2019年2月26日火曜日

10分の1の法則 その4

SysML初級講座 第28. 要求の関係 «deriveReqt» 派生要求をアップしました。 → リンク

Jeep Wrangler


30年ほど前の大型コンピュータは、アジアや欧州の国々に比べ、日本は特別に高価格に設定されていたわけですが、このことについて、筆者は、当時、次の2点、ー すなわち (1.)市場のベンダーに対する高い要求レベルと(2.) 日本法人の非効率な高価格体質 ー が主な原因である、と考えていました。

1. 市場が要求する高いサービス・レベル


これは自動車などにも共通して見られる現象で、車の例で言うと、往々にして日本市場は他国に比べ、ディーラーに対する要求レベル、依存度が高く、顧客がやったほうが安くつく簡単な作業であってもディーラーに頼む傾向が強く、保守・修理もディーラー任せとなり、頼られた側も(自己防衛的な理由もあって)過剰保守・過剰修理になりやすく、結果的に高い買い物になる傾向にあります。
車のオーナーの技術不足、関心不足の為に、高い買い物をすると言う構図は、決して車だけの問題ではありません。

また、特定の国だけ値段が高い ー あるいはアップリフト率が高い ーという状態は、決して秘密でもなんでもなく、各国の価格表や見積書を見比べれば簡単にわかる事でした。
当時のIBMは、独禁法の関係もあり、極端な値引きをして会社の体力まかせに、ー つまり会社の規模を利用してー 力まかせに案件を強引に取って行くと言う手法はご法度であり、どこの国でも定価販売、もしくはそれに近い状態で商売していました。
従ってグローバルな外資系顧客(当時の流行りの表現で言えば、多国籍企業)の中には、並行輸入品を使っている向きも多かったと思います。
その最たる例が米軍であり、ご存知の方も多いと思いますが、米軍内では「クロネコヤマトの宅急便」並みの(?)宅配サービスを兵站本部(か参謀本部)がやっており、どこかで安く仕入れたり、鹵獲(ロカク)してきたりした物(?)を大量に日本に持ち込んで使っておりました。
その場合、保守サービスだけは日本法人がやっておりましたが、保守サービス部門は独立採算であり、そんなバッタもんでも喜んでサポートしておりました。
このような保守サービス政策(ポリシー)は、大口顧客の大半を占めるグローバル企業(多国籍企業)のニーズに合致し、また中古価格の維持にも役立っておりました。
このような状況にあっても、当時既に多国籍化していた日本企業の間でも並行輸入品の利用はさほど進まず、中には ー 非常に印象に残っている例ですが ー、日本で買って、わざわざ海外に運んで使うと言う例もあったほどの状況でした。

(続く)

    2019年2月16日土曜日

    10分の1の法則 その3

    ジープ・チェロキー 2ドア
    前回は、「30年前の大型コンピュータの価格には、SEサービスが上乗せされていた」、と書きましたが、このこと自体は当時、世界共通であって、日本の価格にだけ適用されていたわけではありません。

    特定の地域向けの商品は別ですが、商品の大部分は世界向けであって、それらの価格は米国での価格が基本になっており、大体次の式のように算出していました。

    現地価格 = 米国価格 × 為替レート × アップリフト率

    例えば、米国で100万ドルの機械をオーストラリアで売った場合、現地での価格は、為替レートを仮に本日のレート(1.40 米$/豪$)を使いアップリフトを120%とすると、

    100万 × 1.40  × 1.20 = 168万 豪ドルになります。

    実際には、為替レートは日々の時価を使うのではなく、会計年度ごとに一定のレートを固定して決めておき、製品価格だけではなく、子会社間や子会社ー親会社間のすべての取引に用いられるレートであり、例えば日本法人(子会社)の工場が製造した部品・製品をオーストラリア法人(子会社)へ輸出した場合のコスト振替もこのレートが用いられおり、大体のところ、実勢レートに準じた値を使っていたと思います。
    そして、曲者(クセモノ)はアップリフト率であり、これは海外取引に伴うコストやリスクを勘案した割増率であり、対象の国や対象の製品の性質によって異なるのですが、実際のところ、オーストラリアを含むアジア太平洋州や欧州(ヨーロッパ)のほとんどの国は120%程度だったのに対し、日本だけは160〜190%ぐらいあり特異的に高かった記憶があります。
    この日本のアップリフト率は、概ね大型機ほど高く、また時期によって異なっており、昔はもっと高かったと言われておりました。

    (続く)

    2019年2月9日土曜日

    10分の1の法則 その2

    ジープ・チェロキー
    先日、知り合いのオーストラリア人と日本人が盛んに内外価格差の話をしており、筆者も興味のある分野だったのでついつい会話に引き込まれてしまいました。

