2016年1月25日月曜日

戦略と戦略眼 その3


京都の恋
高校生の頃から、京都の街を度々訪れていました。
生まれた街、神戸もいいのですが、やはり京都は特別です。

京都の楽しみ方は人それぞれですが、筆者の場合、30代の頃、会社を辞めて次の会社に勤め始めるまでの間、かなりの時間が空き、極めて暇を持て余していたことがありました。
友人達も、皆勤めを持っていて、そんな暇人とそうそう付き合ってくれるわけがなく、一人で読書や旅行に明け暮れていました。
その時は時間が無限にあるように感じられたので(後に錯覚だとわかったのですが)、普段読めないような本を読もうと思い、仕事とは全く無関係な本を読み散らかしていましたが、その中で最も愛読していた本の一つが「源氏物語」です。
 その時は、結構のめり込んでいて、「源氏物語」を観光ガイドブックの代わりにして、物語に登場する場所を訪ね歩いていました。
近江の妙法寺廃寺跡など、単に地名だけが登場するだけで、主人公たちがまったく行ってないような場所もしばしば訪ねています。
そうして、現代の風景越しに平安時代の京都の情景を重ね合わせて、頭の中に古代を空想して楽しんでいました。
平安時代の内裏跡など、今では単なる住宅地になってしまっているのですが(現在残る京都御苑は後世のもので紫式部の時代の内裏跡ではありません)、その住宅地の中を古代の姿を頭の中に思い描きつつニタニタ笑いながら歩いていたわけですから、今考えると、結構アブナイ人と思われていたかもしれません。

1980年代のネットワーク事情


80年代のネットワーク事情を語る前に、2つの重要な項目をお話ししなければなりません。 一つはパソコンの台頭、そして2つ目は日米政府の政策の変化、すなわち通信の自由化です。

背景1 パソコンの台頭


70年代後半に8bitパソコンが次々と登場してきていましたが、基本的に個人向けで、ビジネスユースにはかなり非力とみなされていました。
しかしながら、80年代に入り16bitパソコンが出始めると、急速に業務でパソコンが利用され始めました。
とは言え、最初の主な使用法は、ワープロや表計算などの個人的なデータ処理とメインフレームやオフコンの通信端末としてであって、パソコン自体に業務アプリケーションを載せて走らせるにはパワーも信頼性も足りないと言う状況がしばらく続きます。
しかしながら、パソコンの性能は毎年2倍以上の速度で向上して行き、80年代の末あたりになるとCAD/CAMなどと言った元々メインフレームが得意としていたエンジニアリング業務などの分野のアプリケーションがパソコンに急速に移行して行き出します。
 そしてLAN、ローカルエリア・ネットワークが普及し始めたのもこの頃です。


続く


2016年1月23日土曜日

戦略と戦略眼 その2

冬の金閣寺
昨秋は2度ほど京都に行ったのですが、2度目は紅葉があらかた終わってしまい、金閣寺では写真のように完全に冬の光景に変わってしまいました。

 

 

 

 

1980年代のインターネット勃興前のネットワーク業界


このブログで以前触れたような気もしますが、筆者は昔、某外資系コンピュータ会社で、通信製品のプロダクトマネージャをしていたことがあります。
二十代の筆者にとっては戦略(製品戦略)を扱う初めての体験でした。
当時は冷戦末期であり、アメリカは極めて不景気で、いわゆる双子の赤字(膨大な貿易赤字と財政赤字)とスタグフレーション(不況とインフレの同時進行)に苦しんでいる一方、日本はバブル経済の真っ最中で異常なくらい好景気でした。
日本の対米輸出は急増の一途を遂げ、日米間の貿易摩擦の問題は頂点に達し、アメリカの対日感情は悪化の一途をたどっていました(いわゆる、ジャパンバッシングの状態)。

ついでに言うと、アメリカの空港のイミグレーション(入国管理局)での日本人に対する対応は極めて悪く、現在のようなフレンドリーさは皆無でした。
幸い筆者はさほどひどい扱いを受けたことはありませんでしたが、知り合いの中には散々意地悪をされ不快な思いをした人も結構いた時代でした。

