日本語の現在の表記法、和訓の交雑はいつ始まったか?
日本語の表記法はかなり特殊な部類に属することは前回述べましたが、この表記システムはいつ頃出来たのでしょうか?萬葉集や古事記の頃(8世紀、奈良時代)には、すでに現代に続く和訓は確実に存在していますが、それ以前の状況はかなり情報が限られてきます。
中国側の記録を見ると、遅くとも後漢の時代 ー 紀元1世紀ごろ ー、には倭人は中国人と朝鮮半島上で接触しており、ある程度中国語での会話が可能な倭人が文字情報(漢字)に接した直後あたりから各自バラバラに和訓を作り始め、年月をかけて、倭人同士で相通ずる程度(言葉と読んで良い程度)にまで統一されて行ったのだと想像します。
古事記以前の状況
古事記以前の和訓の作成過程を明確に示す文献は存在しませんが、たまに発見される考古学的資料、金石文から、その間の消息を想像することは出来ます。稲荷山鉄剣は、5世紀後期(西暦471年 雄略天皇のころ)に作られたと言われておりますが、当時の日本人によって記されたと思われる漢文が銘文として残っています。
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也この墓碑銘と思われる銘文には、被葬者と思われる乎獲居臣(をわけのおみ)と、その先祖の名前が列記されており、以下に示します。
先祖名 読み 尊称部分
意富比垝 おほひこ 彦
多加利足尼 たかりすくね 宿禰
弖已加利獲居 てよかりわけ 別
多加披次獲居 たかひしわけ 別
多沙鬼獲居 たさきわけ 別
半弖比 はてひ なし
加差披余 かさひよ なし
乎獲居臣 をわけのおみ 臣
ここで注目するところは固有名詞である名前の表記の仕方であり、乎獲居臣より以前の先祖名はすべて、やまと言葉に漢字の音のみ当てているのに対し、乎獲居臣に到って初めて名前の一部に訓読みである臣(おみ)を当てています。(より正確には、当時はなんと訓んでいたのか確認する方法がなく、はっきりしたことが言えませんが、明らかに名前の構成法が乎獲居臣の代に変わっており、後世の訓読みにつながる構成になっています。)
また、その他のやまと言葉と思われる固有名詞として、獲加多支鹵大王(わかたけるのおおきみ)、斯鬼宮(しきのみや)の二語があり、ともに訓読みしたと思われます。
そして、固有名詞部分以外は、和訓は無く、すべて漢文で読めます。
つまり、遅くとも紀元1世紀、後漢のころに漢字は日本に伝わり、5世紀までは、日本語を書き表す場合はすべて漢字は表音記号として用い、乎獲居臣の時代には、役職名と宮殿名に関しては和訓が始まっていた事を示す実例と考えられます。
また、漢字を純粋に表音記号として用いていた時代には、悪字、好字には無頓着であったこともわかります。
続く
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