2018年5月5日土曜日

グローバル化と英語 その5

パルテノン神殿
 前回は、ITやIT関連分野では英語が事実上の共通語になってきていると書きましたが、このような状況は、我々、非英語圏に属する国々にとっては、対応さえ適切であれば、決して悲観的に感じる必要はない事態だと考えます。
その根拠は、ある意味、過去の歴史です。
日本の過去のグローバル化、共通語、リンガ・フランカの経験は、漢字文化圏との遭遇だけであり、そして、人間同士の交流は極めて限定的で、かつ文字によるコミュニケーション、読み書きが中心でしたが、世界史的には、より強力で広範囲なグローバル化が何度か発生しています。

例を見て見ましょう。これは、現在のヨーロッパ文明に最も根源的な影響を与えたと言われている事例です。

新約聖書は最初何語で書かれたか?

キリスト教の旧約聖書の原典はユダヤ人の使うヘブライ語で書かれていたことはよく知られていますが、新約聖書の原書はいったい何語で書かれていたでしょうか?
キリスト教の始まった頃、イエス自身やその周りの信者たちは、ほとんどがユダヤ人であり、ヘブライ語やヘブライ語の後継言語であるアラム語(ヘブライ語との差は方言程度)をしゃべっていたと思われます。
また彼らが居住する土地、パレスチナ、カナンは当時ローマ帝国の支配下にありました。
したがって、新約聖書は、彼らが日常的に会話で使っているアラム語あるいはヘブライ語、もしくはローマ帝国の公用語であるラテン語で書かれていたと思われがちですが、実際は違いました。
実際の最初の新約聖書はギリシャ語で書かれていました。

ヘレニズム世界

紀元前4世紀、ギリシャ人が建国したマケドニア王国の王、アレクサンダー大王がギリシャを始めとして、小アジアやエジプトからイラク、イランの領域(すべて地名は現代の名称で表記)などを極めて短期間のうちに征服し、いわゆるアレクサンダー大王帝国を樹立しました。
この帝国内には、イスラエルの地域も含まれます。(下図参照)
The Empire of the Alexander the Great
この領域はヘレニズム世界と呼ばれ、様々な系統の様々な言語が話されていましたが、支配者層はギリシャ人達であり、帝国内の住民は都市部を中心として、各自の母国語と同時にギリシャ語も話すことができる二言語話者(バイリンガル)へ移行してゆき、ギリシャ語話者である事の特権性はバイリンガル話者の増加に伴って急速に薄れてゆきました。
キリスト教の誕生した頃は、アレクサンダー帝国はローマ帝国によって滅ぼされていましたが、ギリシャ語が共通語である状態は引き続き続いており、多くのユダヤ人達はアラム語(ヘブライ語)とギリシャ語の二言語話者(バイリンガル)でした。
そして、ついでに言うと、新約聖書がギリシャ語で書かれたことにより、最初期にはユダヤ人たちの民族宗教であったキリスト教は、ヘレニズム世界へ広がり世界宗教への道を進むこととなります。

同じような事情が、現在の英語の共通語化にも当てはまります。
英語が共通語になることにより、英語話者(English Speaker) は特権的な地位を得ますが、同時に英語話せる二言語話者(バイリンガル)も大量に生み出し、特権性は急速に失われてゆきます。

数え方にもよりますが、今現在、英語話者は世界に約20億人いると言われていますが、そのうち英語を母国語として話すネイティブ・スピーカーは英米を中心に約4億人だけであり、残りの16億人は英語と英語以外の母国語も話すバイリンガル(もしくはそれ以上の多言語話者)と推計されています(資料によって数字は異なりますが、ネイティブの数を大幅に上回るノン・ネイティブの存在を示す点は、どの資料も共通です)。
もちろん、英文学などネイティブ・スピーカーがノン・ネイティブに対して圧倒的に有利な分野は存在しますが、少なくとも科学技術分野においては、英語話者が有利であるものは、同時に二言語話者にとっても有利であって、ネイティブであることの優越性はほとんど存在しません。
第2次大戦終了後あたりから、各国は母国語に加え英語も話せるバイリンガル化を積極的に進めており、それがネイティブ・スピーカーを遥かに上回るノン・ネイティブ・スピーカーの数を生んでいます。

