2013年4月10日水曜日

OCEB講座 第25回 Why BPM?

鎌倉
左の写真は鶴岡八幡宮の源氏池で撮ったものです。
今年は桜の開花が早く、今週あたりが盛りで、ちらほら花びらが舞い始めています。




と、このブログを先週、書き始めたのですが、その後、1週間ほど中断した結果、桜はすべて散ってしまい、今では花びらの一枚も落ちておらず、鎌倉は完全に新緑の風景に変わってしまいました。
花の移り変わりが速いのか、筆者の筆が遅いのか(多分 後者)、もう鎌倉にはこの写真のような桜は残っておりません。

旧日本軍の亡霊

 本日は、以前のプロマネブログでもちょっと触れた事がありますが、現在の日本の組織の問題と旧日本軍の抱えていた問題の相似性について議論したいと思います。
この問題はバブルの頃には既に指摘されており、「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」と言う名著が80年代半ばに世に出ています(今では文庫化され、古典となって読み続けられています)。
この書は必ずしも軍事の専門家ではなく組織論の専門家の方々の手になるものであり、組織の問題を扱う人間にとってはたいへん興味深いものです。

旧日本軍の組織的問題に関して詳しくは上記の書物にあたって頂くとして、このブログでは、30年前にこの書物によって指摘された問題が、(この30年間で日本も世界も大きく変わったにもかかわらず)いまだに何の変化も無く日本の組織を覆っているのか、現代の視点で見てみたいと思います。



2013年3月26日火曜日

OCEB 第24回 Why BPM?


源氏池
前回は、開発部門がドキュメンテーションをモデル化しようとした結果、組織内にコンフリクト(紛糾)が発生し、結果として開発部門が旧来のテキスト形式と新しいモデル形式の2重の作業をしなくてはならなくなった、と言う事例を紹介しました。

コンフリクト(社内の紛糾)に対する態度


世間ではコンフリクトは、組織にとっては往々にして問題児が引き起こす非効率性、混乱と見なされがちですが、最近のマネジメント理論では、『コンフリクトは変化に対して組織内に当然起るものであり、それ自身に大変に価値があるもの』とし、マネジメント・トレーニングではコンフリクトに対し積極的に前向きに取り組むよう教えられるようになってきました。

今回の事例では、開発部門が従来と異なる(モデリング)言語を使用したいと言い出せば関係部署との間にコンフリクトが発生するのがむしろ当然であり、その結果として、積極策としては社内の開発標準やプロセス標準を作ろう、あるいは見直そうと言った改善のチャンスに繋がって来ます。
また組織全体への波及効果を最大に持って行く戦略の策定の引き金にもなり得ます。
事実、例えば品質保証部としては、ソースコード・レベルのテスト(従来の潜在バグ分析とかテストの網羅性(カバレッジ)分析とか言った手法等)だけでは不十分な分野が増えて来ており、要求分析や設計段階での品質チェックがますますその重要度を上げて来ていますが、モデル化はそう言ったレベルでのチェックの大いなる助けとなります。(現実的には、システムの複雑度が増すと、テキスト・ベースでは精度の高いチェックが事実上不可能になってきます。)
モデル・ドリブン・テスト、もしくはモデル・ベース・テストと呼ばれる手法もその一分野です。

ところが今回取り上げた事例では、開発部門は従来の手法と新しい手法の二重化が要求されてしまい、本来生産性を上げるつもりで取り入れたはずの手法が、かえって自分たちの作業負荷を増やすだけの結果になってしまいました。

つまり、生産性を上げると言う目的に対し、その目的を無視し、逆に生産性を下げる手続きを強いられる結果となってしまいました。
 この目的の不在化(あるいは手続きのための手続き化)は、官僚主義が蔓延した組織によく見られる特徴であり日本だけに存在する問題ではありませんが、日本の特殊性は、その目的の不在が常態化し、誰も不思議と感じず、あらゆる組織に(往々にしてそれほど大きくない組織にも)遍在する点です。

経済産業省の調査資料によると、IT活用の効率性は製造業では米国の54%、非製造業では米国の14%だそうです。
逆に言うと、同じ結果を得るために日本はITに対し米国の約2倍(製造業)もしくは10倍近く(非製造業)のコストがかかっていることになります。