また、ついでのついでに言うと、貿易摩擦の問題交渉の場で、当初はアメリカ側は対日穏健派の意を汲み日本側に対する要求は非常に穏やかなものでしたが、まったくラチがあかないので、対日強硬派の意見を入れて、極めて強引に譲歩を迫ったところ、日本側はあっさり「はい」と認めてしまったために、対日穏健派が米国内で立場を失ってしまったと同時に、日本の政治家は皆んなマゾじゃないか?と言う強い疑惑がアメリカ政界に巻き起こったのも、この件がきっかけです。
あれだけ泣いて騒いで懇願してもウンと言わなかったものが、乱暴に強く迫った途端に要求をあっさりとしおらしく受け入れたわけですから、マゾ説が根強くささやかれるようになったのも無理はありません。
ちなみに、現在では、アメリカの外交官の教科書には、日本の政治家に何かお願い事がある時は、最初に有無を言わさず頬を2、3度はたいて脅し、お願い事はぶっきら棒に、かつ強引に命令形で言うこと、と言うのが最も上品で正式な方法であると明記されています。
この方法が最も成功率が高いというのも、ワシントンの「日本の政治家=ドM説」をさらに強固なものにしています。

うっかり与太話に脱線してしまいました。本題のネットワークの話は、また次回。

2015年11月27日金曜日

グローバル化と英語 その3


永観堂の紅葉

京都の東山の永観堂の北側に「哲学の道」という遊歩道があります。
かつて哲学者が好んで歩いた散歩道だったそうですが、今は哲学好きな猫の散策する場となり、その猫を目当てに猫好きの観光客が訪れています(筆者もその一人です)。

グローバル思想 唐の場合

唐の国の版図は広大で、様々な人種や民族を包含するものであり、また域外の国々との交易も非常に盛んでした。
 唐の街には、様々な国の外交使節や商人たちが行き交い、様々な言語が話されていました。
 東は日本人から西は西域の人々(イランやトルコ系)まで、北は北方騎馬民族から南はインド人まで、実に様々な人々が比較的平和裡に交雑交流していました。
これだけですと、単に国際的なだけですが、唐の場合は国家の設計思想が一味変わっていました。

哲学の道を逍遥する哲学猫

国家アーキテクチャ

唐は仏教を保護し、国家事業として様々な経典を漢訳していましたが、同じことを摩尼教や景教などの西域からの様々な宗教に対しても行なっていました。
一種のシンクレティズムですが、各宗教の僧たちも、漢訳などの作業を通じ積極的に交流し、互いに影響しあっていました。
仏教の経典も必ずしもインド僧がサンスクリット語から漢訳したものとは限らず、イラン系言語に翻訳したものをイラン人の景教(キリスト教系)の僧が翻訳したものまであります。
そして、皇帝も含め当時の人々は複数の宗教に帰依することになんら問題を感じず、同時並行して複数の宗教に弟子入りしたりしています。
おそらく、このシンクレティズムは、現代のシステム工学で言うビュー、観点が違うものを複数勉強していると言う感覚だったのでしょう。
例えば、国家を考える場合、仏教的観点、キリスト教観点、儒教的、法学的観点、あるいはシステムとして見るシステム工学的観点など様々なビューが現れますし、また法律そのものであっても、宗教、文化的観点もあり、また論理構造体としてみるアーキテクト的ビューなども考えられます。
いわば、大学の学部を超えて複数の専攻科目を勉強している感覚だったのしょう。

また、百人一首にも登場することで有名な阿倍仲麻呂は、入唐後に科挙の試験に合格し、日本に戻れずじまいで最後まで唐の高位高官(三位の高官)として過ごしました。そして、安史の乱で有名な安禄山は、中央アジアのイラン系民族とトルコ系系民族 ー いずれも西域ですが ー の混血だと言われているように、国家を構成する高官も様々な人種民族出身の人間が登用されていました。
このように国家の中枢部分そのものが国籍に頓着せず言わばグローバル化しており、これは、皇帝という観念が、世界ではなく全宇宙に君臨するものと考えられており、宗教や人種、民族などを超越した存在とみなされていたからでした。

したがって、この皇帝統治システムは、グローバルと呼ぶよりも全宇宙的(Cosmic)と呼んだ方が良さそうな気もしますが、実際には月や火星まで支配は及んでいませんので、ここではグローバルという言葉で統一しておきます。

日本人にとっては、唐は初めて体験するグローバル化現象だったでしょう。

次に続く

2015年11月16日月曜日

グローバル化と英語 その2

京都 永観堂
過日、紅葉を見に京都へ行ってきました。
紅葉は始まったばかりで、全山紅葉するにはまだ間がありますが、逆にそれほど混雑もしておらず暖かな日和で、のんびりと楽しめました。