これが、今回のブログのはじめに、『対応さえ適切であれば、決して悲観的に感じる必要はない事態』と書いた根拠です。











2018年5月2日水曜日

グローバル化と英語 その4

ヘブライ文字
筆者が40年ほど前、大学の2年生になった頃、専門課程を選ぶ際に、情報科学科と言う、怪しげな、それでいて、どこかカッコ良さげな名前の学科を何となく選んで進学したのですが、どうやらコンピュータ関係の学科だと気が付いたのは進学して数ヶ月経った後でした(何かの試験前、苦笑)。

 これは、たまに学校に顔を出しても数学や物理みたいな授業ばかりやっている印象が強く、また「情報」と言う文字をまったく別の意味で捉えていたために起こった悲劇(?)でした。
したがって、ITを「イット」を読んでしまうIT音痴の人や、学科名のカッコ良さだけで進学先を選ぶ学生を批判する資格は筆者には全くありません。

現代のリンガ・フランカ


さて、IT分野では英語が共通語、リンガ・フランカになって久しいですが、この傾向は40年前から既にありました。
何か新しい話題を調べようとすると、英語の文献に当たるしかなく、いわば、戦前の医学生がドイツ語で書かれた医学書を勉強していた状況に近いものがありました。(インターネットや自動翻訳ソフトがまだない頃で、紙もの中心の戦前の勉強スタイルに近いものがありました。)
と言っても、英語の専門書は、難しいのは特殊な単語と概念くらいであって、これは英語で書かれているから難しいと言う性質のものではなく、英文そのものは中学生レベルのいたって簡単な文章が中心で、要は慣れの問題でした。

その当時は、主要な国々ではコンピュータ・サイエンス系分野を自国語で教育しており、例えばフランス人はフランス語でITを勉強している、と言った状況で、それで何ら不都合は無く、のんびりした時代でした。

しかしながら、2000年前後あたりから、世界的に、”ITは英語で勉強するもの” と言う風潮が広がり始め、かつて母国語に強く執着していたフランスやロシアと言った国々もあっさりと英語の軍門に下ってしまいます。
米国外の大学でITを教えていると言うアメリカ人から数年前に聞いた話ですが、彼の知る範囲では、自国語でITを勉強しているのは日本と韓国だけと言う状況でした。
それから月日は流れ、今現在の韓国の状況はよく知りませんが、(一説によれば、と言うよりも、よく聞く話によれば、ITでは韓国は日本よりはるか上を行っているらしい)、日本の昨今のITの状況は、ガラパゴス状態をさらに超えて進化が進み、完全に絶滅危惧の状況にあると言えます。

この英語の浸食状況は、単にIT産業だけではなく、IT技術、特にソフトウェア技術、をよく使う産業分野にも影響が波及してきており、宇宙航空産業や自動車産業などのシステム・エンジニアリング分野も事実上、英語圏になってしまっており、エンジニア達は英語のコミュニケーションを強いられる過酷な(?)状況になっています。

2018年4月28日土曜日

纏向遺跡にて その4 謎の5世紀

謎の5世紀
  雄略天皇の時代

前回のブログで、稲荷山鉄剣の銘文では、乎獲居臣(をわけのおみ)の時代から、尊称など(具体的には、臣(おみ)、大王(おおきみ)、宮(みや)など)の和訓が始まっていると書きましたが、この「をわけのおみ」が仕えていたとされる雄略天皇の治世には様々な変化が起こっています。

文章遺物 (金石文、木簡、紙)の状況


雄略期(5世紀後半)とその前後の時代の文章表現を示す遺物としては、稲荷山鉄剣以外にもいくつかの金石文が残されています。

紙モノの資料が残るのは、残念ながら、ずっと後の、古事記や萬葉集(8世紀初めごろ 奈良時代)からです。

では、木簡・竹簡のたぐいはどうか? と言うと発見状況は悪く、現在発見されて残っているものは、最も古いものでも7世紀中葉、飛鳥時代、蘇我氏などが活躍していた時代のもので、それ以前の古いものは発見されていません。
数としては数十万点の木簡が発見されていますが、飛鳥、奈良から平安時代までの物が大部分で、内容は地方からの白米や鯛などの貢進物につけられた付札や帳簿と言ったたぐいの物が多く、すでに和訓だらけで、貴族階級だけでなく庶民階級にも和訓混じりの漢文の習慣が広まってしまっていることを示しています。
また、万葉仮名で書かれた和歌も見つかっています。