日本の製造業の国際市場での存在感の低下傾向(非製造業の存在感は昔から無に近い)と無関係な数字とは思えません。

筆者は、日本のIT投資の非効率さは、モデリング等の技術的な問題を遥かに超え、戦略とマネジメントの問題だと感じていますが、続きは次回に。

2013年3月19日火曜日

OCEB 第23回 Why BPM 6

七里ケ浜
前回は(と言っても随分前になってしまいましたが)、筆者の属する世代の話を書きましたが、これは、一言で官僚主義と言っても国によってその状態が異なり、日本は日本独自の理由で官僚主義に陥り、独自の官僚主義が形成されている事を、他国との比較で議論するために、筆者の世代の相対主義を話の枕にするつもりだったからです。(官僚主義は決して日本の専売特許ではなく、あらゆる国のあらゆる大組織で見られる現象ですが、どうも日本には日本固有の官僚主義がありそうです。)

さて本日は、筆者のまわりの話題から筆者が日本独自と考える官僚主義の具体的な一例を挙げてみましょう。

30年ほど前、筆者はアメリカのソフトウェア関係の開発部門にいた事があります。
当時のソフトウェアの開発部門のワーキング・スタイルは、日米にそれほどの差異はなく、製品開発は基本的にアセンブラ言語で生産性は高くなく、非常に多くのプログラマや設計者が長期間に渡って1つの開発プロジェクトに携わり、毎朝会社に来て長時間に渡る会議の合間に設計やプログラミングをし、カフェテリアで同僚達と雑談を交わしながら昼食を摂り、夕方になると帰宅していました。
そして、それから時は流れ、かつての同僚達の職場は随分変わりました。
職場に開発ツールが導入され、多くのエンジニア達は在宅勤務となり、ツール上で開発やテスト、そしてコミュニケーションを行ない、人それぞれのワーキング・スタイルを取って働くようになりました。また人数的にも少数精鋭になって来ました。
方や我が日本の方は、ソフトウェア開発の現場に開発ツールを導入して生産性を揚げようとする意識が薄く、またワーキング・スタイルも30年前とほぼ同じ状態を続けていますが、ツールやワーキング・スタイルは本日の議題ではありません。
日本の開発現場でも最近になってようやくモデリングが普及して来て、ある会社ではドキュメントがモデリング言語で書かれるようになった開発現場も増えて来ました(多くはドキュメントの品質向上を直接の目的にし、最終的な生産性向上を狙っての措置です)。
ところが開発部門がプログラミング作業の一部を外注に出す段になって、購買部が、外注先がそのモデリング言語が読めるにもかかわらず、購買部で外注先を管理する手続き上、従来の設計書式で提出するよう要求され、開発部門では仕方なく、設計を昔の方式に書き直したそうです。
これに似たような話は他でも聞きます。 品質保証部が新しい設計図が読めないから(あるいは自分たち使用している品質メトリックスに合わないから)、昔の設計手法で書いてくれと要求して来たと言う話もあります。
これらの話に共通するのは開発部門はそれらの要求を受けてわざわざドキュメントを従来の方式に書き直し、それを変とも不思議とも感じない点です。
サポート部門が開発部門の生産性を下げているのですが、長年に渡ってそんな状態が続いた結果、サポート部門の役割は開発部門の邪魔をする事だと、思い込むに至ってしまったように思えます。









2013年1月30日水曜日

OMG+IPA ジョイントセミナーのお知らせ


巻向遺跡(邪馬台国?)
来る2月15日午後一時より、OMGとIPAのジョイントセミナーを開催致します。
筆者も講演者の一人として、主にSysMLの標準化の話題と、超大規模システムへの挑戦と題し、分散リアルタイムシステムとフォールト・トレランス・システムの統合戦略のお話をする予定です。
OMGでは、システムの物理的側面に焦点を当てたシステム・モデリング(SysML) のアプローチと、論理的側面(ソフトウェア)に焦点を当てたアプローチの2つのグループが存在しております。
2つのグループが必ずしも仲が良いわけではないのですが(笑)、お互いに他のアプローチの必要性は認め合っています。
特に 超大規模システムと呼ばれる分野では、システムが極めて複雑怪奇になって行き(怪奇は筆者のペンの走り)、システム特性の大部分がソフトウェアに依存する状況となった今日、システム設計者はソフトウェア工学の知識が必要であり、ソフトウェア設計者はシステム工学の知識が必須(これはソフトウェア工学の誕生時からそうですが)です。

また、分散リアルタイムシステムと、高信頼性を実現するためのフォールト・トレランス性は、従来、別々に論じられて来ましたが、超大規模システムではそれぞれの要件を同時に満たす必要があり、それらを統合するアーキテクチャ・ワークが行なわれて来ました。
筆者の講演では、その統合戦略とアーキテクチャの設計思想を議論したいと思います。
複雑度の高い(あるいはソフトウェアへの依存度の高い)システムの設計者や、ソフトウェアのアーキテクチャ・ワークにご興味をお持ちの方は、下記リンクから、お申し込みください。

