、社内の運用効率が、日本企業より悪い事はもちろんとして、他のIBM現地子会社より相当に悪化した事は間違いありません。
米国IBM本体の持つ官僚主義的非効率性と、日本化にともなう非効率化が重ね合わさった結果、非常な高コスト体質となっていました。

例えば、当時、製品の開発コストは、日本法人が行なった場合、日本企業に比べ少なくとも3倍以上かかる、と言った状況でした。

(*注)エンジニアの名目的な賃金レベルは、80年代には日本は米国に追いついていました。 ただし、米国の方が基本的な生活費が安く、社会インフラの拡充度の差もあり、実質的な豊かさは追いついていたとは言えない状態でした。

2019年2月28日木曜日

10分の1の法則 その5

80年代(メインフレーム全盛期)の
大型コンピュータ
80年代の日本、国産の優秀なコンピュータがあるのに、なんでわざわざ高いIBM製を買うんだ?と言う疑問が沸くのは、ごもっともだと思います。
事実、国産のハードウェアに比べて、IBM製は速さ(演算速度)、機械としての品質(故障の少なさ)、そして価格性能比、どれを取っても負けていたと思います。
これは対国産だけでなく、他のアメリカ製と比較してもIBMより速い機械、安い機械はたくさんありました。

Why IBM?  なぜIBM製が売れたか?


IBM製コンピュータが売れた理由は、機械そのものではなく、その売り方、アプローチに原因がありました。
このアプローチは、コンピュータを売る前の時代、機械式の会計機を売っていた時代から始まっていました。
その頃から、IBMは機械を売っていたのではなく、使い方を売っていました。
事実、昔のIBMのコンピュータはレンタルのみであり、顧客はキャンセル料を払う事なくいつでも返却できて導入の失敗リスクを最小限に抑えることができ、またコンピュータ利用のノウハウをSEから得ることができました。(これらは、当時のユーザー企業の経営者がまさに欲しいものでした。機械化の成果が欲しいのであって、決して機械が欲しいわけではありません。)

そして、このためにIBMは多額の資金を自社のSE教育に継続的に割きます。
『Think - 教育に飽和点はない』という言葉は当時のIBMの経営者の言葉でしたが、この言葉通り、多くのアナリストがIBMの成功の鍵は機械そのものではなく、そのSEの優秀さにあったと論評しています。
筆者は、この教育への過信がのちのIBMの凋落に繋がっていると考えますが、その点については、そのうちに。
また、もう一つの特長は、そのソフトウェア戦略・アーキテクチャでした。
昔はオペレーティング・システムの開発というのは、大会社が社運をかけて行うほど大規模でリスキーなものでしたが、OS/360の成功は、IBMの勝利を決定的にしました。

こうしたわけで、当時のユーザー企業は、SEのもつアプリケーション・ノウハウやIBMソフトウェアを使いたくて仕方なく(?)IBM製コンピュータを買っておりました。







2019年2月26日火曜日

10分の1の法則 その4

SysML初級講座 第28. 要求の関係 «deriveReqt» 派生要求をアップしました。 → リンク

Jeep Wrangler


30年ほど前の大型コンピュータは、アジアや欧州の国々に比べ、日本は特別に高価格に設定されていたわけですが、このことについて、筆者は、当時、次の2点、ー すなわち (1.)市場のベンダーに対する高い要求レベルと(2.) 日本法人の非効率な高価格体質 ー が主な原因である、と考えていました。

1. 市場が要求する高いサービス・レベル


これは自動車などにも共通して見られる現象で、車の例で言うと、往々にして日本市場は他国に比べ、ディーラーに対する要求レベル、依存度が高く、顧客がやったほうが安くつく簡単な作業であってもディーラーに頼む傾向が強く、保守・修理もディーラー任せとなり、頼られた側も(自己防衛的な理由もあって)過剰保守・過剰修理になりやすく、結果的に高い買い物になる傾向にあります。
車のオーナーの技術不足、関心不足の為に、高い買い物をすると言う構図は、決して車だけの問題ではありません。

また、特定の国だけ値段が高い ー あるいはアップリフト率が高い ーという状態は、決して秘密でもなんでもなく、各国の価格表や見積書を見比べれば簡単にわかる事でした。
当時のIBMは、独禁法の関係もあり、極端な値引きをして会社の体力まかせに、ー つまり会社の規模を利用してー 力まかせに案件を強引に取って行くと言う手法はご法度であり、どこの国でも定価販売、もしくはそれに近い状態で商売していました。
従ってグローバルな外資系顧客(当時の流行りの表現で言えば、多国籍企業)の中には、並行輸入品を使っている向きも多かったと思います。
その最たる例が米軍であり、ご存知の方も多いと思いますが、米軍内では「クロネコヤマトの宅急便」並みの(?)宅配サービスを兵站本部(か参謀本部)がやっており、どこかで安く仕入れたり、鹵獲(ロカク)してきたりした物(?)を大量に日本に持ち込んで使っておりました。
その場合、保守サービスだけは日本法人がやっておりましたが、保守サービス部門は独立採算であり、そんなバッタもんでも喜んでサポートしておりました。
このような保守サービス政策(ポリシー)は、大口顧客の大半を占めるグローバル企業(多国籍企業)のニーズに合致し、また中古価格の維持にも役立っておりました。
このような状況にあっても、当時既に多国籍化していた日本企業の間でも並行輸入品の利用はさほど進まず、中には ー 非常に印象に残っている例ですが ー、日本で買って、わざわざ海外に運んで使うと言う例もあったほどの状況でした。

(続く)

    2019年2月16日土曜日

    10分の1の法則 その3

    ジープ・チェロキー 2ドア
    前回は、「30年前の大型コンピュータの価格には、SEサービスが上乗せされていた」、と書きましたが、このこと自体は当時、世界共通であって、日本の価格にだけ適用されていたわけではありません。

    特定の地域向けの商品は別ですが、商品の大部分は世界向けであって、それらの価格は米国での価格が基本になっており、大体次の式のように算出していました。

    現地価格 = 米国価格 × 為替レート × アップリフト率

    例えば、米国で100万ドルの機械をオーストラリアで売った場合、現地での価格は、為替レートを仮に本日のレート(1.40 米$/豪$)を使いアップリフトを120%とすると、

    100万 × 1.40  × 1.20 = 168万 豪ドルになります。

    実際には、為替レートは日々の時価を使うのではなく、会計年度ごとに一定のレートを固定して決めておき、製品価格だけではなく、子会社間や子会社ー親会社間のすべての取引に用いられるレートであり、例えば日本法人(子会社)の工場が製造した部品・製品をオーストラリア法人(子会社)へ輸出した場合のコスト振替もこのレートが用いられおり、大体のところ、実勢レートに準じた値を使っていたと思います。
    そして、曲者(クセモノ)はアップリフト率であり、これは海外取引に伴うコストやリスクを勘案した割増率であり、対象の国や対象の製品の性質によって異なるのですが、実際のところ、オーストラリアを含むアジア太平洋州や欧州(ヨーロッパ)のほとんどの国は120%程度だったのに対し、日本だけは160〜190%ぐらいあり特異的に高かった記憶があります。
    この日本のアップリフト率は、概ね大型機ほど高く、また時期によって異なっており、昔はもっと高かったと言われておりました。

    (続く)