ちなみに、7世紀、飛鳥時代の固有名詞の表記は、例えば「県犬養三千代(あがた いぬかいの みちよ)」と言った感じで、現代でもいそうなナウい(死語失礼)和訓まみれの人名表記になってしまっており、「獲加多支鹵」とか「乎獲居」と言った風情のある表記はすっかり時代遅れになってしまっていたようです。(5世紀と7世紀の200年ばかりの間に名前の流行はすっかり変わってしまっています。)

5世紀前後の金石文

日本に残る5世紀前後に日本に残っている金石文を古い方から順に見てみましょう。
  • 七支刀 4世紀ごろ  
    • 奈良県の石上神宮に伝世
    • 百済で作られ倭に渡ったもので銘文には和訓はまったく含まれません。

  • 稲荷台1号墳出土の王賜銘鉄剣 千葉県 5世紀中頃か?(紀年なし)
    • 銘文は「王賜□□敬□ (安)此廷□□□□ 」(□は判読できない文字)だけで、極めて短く類型的な(決まり文句的な)表現であり、和訓はなく純粋な漢文として読めます。

  • 江田船山古墳出土の銀錯銘大刀 熊本県 5世紀中頃 
    • これは、先に紹介した稲荷山鉄剣(群馬県出土)と同時期のもので、「獲加多支鹵」などの人名表現があり、日本固有の名詞部分は表音表記で、役職名は和訓という表現様式は稲荷山鉄剣とまったく同じです。固有名詞以外はそのまま漢文として読めます。

  • 隅田八幡神社人物画像鏡 和歌山県 5〜6世紀 年代には有力な説が2つあります。
    • 1つ目の説は443年(5世紀中葉)で、雄略天皇が即位する約14年前で、もう一つはその60年後の503年(6世紀)です。
    • 鏡の銘文には和訓表現として、大王(おおきみ)、意柴沙加(おしさかのみや)、開中費(かわちのあたい)の3つが含まれており、稲荷山鉄剣や上記の江田船山古墳と同じ表現パターンです。ちなみに443年説では、「意柴沙加」は、雄略天皇の母親である皇后・忍坂大中姫を指す説が有力です。

  • 岡田山1号墳出土の大刀 島根県 古墳時代後期、6世紀?(紀年なし)
    • 出土後の保存状態が悪く、多くの文字が読めなくなっていますが、「額田部臣(ぬかたべのおみ)」と読める和訓部分が残っており、役職の「臣」だけでなく名前全部(氏名(うじめい)とカバネ(姓))が訓読みになっています。

  • 箕谷2号墳出土の鉄刀 兵庫県 7世紀(西暦608年)飛鳥時代 推古天皇の頃
    • 「戊辰年五月□」と言う年紀だけが読めるもので、和訓の普及の度合いを示す資料にはなりません。
また5世紀の日本の状況を示す中国側の資料では、いわゆる倭の五王の時代であり、413年〜478年の間に、讃、珍、済、興、武と名乗る謎の倭王5人が少なくとも12回中国に朝貢していますが、いずれも中国風の偽名であり、どこの誰を指すのか判然としません
日本側の上表文にも和訓は書かれず、中国側の資料にも登場せず純粋な漢文のみで交際していたようです。
以上のことから、現存する文章遺物を時間順に追っていくと、
  1. 5世紀中頃に和訓が登場してきている。初期の和訓は、大王、宮、臣、直などの王号、宮号、カバネ(臣、直)などに限られる。
  2. 6世紀には、カバネだけでなく氏(ウジ)も訓読みされる例が登場。Ex. 額田部臣
  3. 7世紀には、万葉仮名や名前までも訓読みされる例が登場。 Ex. 県犬養三千代
  4. 8世紀には、古事記や萬葉集が作られる。音訓が入り乱れ、何でもありの状況
と言う流れが浮き上がってきます。

2018年4月8日日曜日

纏向遺跡にて その3

日本語の現在の表記法、和訓の交雑はいつ始まったか?