空海の時代

空海は、みなさんご存知の通り、今から1200年ほど前、都が奈良から平安京へ移る時期に生きた僧侶で、高野山を開き真言密教の開祖として、今現在も日本に大きな影響を残しつつある人物です。
1200年もの長い間、日本人の精神界に影響を残すと言う偉業は、戦略論などと言う薄っぺらな俗論を遥かに超えて、決して筆者など凡夫の語るべき所ではありませんが、ここで取り上げた理由は、彼はこの時代の人としては驚くほど多弁であり、多くの情報が残されていてるからです。
現在のグローバル化の現象に似た事象を日本史上に探すとなると、人類が日本列島に渡って来た遠い記録のない太古を除けば、まず第一に遣隋使、遣唐使の時代を挙げるべきでしょう。
空海も若い頃遣唐使船に乗り、当時東アジアの一大国際センターであった唐の都、長安に渡っています。
そして、当時、遣唐大使など高級役人を除けば、空海たち若い学生達は、中国語に相当通暁していたことが窺わされますが、彼らはどこでどのようにして中国語を学んだのでしょうか?
空海がどのように学んだかは不明の部分が多いのですが、推察するに、彼は僧になる前に役人になるために当時の日本の首都、奈良にあった大学寮に入学しましたが、そこで漢籍の丸暗記型の勉学に飽き足らず、様々な分野の勉強をした際、中国語の会話も習得したようです。
大學寮には中国語の発音、唐音を教える音博士(おとはかせ、今でいう大学教授みたいなものか?)もおり、おそらく空海の出身階級である官人層の少なくとも一部には、中国語の読み書きだけではなく会話も可能であったコミュニティーがあったことが想像されます。
(一方、当時の支配階級である貴族層の中国語の教養は読み書きが中心であり、嵯峨天皇などの例外的存在を除きかなり怪しい所があります。)
 当時、唐は、日本を含む東アジア全体の文化の中心であり、また文治政治が行われていて、律令制を構成する唐の官僚層は、科挙の選抜試験を突破した詩歌に通じる教養人たちばかりでした。
(官僚たちの酒宴の席では、漢詩のやりとりが盛んに行われていました。)
 このような東アジアの状況下、日本においても学問、教養は中国語なしには考えられない状況でした。
これは、中国発祥の儒教だけではなく、インド発祥の仏教も例外ではなく、サンスクリット語で書かれた経典がすぐに漢訳され、それがわずか数年を隔てて、日本にも伝わって来ていました。
そして、ほとんどの経典は日本語訳されることなく、漢訳されたものがそのまま国内でも使われていました。
この経典の伝達速度の早さは、当時の海上交通の状況を考えると驚異的とも言えるものです。
当時、東シナ海を直接大陸へ渡る船の遭難率は極めて高く、例えば空海が入唐した時の遣唐使船は4隻から構成されたものでしたが、漂流しながらもなんとか大陸に渡りついたものは2隻で、 残りの2隻は行方知らずーおそらく、空海と同じ世代だった青年たちの青雲の夢、情熱を乗せたまま海中に没したのでしょうー、という状況でした。
留学期間も極めて長く、空海の場合は20年の予定で入唐しており、当時の平均的な寿命を考えると、中国に渡るということは、留学生の親にとっては事実上今生の別れを意味していました。
航路の危険や留学期間の長さから考えて、当時の留学生たちは悲壮な決死の覚悟で海を渡ったと想像されますが、空海が残した文章には微塵の暗さもなく、若々しいものばかりです。
空海自身、1200年前の人物とは思えないほど、現代的な印象を与えるのは、普遍的な問題に取り組んでいたからでしょう。
古代ギリシャの哲人が、現代人と対話可能であると言う印象と共通です。
まさに永遠の青春という表現がぴったりで、1200年の光陰を貫き、キラキラと青春の輝きを送り続けています。

次に続く

2015年10月30日金曜日

フォルクスワーゲンのミステリー その3

九份 夜景
 前回、筆者の過去の経験をいささか長々と書きましたが、言いたいことは、要はフォルクスワーゲンの不正と言われるソフトウェアが、現代の通常の品質管理プロセスでは見逃されるレベルでは到底ないことです。
発見はいたって簡単なレベル、「お子様ランチ」のレベルどころか、「おめざ」程度、すなわち朝飯前の段階です。
 では、フォルクスワーゲン社の品質管理レベルが相当に低かったのだろうか?
 それも極めて考えにくいことです。
というのも、この程度のバグが見逃されるというレベルは、ほとんど実用のレベルに達していないと言えますが、この不正以外に特段の品質問題は起こしてないのだから、むしろバグだとみなされていなかった、すなわち、組織として意図的にこのコードを埋め込んでいたと推察されます。
傍証としては、
  1.  この不正が何年にも渡って行われていて、相当の台数にコードが埋め込まれていたこと。バグとして認識していたら、こんなことはあり得ないでしょう。
    組織として、この不正コードを意図的に埋め込んでいたと推察されます。
     