セミナー案内・参加申込み: 
 高信頼システムを実現するシステムズエンジアリングとシステムアシュアランス





2013年1月5日土曜日

OCEB講座 第22回 Why BPM 5

東大寺 大仏殿
筆者の世代は、20歳代で冷戦時代&バブル時代(1980年代)、30歳代をポスト冷戦&バブル崩壊過程(1990年代)の中で過ごしましたが、この時代変化は多くの人々に物的精神的両面に多大な影響を与えた事は事実でしょう。

80年代になると円高や好景気を背景に、日本人が海外で働く事が一挙に一般化しました。
70年代以前は海外勤務と言うのはまだ珍しく、限られた人々だけのものでしたが、80年代以降、いわゆるエリート層だけではなく普通の人々ー大衆が海外勤務に就く事になりました。
この流れはその後途絶える事なく現在に続きます。
 筆者も20代の頃アメリカで働いたことがありますが、そこでアメリカを発見する事になりました。
今の時代に「アメリカを発見」と言う言葉は大げさに聞こえるかも知れませんが、実際、冷戦下の日本のマスコミはやたら社会主義、共産主義を礼賛する傾向が強く、ソ連や文化大革命などを賞賛したりする一方、日本やアメリカを強く批判し、 海外の情報が相当に歪んだ形で国内に伝わっていました。
日本独自の見解を持つ事は大切ですが、国外の情報を正しくつかむ事も同じぐらい重要です。
 当時のマスコミが伝えるアメリカ像も相当に歪んだものであり、筆者も現実とのキャップに驚かされた一人でした。
 そしてアメリカを発見する以上に日本を発見することになります。
 アメリカで生活をする上で自分の内なる日本人を意識せざるを得ず、また海外から見る世界の中の日本と言う視点も日常的に加わります。
こういった体験は明治時代は国費留学生等のエリートだけのものでしたが、80年代には筆者のような一般大衆のレベルのものになって来ました。
かつてエリートだけが海外渡航していた時代には、相対的な日本観を口にする事は極めて危険な行為であり、「アメリカでは ・・・」とか「おフランスでは・・・」と言う発言は誤解を呼びやすく「西洋カブレ」とラベルを貼られたり、組織の中で浮いてしまい攻撃を受けたりするリスクが非常に高かったのですが、相対的な日本観が大衆化した今では、世代にもよりますが、かなり普通になって来つつあります。
 とは言え、21世紀の現代でも筆者などが海外事例の話をしていたりすると、『西洋カブレ』に類するような批判を受けたりする事がたまにあるぐらいですから、かなり根深い感情です。
 ちなみにこのような批判に直面した場合、筆者などは苦笑するだけであえて反論をしません。
理由として大きく2つあり、1つは、事実として筆者自身、相当に「西洋カブレ」している点です。カブレかたもかなりひどく重度の重傷であることを認めざるを得ません。
もう1つの理由は、「西洋カブレ」と批判する御本人が筆者に負けず劣らず相当にカブレている事です。
つまり、猫がほかの猫から猫顔を批判されているようなものであり、猫顔を批判する猫と批判される猫の違いは、鏡を見た事があるかないかの違いです。

言い換えると、我々の世代は、大衆レベルで多くの人が日本を外から見るチャンスを得始めた嚆矢と言えます。
筆者の世代では、決して多数派とは言えませんが、一定の割合で海外勤務の経験者が増えて来ました。
統計的な数字は持っていませんが、個人的に学生時代の友人を考えると6割以上が海外勤務の経験を持っており、 中には通算して国外にいる時間の方が長い人もおります。
場所も欧米だけではなく、様々な国に赴任しており、筆者の親戚の中には、南米のチリで南極のペンギンと一緒に撮った家族写真を送って来たかと思うと、次の年には極北のロシアから年賀状を送って来た人もいます。
 着実に、日本社会の中に日本を外から眺める機会があった人の割合が増えて来ていると言えるでしょう。

2013年1月1日火曜日

OCEB講座 第21回 Why BPM 4

謹賀新年 
前回のブログで、昔は週刊誌が「今年の新入社員は〇〇世代だ」と1年ごとに世代を命名していたと書きましたが、改めて今思い返すとそれも無理からぬ現象と納得できる点があります。
というのも、筆者の少年時代を含め戦後の日本は1990年前後ぐらいまでは、世界史上の大波にもまれながら激変していたからです。
その反動かどうか、90年以降の日本は世界の変化に抗しながら独自路線を走り出した時代と言うことができると思います。