日本語の表記法はかなり特殊な部類に属することは前回述べましたが、この表記システムはいつ頃出来たのでしょうか?
萬葉集や古事記の頃(8世紀、奈良時代)には、すでに現代に続く和訓は確実に存在していますが、それ以前の状況はかなり情報が限られてきます。
中国側の記録を見ると、遅くとも後漢の時代 ー 紀元1世紀ごろ ー、には倭人は中国人と朝鮮半島上で接触しており、ある程度中国語での会話が可能な倭人が文字情報(漢字)に接した直後あたりから各自バラバラに和訓を作り始め、年月をかけて、倭人同士で相通ずる程度(言葉と読んで良い程度)にまで統一されて行ったのだと想像します。

古事記以前の状況

古事記以前の和訓の作成過程を明確に示す文献は存在しませんが、たまに発見される考古学的資料、金石文から、その間の消息を想像することは出来ます。
稲荷山鉄剣は、5世紀後期(西暦471年 雄略天皇のころ)に作られたと言われておりますが、当時の日本人によって記されたと思われる漢文が銘文として残っています。
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比  
 其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也
 この墓碑銘と思われる銘文には、被葬者と思われる乎獲居臣(をわけのおみ)と、その先祖の名前が列記されており、以下に示します。

先祖名    読み     尊称部分    
意富比垝   おほひこ      彦         
多加利足尼  たかりすくね  宿禰
弖已加利獲居 てよかりわけ  
多加披次獲居 たかひしわけ  別
多沙鬼獲居  たさきわけ   別
半弖比    はてひ     なし
加差披余   かさひよ    なし
乎獲居   をわけのおみ  臣


ここで注目するところは固有名詞である名前の表記の仕方であり、乎獲居臣より以前の先祖名はすべて、やまと言葉に漢字の音のみ当てているのに対し、乎獲居臣に到って初めて名前の一部に訓読みである臣(おみ)を当てています。(より正確には、当時はなんと訓んでいたのか確認する方法がなく、はっきりしたことが言えませんが、明らかに名前の構成法が乎獲居臣の代に変わっており、後世の訓読みにつながる構成になっています。)

また、その他のやまと言葉と思われる固有名詞として、獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)、斯鬼(しきのみや)の二語があり、ともに訓読みしたと思われます。
そして、固有名詞部分以外は、和訓は無く、すべて漢文で読めます。

つまり、遅くとも紀元1世紀、後漢のころに漢字は日本に伝わり、5世紀までは、日本語を書き表す場合はすべて漢字は表音記号として用い、乎獲居臣の時代には、役職名と宮殿名に関しては和訓が始まっていた事を示す実例と考えられます。
また、漢字を純粋に表音記号として用いていた時代には、悪字、好字には無頓着であったこともわかります。

続く

2018年3月13日火曜日

纏向遺跡にて その2  <漢字と日本語について>

邪馬台国への道

魏志倭人伝


邪馬台国の話題になると、その唯一の記録文書である所謂「魏志倭人伝」を当たる必要があります。
しかしながら、この文書は読み手の立ち位置(視点、目的、意図)により解釈が多岐にわたることが知られています。
したがって、筆者の立ち位置に触れておいた方が良いでしょう。

ちなみに、この現象に似たような情報の変形はシステムモデルなどにもよく現れ、同一のシステムに対し、その視点«viewpoint»が異なればシステムの見え方«view»も大きく異なります。
例えば、原子力発電システムは、経済的観点から見たモデル、業務的・オペレーション的な観点、あるいは品質管理的観点から見た場合では、見え方、モデルは全く異なり、また安全保障的観点から見るとまた全く別のモデルが現れます。