  2.  外部の関連会社がフォルクスワーゲン社に対し、過去にこの不正コードに関し警告を発していた、というニュースは、この不正にマネジメントの関与を強く疑わせます。というのも、マネジメントが、社内調査させれば、至って簡単に発見されるレベルだからです。

 などが、あげられます。


次回に続く、

2015年10月29日木曜日

フォルクスワーゲンのミステリー その2

九份(台湾)
筆者は自動車の開発現場の経験はありませんが、過去に組み込み系の大きなシステム開発に関与していた事があります。
 大規模なシステム開発では、日常的に問題が発生し、べらぼうな数に上る場合があります。
もっとも、筆者が現役で従事していた頃と比べ最近は開発手法が進歩していますし、また筆者が従事してた分野は自動車系とは異なります。
しかし、本質的な部分は、さほど変わってはいないでしょう。

 問題といっても様々であり、簡単なバグから、原因が不明でいついかなる時に起こるかわからず、最後に起きてから2〜3年経ち、もう自然治癒したもの(システムは日々変更されているので、こう言うことは間々あります)と思われたものがある日突然連続して現れたりするミステリアスなものまであります(我々は、そのバグの事を幽霊「ゴースト」と呼んでいました)。
中でも厄介なのが、タイミング関連のバグで、特定の状況下に特定のタイミングの下で発生し、実験室での再現が非常に難しいものです。
こう言ったバグは頻度が極めて低く、例えば、仮に100年に1度しか起こらないとすると、通常の実機テストでは検出はほぼお手上げです。
システムを100年間使い続けようとするユーザーはまずいないので問題ないのではないか?と言えばさにあらず、仮にそのシステムを100万台出荷したとすると、市場では年間1万回発生することになり ー (このようなタイミングのバグの影響はパフォーマンスの劣化以外はマイナーなことが多いのですが、それは別途検証する必要があります)ー 、もしそれが重大事故を誘引するような性質のものであれば大変な事になります。
こう言ったバグの検出はブラックボックス・テストでは絶望的で、ホワイトボックス・テストが必須となります。
また、システムの品質を上げるには、テスト等で潜在バグ率を下げる方法(限りなく0が望ましいのですが、残念ながら完全に0にできないのが、現在の技術水準です)だけでは不十分で、設計技法も重大な問題になります。
問題の影響を局所化するためにタイトなモジュラー設計を行う事はソースコードの品質を向上するためには必須であり、またこのおかげで重点管理が容易になります。
必ず問題は潜んでいるという前提からシステムの多重化をおこなう事もよく行われます。
例えば、平均故障間隔が1万年の独立したシステムを二重化し、同時に故障しなければ安全が確保されるとすると、平均故障間隔は1億年になります(非常にラフな計算で、前提など詳細は略)。
また、フェールセーフの設計も極めて有効で、故障する際は安全側に壊れるよう設計することで、安全性を確保します。
自動車の例では、止まらない車よりも動かない車の方が安全という考え方です。


次号に続く

2015年10月21日水曜日

フォルクスワーゲンのミステリー その1

フォルクスワーゲンの不正事件が世界中を駆け巡ったのは、先月の事でしたが、事象そのものが単純な割には、真相究明には手こずっているようです。
 筆者は、自動車業界にも疎く、ドイツ車とはまったく無縁の生活を送っていますが、ソフトウェアの品質問題や組織論にも関連する事から、いわば野次馬的な興味、あるいは推理小説的興味とも言えますが、そんなものを持っています。

<ブラックボックス・テストの難しさ>

システム製品のテストの難しさは業界でもよく話題にのぼります。
システムが大型化、複雑化した結果、テスト環境の構築が困難になり、テスト項目が膨大(天文学的数字に膨れ上がってきています)になって来ており、一方、実地でのテストに加え、シミュレーション等のテスト技術も進んできてはいますが、分野によっては使えなかったり、実地との乖離が問題になったりして、全体的には補完的、補助的な位置づけと言えます。
また、多くのシステム製品はソフトウェアが組み込まれており、問題をさらに複雑にしてゆきます。(自動車業界では、開発コストの約半分がソフトウェア開発にあてられている、と言われています。)
そして、そのソフトウェアの検査ですが、ソースコードを見ずに検査する方法 ー すなわちブラックボックス・テスト ー は、 極めて難しく、確定的に見極める事が極めて困難です。(文字通り、ブラックボックスです。)
 このようなソフトウェアの性質から、外部のテスト機関が内部の不正を発見する事は極めて困難であり、今回、フォルクスワーゲン側に不正を認めさせるまでに相当の時間がかかった事でも、その事が窺わせられます。