第二次世界大戦終了以降、今の日本社会に最も深い影響を与えた出来事は冷戦とその終結であったと思います。
経済的にはバブル経済とバブル崩壊が直接的でしたが、これは冷戦終了の前後に日本に咲いたあだ花であり、冷戦と表裏一体のものだと筆者は見ています。
 敗戦後、経済的に目覚ましい復興を遂げた国は日本と西ドイツの二国でしたが、両国民とも国のリーダーシップに問題があると言う共通の欠陥を持つものの、技術的工業的なポテンシャルが極めて高かったのは事実でしょう。
そして、両国とも戦後その技術力を買ってくれる自由市場を手に入れることができました。

日本は戦後西側陣営に組み入れられましたが、同時にアメリカ市場への自由なアクセスを手にすることができました。
当時の市場規模感は、(激しく変動する為替レートに振り回されるため) 数字で言うのは難しいのですが、昔ネットワーク機器のマーケティングに従事していた時の感覚で言うと、80年代のコンピュータや通信機器の市場規模は、日本市場を1とすると、アメリカはその10倍以上、アジアで日本に次いで大きかったオーストラリア市場でも日本の10分の1程度で、韓国や台湾、その他のアジア市場にいたっては日本の地方都市程度であり、海外市場=アメリカ市場と言っても過言ではありませんでした。
従って、日本の戦後の急速な復興からバブル経済までを支えた日本の輸出産業の主要市場は北米であったと言えます。
80年代、筆者はアメリカに住んでいたことがあるのですが、当時のアメリカは双子の赤字(財政赤字と貿易赤字)やスタグフレーション( 景気後退とインフレーションの同時進行)に悩まされ非常に不景気でしたが、それでも日本の対米輸出は増加の一途でした。
たとえ話で言うと、北米市場と言うリングの上で、日本と西ドイツがアメリカをコーナーに追いつめボコボコに殴っている状態でアメリカは「もう勘弁してくれ」と言っているのですが、西ドイツは少し手を緩めたのに対し、日本はそれでも殴り続けていたので、アメリカはとうとう切れてしまい靴底からナイフを取り出して日本を脅しはじめた(少なくとも日本から見ると反則ワザ)、と言う状況でした。
 対日感情も悪化を続け、いわゆるジャパン・バッシングの状態でしたが、 反日暴動があったわけでもなく、まわりには親切な人も多かったので、個人的には至って平穏無事でした。
また、何と言っても強い円のおかげで、日本円でもらう給料が同じぐらいのレベルのアメリカ人労働者よりも高く、またインフレとは言いながら、日本に比べると農産品を中心に物価が極めて安いため(食材だと4分の1から3分の1程度)、結構快適に暮らしておりました。

(続く)



2012年12月28日金曜日

OCEB講座 第20回 Why BPM ? 3


 昔読んだ随筆の一節ですが、アメリカの大学で政治史を教えているある先生が「今」が「昔」になった瞬間について次のように書かれていました。

『「今」の連続がいつの時点で昔となり歴史学の対象になるかは教師の間でも時々議論になるが、大学の教師として「今」が「昔」になったと感じる瞬間は、例えば第二次世界大戦は我々の世代では「今」の問題だが、新入学の学生達の大部分が戦後生まれだと気づいた瞬間に、一挙に時が流れ去って行ったことを感じる。』
(注: 記憶が曖昧で、大体このような文書だと思います。)

20年間前後を子供や学生として過ごし、ある程度共通の教育や時代を過ごし新たに社会人となった集団にある一定の共通性を見いだすことは、よくあることです。
筆者が学校を出た頃は、どこかの週刊誌が毎年、今年の新入社員は「〇〇世代」だと命名していて、筆者の世代は確か「新人類世代」と名付けられましたが、時は流れ、今現在、我々の世代がその共通性を維持しているか?と言うとかなり疑問です。
子供時代、学生時代よりも既に長い年月の職業経験を経た今、学生時代の共通体験よりも、それぞれの職業体験の特徴の方が遥かに前面に出ています。
筆者の学生時代の友人の中にも、日本の企業に長年務めている者、何をしてるのかよくわからないが東南アジアに住み着いている者、役人になった者、山小屋をやっている者、外資系でジョブホッパーをしている者(筆者を含む)等々、人それぞれ様々なタイプがいますが、学生時代に見られた共通性よりも学校卒業以降の職業時代の影響が強く、考え方、物の見方もかなりバラバラです。
では、世代的な共通性が皆無かと言うとそうでもなく、昔週刊誌がやっていたような1年単位の世代差は意味がありませんが、前後10年ぐらいの幅で職業人として同じ時代を共有したと言う点で、ある程度の(大局的な、あるいは大雑把な)共通性があるように思えます。

 (続く)