日本語システムの特殊性


今から30年ほど前のことですが、筆者はアメリカと日本の間を頻繁に往来する時期がありました。
その頃、アメリカの出張先で、仕事上はあまり直接的な関係はなかったものの、よく顔を合わすアメリカ人エンジニア、Bさんがおりました。
彼は、筆者が日本から来ているのを誰かから聞いていたらしく、日本語で話しかけて来ました。
職場には日本語を話す人が他におらず、Bさんは筆者にとっては唯一の日本語での会話が可能な人でした。
彼はMITかどこかアメリカ東部の有名大学の卒業生で、そこで日本語を第二外国語として勉強したそうです。(第一外国語は確かスペイン語だったと思いますが、フランス語だったかもしれません。いずれにせよ、Bさんは両方とも喋れたようです。)
彼の日本語は大変流暢で外国人が話す日本語としては申し分の無いレベルに達していたと思いますが、本人は「まだまだ、」と謙遜していました。

そんなBさんと日本語の特性について話をしたことがあります。
Bさんは学生時代、日本語を勉強し始めて2年ほど経った時、友人たちと一緒に日本に遊びに来たことがあったそうです。
その時点で彼は大学の授業で日本語の日常会話は大体マスターしたと自負しており、辞書さえあれば旅行レベルでの会話には困ることはないだろうと思っていたそうです。
実際問題として、彼が大学で取った第一外国語では、その語圏への旅行では、日常会話と辞書で十分なんとかなったそうです。
来日の際、彼が空港に降り立ちホテルに着くまでは何の問題もなかったのですが、街に一歩出た途端に予想外の困難に遭遇してしまったそうです。

街で出くわす漢字は、彼の知る範囲をはるかに超えていたので、さっそく持参して来た辞書を引こうとしたのですが、和英辞典も国語辞典もその漢字の読み方が分かっていないので引けず、今度は漢和辞典を用いて漢字を引いても読み方が漢音ではどう発音するとか、呉音ではどう、訓読みではどう、とか書いているだけで、熟語例も漢籍から取られた用法が圧倒的で、とても現代日本語を引けないものでした。

この状態は30年後の今もさほど変わっておらず、手元の漢和辞典を見ても基本的に漢文学習者むきに作られており、和英辞典も国語辞典も基本的に読みからしか索けません。
科学技術の進歩の結果、今現在可能性がある方法としては、AI技術を使った文字認識などが考えられますが、決してハンディな方法にはまだなっていません。

Bさんは、都会の真ん中で辞書が全く使えず、文字どおり完全に文盲になってしまい、そして、この体験は彼の初めての来日の強烈な思い出の一つになったようです。
この日本語の表記システムの特性は、日本人自身にとってはさほど大きな問題とは感じられないかもしれませんが、海外の日本語学習者にとっては最大の障害(の一つ)になっているようです。
Bさんによれば、同じ漢字文化圏にある中国語や韓国語(朝鮮語)と比較しても日本語の表記システムのこの特性は際立っており、中国語では漢字は表意文字であると同時に表音文字としても機能しており、基本的に一字ー音であって字づらだけを見て辞書を索くことが可能であり、韓国語に至っては15世紀以降、表記に表音文字(ハングル文字)を採用し、大抵の場合辞書は音だけで検索可能です。
この困難は、例えて言えば、現代日本人が萬葉集を読む上で感じる困難と(困難の程度は度外視して)同質的です。一例として、次の歌を見て見ましょう:

春過而 夏来良之 白妙 衣乾有 天香来山

この歌はかなり有名なので ー 百人一首の元歌の一つです ー 簡単に読める方もいらっしゃるかと思いますが、仮にこの歌を知らなかった場合、漢字辞典だけを使って読もうとすると極めて困難な作業になります。(萬葉集の中には、読み方に関し専門家の間でも意見が分かれる歌もあるほどです。)