< ホワイトボックス・テスト>

では、ソースコードを見たら、今回の不正が簡単に分かるか?という疑問が湧いてきますが、これは、『いくつか極めて現実的な仮説を置いて』という前提条件付きで、簡単、もしくは決して難しくはないと言えます。
と言うのも、数十年前のコンピュータの黎明期のような頃の、アクロバット的なスパゲッティ・プログラミングが横行し、誰も読めないようなコードが蔓延していた時代とは異なり、安全性などのソフトウェア品質を重視する分野などでは、昨今ではソフトウェアはシステムのおまけ的な位置から、システムのサービス品質(安全性も含む)などを担う中心的な役割に変わってきており、また製品の品質が企業の存亡を左右する重大な関心事となって来ており、品質の問題が、経営者の根幹的な関心となり、トップのマネージメント・チーム、ー いわゆる CEOやCFOから構成されるCグループ内 ー にも品質問題の責任者が置かれるようになってきました。
そして、品質をチェックする部門も、相当強化されてきています。
一方で、最近のシステム開発において、ソフトウェア開発の締める部分が増大し、宇宙航空分野では、総開発費の70%はソフトウェア開発費に割り当てられ、当該自動車分野でも50%はソフトウェアが占めると言われており、ソフトウェアは極めて重要な企業資産となってきており、その機密性も重大な問題となってきています。
すなわち、ソフトウェア品質は企業経営者にとって極めて重大な関心事であり、また同時に、莫大な投資先であり重要な企業資産でもある事から、その機密も厳重に守られており、ソースコードにアクセスできる人員も必要最小限に限定されています。

<ソフトウェアの品質保証>

通例、ソフトェアのソースコードにアクセスできるのは、開発者と品質保証の人間だけ限定されています。
品質を重要視する分野の企業では、品質担当の役員には、極めて強力な権限が与えられており、その代表的な例としては、品質に問題がある製品の出荷をストップする権限が揚げられます。
これは品質が不十分な製品が市場に出てしまうと、企業に取り返しのつかないほどの莫大な損失が発生する可能性があるためです。
また、仮にソースコードがスパゲッティ過ぎてロジックが読めないような場合、ソースコードの劣悪な品質のために品質保証が不可能であるとして、コードの書き直しを命ずる権限も保有しています。(ソースコードの書き方そのものが、品質評価の対象です。)
したがって、先に述べた『極めて現実的な仮説』とは、ソフトウェアが適切な高級言語で書かれ(通常、組み込み系ではAdaかCです)、ソフトウェアコードが品質保証の対象になっている事が重要な条件となります。

<組織的なスキーム>

品質保証スキーム図
品質部門と開発部門は、製品開発の初期から出荷後まで、協働して開発プロセスを続けていきます。
そして、品質部門の同意がない限り、開発は次にのステップに進めない、というのが一般的です。
この詳細な開発プロセスそのものは、組織や、開発分野によって大きく異なり、フォルクスワーゲンの開発プロセスそのものに関しては良く分かりませんが、スキームそのものは、大差ないでしょう。
左図は典型的なスキーム例ですが、開発部門と品質部門が、相互にコラボレーションを繰り返し、品質の問題に関し両者が相容れない場合は、上級マネジメントにエスカレーションして解決を求めます。
そして、最終的に品質担当部門の非同意の決定を覆す事ができるのは、組織のトップ、この図ではCEO、です。
 また、最近では、品質から安全性のみを取り出して別の縦軸を置き、エスカレーション・ラインを3本にするケースもみられます。
管見では、ヨーロッパ人は開発方法論など方法論の議論が大好きで(もちろん、個人ではなく組織のレベルで)、精緻な開発プロセスを設計する傾向がありますが、あくまで一般論であり、今回のフォルクスワーゲン社のプロセスがどのようになっているか、筆者は知る立場にありません。
しかしながら、品質管理スキーム同様、なんらかのしっかりとした詳細な開発プロセスが規定され実行されていただろうと推定する事が蓋然的でしょう。


次号に続く