春すぎて 夏来たるらし しろたえ ころも干したり あまかぐやま

この歌は漢字を主に訓で読んでいますが、ところどころ音読みの部分が混ざっています。「らし(良之)」 、 「の(能)」の二ヶ所は音読みで読んでいますが(ともに呉音)、面白いのは「之」と言う字で、二句の「夏来たるらし」では音読みなのに、結句の「あまのかぐやま」では「の(之)」と訓で読んでいます。
救いは、萬葉集の時代の漢字の読みが呉音(古代の音)中心なので、平安時代以降に日本に入って来た漢音や唐音を考える必要がないところぐらいだけです。
現代の日本語文は、萬葉集のように全文字が漢字ということはなく、半分ぐらいは「かな」で書かれていますので、その点だけで随分マシにはなっていますが、それでも訓読み、音読み(呉音、漢音、唐音など)が入り乱れて読み方を決定する文法的なルールは存在せず、面倒なことに、同じ字づらでも読み方が変われば意味が変わってしまうような場合もあって、非常に厄介です。(読むための一貫したルールが存在せず、かつ、字面だけで辞書を索くことが非常に困難な言語)
これほどめんどくさい表記システムを採用している言語は、筆者の知る限り日本語だけです。
例えばスペリングと発音が必ずしも一致しない言語として有名な英語でも、スペリングだけで(どう発音するか知らなくても)辞書を索くことが可能であり、またロシア語などのように語形変化が多い言語でも、少数の例外的な単語を除き語形変化が極めて規則的であって、初学者でも基本形は簡単にわかります(ロシア語の辞書は基本形で索く必要があります)。
そして、古典語と呼ばれるギリシャ語、ラテン語、サンスクリット語、中国語などは、すべては(事情はそれぞれ異なるようですが)字面だけで辞書を索くことが可能です。

Bさんによれば、日本の複雑な表記システムさえなければ、日本語の文法そのものは他の言語に比べて決して難解なものではなく、発音に関しては他の言語に比べ音の種類はむしろ限られており、決して学習困難な言語ではないと思えるそうです。

(続きは後日)


2018年2月11日日曜日

都市伝説 ー システム工学版

F16ジェット戦闘機
 最近はシステム工学の入門コース(SysML入門)を作っているのですが、その中で、システム工学に興味がない人にとっても面白いのではないか?と思われるトピックがあったので、ブログにしてみました。
(邪馬台国の続きは、そのうちにまた)

 ソフトウェア工学に関するお話で非常に有名な伝説の一つに、「赤道上空飛行機上下裏返り事件」と言うものがあります。
航空機が南半球から北半球へ向かって飛行している際、赤道を越える瞬間に機体の上下がくるりと裏返ってしまい、また逆に北から南へ戻る時も赤道を越える瞬間に同様のことがおこる ー つまり赤道を越える度に航空機が裏返ってしまうと言うものです。

この航空機というのはアメリカのF16ジェット戦闘機のことです。
F16は1970年代の初めころに設計が始まった胴体と翼(とフィン)の一体化設計を特徴とする戦闘機で、その後何度も改良を加えながら、21世紀の今日も現役であり続けています。
2018年の現在でも、米空軍保有の戦闘機の中で最大数をF16が占め、米国だけでなく世界各国にも輸出された、ー たしか日本の自衛隊も使っていると思います ー ベストセラーであり、航空機業界のレジェンドです。
そして、F16のもう一つの特徴は、世界で初めてフライ·バイ·ワイヤー方式を採用した戦闘機と言う点です。
フライ·バイ·ワイヤーとは、航空機の操縦を機械式ではなく電気式に置き換えたもので(fly-by-wire :ワイヤーは電線の意味)、パイロットが(油圧などを利用しながら)直接機械的に航空機を操縦するのではなく、コンピュータ制御盤を操作するだけで、あとは電気信号で各種機械装置に指令を送りながら操縦をするという方式です。
このフライ·バイ·ワイヤー方式のため、通常の飛行は極めて簡単、スムーズ、安定的になりましたが、反面、予想以上の様々な問題に遭遇することになります。
従来の機械式では、機体や人体に異常な力が掛かるような無理な操縦をしようとすると、操縦桿が非常に重くなったり(機械式ですので負荷や振動が直接操縦桿に伝わります)、機体から異音が発せられたりして、パイロットは素早く異常に気づくことができましたが、このフライ·バイ·ワイヤ方式では、操縦桿は電気信号を発生する単なるジョイスティックとなり指先で簡単に動かせ、またスタビライザー(安定化装置)が自動的に働いて少々の異常振動は押さえ込んでしまいますので、異常に気づくのが遅れ、時としてパイロットや機体を危険な状態に追い込みます。
強力なジェットエンジンと簡単なジョイスティック操作で、人体には堪えられない高いG(加速度)を出してしまいG-LOC(脳に血液が行かなくなり、意識を失う状態)に陥った結果、墜落と言うこともあったようです。
(初期の頃は、G-LOC以外の原因も含め、何人ものテストパイロット(熟練した技量の高いパイロット)の方々がF16搭乗中に命を失ったようです。)
また、機体中に張り巡らされた銅線が過酷な動作環境下で擦れたりよじれたりして回線が断線、ショートしたりお互いに干渉しあったりして(電磁誘導)、誤信号を出すようになり、地上に待機中のF16が、まだ離陸どころか滑走もしていないのに、突然車輪を仕舞い込みはじめ高価な機体を地面に叩きつけて壊してしまったり、異常な電気信号のせいでコンピュータの誤動作を誘発するようになりました。
また、70年代、80年代はソフトウェア工学の黎明期であり、、、、つまり、一言で言うと初期のF16のソフトウェアはバグだらけでした。

ジェット戦闘機のパイロットは重力以上の高い加速度を浴び続けているため往々にして、上下の感覚を失ってしまいます。視界があるうちは窓の外の海や空を見て上下を判断しますが、悪天候等で視界がきかない場合は計器が示す水平線を見て判断します。ところが、その計器が間違っていたらどうなるでしょうか?
80年代のある時、F16のパイロットはしばらくの間、水平飛行していました。視界が全く効かず計器の水平線を頼りに飛行していましたが、この時点で彼は気づいていませんが既に上下反転の状態、裏返しの状態で飛んでいました。そして突然、その計器が機体が地面に向かって急降下していると示し出しました。彼は操縦桿を急いで引いて機体を上昇させようとしました。
しかし、全ての情報は上下逆で、彼の飛行機は地面に激突してしまいました。
彼の腕は操縦桿を握ったままの状態で発見されたと報道されています。

F16の開発過程では様々な逸話が生み出されました。人類はいかにしてテクノロジーを獲得してきたかを如実に示す技術史とも言えます。そして、各種の逸話と同時に数々の都市伝説も生み出しました。
F16にまつわる話は多いけれどどれが真実の話か、どこまでが本当の話か、が専門家でも判断つかなくなってきました。専門家が聞いても、十分に起こりうる話だと感じさせられる真っ赤なウソも多くなってきました。
F16そのものが都市伝説となってしまったのです。

このブログの先頭にあげた「赤道上空飛行機上下裏返り事件」もそう言った都市伝説の1つです。 と言っても70パーセントぐらいは本当の話で、実際にコンピュータ·シミュレーション中に発生しています。
F16の自動操縦をさせるソフトウェアを開発し実機で稼働させる前に、コンピュータ·シミュレーション環境で動かし、たまたま赤道付近を飛行させたために発見されたバグです。
F16の開発は航空技術的、ソフトウェア技術的、システム工学的に非常に興味深いエポックであり、同時に多くの都市伝説を生みました。
試しにネットで"F16 urban legend"で検索すると山ほどの文献がヒットします。
この真実味のある都市伝説の多さから、F16はシステム工学の”となりのトトロ”と呼ばれています。(冗談です)

2018年2月1日木曜日

纏向遺跡にて その1

箸墓 纏向遺跡
正月に初詣に奈良に行ったとき、帰り道に邪馬台国の有力候補として有名な纏向(まきむく)遺跡を見てきました。
筆者は学生時代から日本史が苦手で、古代史などにも全く関心が無かったのですが、実際に遺跡を見てみると俄然興味が湧いてきました。

邪馬台国がどこにあったかと言う問題は古くは江戸時代から争われて来たそうで、その論争の最大の原因は邪馬台国の場所が記述されていた「魏志倭人伝」の地理的表現、特に方位や距離が(意図的とも取れるほど)不正確であることにあると言われています。


考えてみると、古代どころか近世の江戸時代の地図などを見ても、距離や方位と言った情報は極めて不正確です。海上など見通しのきく範囲では方角はある程度信用できますが、見通しのきかない長距離の陸上となるとかなりいい加減となりますが、これは当時の軍事上あるいは生活上、正確な方位や距離が必要な場面がほとんどなかったからです。
それに反し、トポロジー情報は極めて正確です。
なんとか村の隣はなんとか町と言った隣接情報や、街道沿いに現れる地名の順番を間違えることはまずありませんが、これは、人間が主にトポロジー情報を使って移動しているからであって、方位や距離の重要度を遥かに凌駕します。
また、トポロジーに並んで正確に記憶される情報として、地域の特産品、風俗などの地誌情報があります。
例えば仮に魏志倭人伝で、「邪馬台国の特産品は”辛子明太子”である」と記述されていたとすると、皆さんの中にも、ある地域がピンと思い浮かぶ勘の鋭い方もいらっしゃるかと思います。
そして、さらに、「邪馬台国の主食は”豚骨ラーメン”である」と記されていたら、話は決定的になります。
何となれば、”豚骨ラーメン”を常食し、”辛子明太子”を好む土地というと、そうです、あの地域しかありえません。
ところが、さらに続けて、「邪馬台国では”豚骨ラーメン”を食べる時には必ず"柿の葉寿司"を合わせて食べる」となると頭の中は大パニックを起こしてしまいます。
かように人間は地誌的情報に対して極めて敏感であり、これは、おそらく人類が狩猟採集生活をしていた時代から骨身に叩き込まれ身につけて来た習性であったからでしょう。

北九州上陸直後に消息を断つ

さて、魏志倭人伝にはトポロジー情報も地誌的情報も記されていますが邪馬台国の所在地を特定するまでには至りませんでした。
地理的に、魏の支配下にあった朝鮮半島の帯方郡から対馬、壱岐を通って北九州に上陸するまでのルートは、ほぼ確実にたどることが出来ますが、上陸後幾許もせず情報が急激に曖昧模糊となって犯人(ホシ)の足取りがプッツリと途絶えてしまいます。
また、地誌的な情報も、邪馬台国の南方系的、海人族的風習を思わせる記述があるだけで、ホシ(犯人)を特定するにはあまりに不十分です。
そして長い間、もはや事件(ヤマ)はお宮入り(迷宮入り)かと思われたところに、新しい新事実が発見されました。
そして、ヤマ(事件)は動き出します。
🎵BGM指導: この節は「太陽にほえろ」のテーマを流しながら読むのが良いでしょう)

崩れ去ったアリバイ(不在証明)

新事実とは、纏向遺跡の考古学的発見です。
纏向遺跡は以前からその存在は知られていましたが、時代的には邪馬台国の時代、3世紀のものではなく、もっと後の時代のものだと見なされていました。
従って邪馬台国の時代に纏向はまだ無かった、と言う不在証明ーアリバイが成り立っていると考えられていました。
しかし、近年の発掘調査の結果、纏向の成立時代は従来の定説を遥かにさかのぼり、邪馬台国とほぼ同時代と見做されるようになり、ここに至って、纏向のアリバイー不在証明は完全に崩れ去ってしまいました。
そして、その遺跡の規模や内容から考えて、纏向は邪馬台国の最有力候補、ー もとい、最重要容疑者にされてしまい、世間から強い嫌疑の視線を浴びるようになってしまいました。本人もまだ自白(カンオチ)には至ってませんが、かなり弱っているのは確かです。

真実の訴え 纏向はシロ(無実)

しかしながら、筆者は、纏向あるいは大和地方は邪馬台国では無かったと考えます。この結論に至った論考は次回以降述べたいと思いますが、この結論に至った最大の要因は何と言っても遺跡を目撃したことによります。
もし、この目撃情報がなかったら、筆者も、纏向や大和地方に対し、強い疑惑の目を向けていたままかも知れないと考えると 恐ろしい気がします。


次回に続く