    彼らは主に通販サイトでの日豪間の価格差を盛んに議論していました。
    ぐたぐたを端折って、長い話を短くすると、「労働者一人当たりの賃金はオーストラリアの方が高いのに(つまり人件費などはオーストラリアの方が高くつくはずなのに)、なぜ、日本の方が価格が高いのか ?」と言う議論でした。
    もちろん、オーストラリア製はオーストラリアで買う方が安く、日本製は日本で買う方が安いはずなので(そうでもないケースも結構あるようですが)、そう言うものは除外して、どちらで買っても同じものが手に入ると言うような商品に話を限定すると - 自ずと家電などの工業製品が比較の中心になりますが - 、 ほぼ日本で買う方が割高だと言う話でした。

    筆者は、この話をしているうちに、今から30年ほど前、1980年代後半の頃の内外価格差の状況を思い出して来ました。
    当時は、日米貿易戦争が真っ盛りで、米国政府は盛んに米国製を買えと日本政府に迫り、日本側は米国製の日本国内での価格が割高だ(内外価格差)と応酬し合っていた状況でした。

    参考までに言うと、当時筆者は中古のジープ・チェロキー(米国製のSUV)に乗っていたのですが、このアメ車は日本国内では米国内の価格の倍近い値段で販売されておりました。
    と言うわけで、筆者は中古にしか手が出せなかったのですが、車の部品代も日本国内の正規品は非常に高く、ブレーキ・パッドなどの消耗品も、現在のように簡単に通販で手に入る時代ではなく、米国出張の際に向こうの車屋で買い求めて、空港で重量オーバーにならないかヒヤヒヤしながら - 車の部品は値段の割に結構重い - 手荷物と一緒に運び込んでいた状況でした。

    当時、筆者は米国のコンピュータ会社の通信製品のマーケティングの仕事に従事しており、社内では内外価格差に関する調査委員会のようなタスク・フォースが作られていました。
    と言っても、当時は製品マーケティング部門に製品価格の決定権は事実上なく、プライサー(Pricer)と呼ばれる財務畑の人間が決めておりました。
    その重要な要因の一つとして、当時、保守サービス料やソフトウェア使用料は既に別立てに課金されるようになっておりましたが、SEサービスは分離課金されておらず製品価格に上乗せの形になっていたことが挙げられます。(SEサービスが分離課金されるのは90年代以降です。)
    当時のコンピュータは今と違って、店頭に並べておけば顧客が勝手に選んでレジに持っていくと言うスタイルではなく、売るためにはSEの力が極めて重要でした。
    大型案件ほど、営業ではなくSEが売っていると言う状況になっていましたし、もちろん、販売後のSEサービスも極めて重要で、販売後に費やされたSEサービス・コストも製品価格に反映されてゆきます。
    そして、そのSEサービスのコストは年々増加してゆき、製品価格にしめる割合がどんどん増え続け、製品の開発・製造コストなどの直接コストは重要ではあるが、製品コスト全体の一部に過ぎないと言う状況になっていました。
    そう言うわけで、筆者などは開発コストなどの製品コストや競合他社の市場価格などのことをタスク・フォースのメンバーからもっぱらヒアリングされる立場でした。
    (続く)


    SysML初級講座 

    27. 要求の関係 «Satisfy»

    アップしました。 アクセスはこちら→

    2018年11月28日水曜日

    SysML初級講座の更新とLuciferサイトへの移行作業完了のお知らせ

    秋の日本庭園

    SysML初級講座 「第21回 テキストからパラメトリック図への変換 ② 」をアップしました。



    アクセスは→こちらまで。


    また、過去のSysML初級講座の投稿は全てLuciferサイトの「SysML初級講座コース」へ移行しましたので、バックナンバーをご覧になる方は、そちらの方へアクセスしてください。

    講座のアップ情報は、更新のつど、このプロマネBlogにてお知らせします。

    追加情報:



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    2018年8月11日土曜日

    グローバル化と英語 その7 日本の英語教育

    自転車で30分ほどの場所にある池
    先月あたりから、パソコン(古いMacBook Airを愛用)の調子が悪くなり始め、最初のうちは騙し騙し使っていましたが、そのうちに症状が悪化してゆき、今ではまったく立ち上がらなくなってしまいました。

    文字入力だけなら、どこからでも入力できるので別のパソコンから書いていますが、SysML図を書く描画はこのMacに導入してあるツールに慣れ切ってしまっており、このMacの運命が決定するまで、SysML講座は中断してしばらくは他のことを書いて行きたいと思います。
    現在、故障の原因かも知れないと思われる部品(内臓キーボード)を、米国や中国のサイトで探しまわり、ようやく中古部品を見つけて取り寄せ中ですが結構時間がかかりそうです。
    部品交換で治ることを期待していますが、症状から見て、あまり楽観できない状態です。

    と言うわけで、SysML図が不要な話題として、本日は英語の話を書いて見たいと思います。
    日本人が一般的に言って英語が苦手であることは日本人自身だけでなく、アメリカ人にも広く知れ渡っている観があります ー 別段難しい話ではなく、日本人と接したことのあるアメリカ人なら恐らく最初の数秒でその不得意さに気が付くでしょう。 
    以前に紹介した世界の英語話者の推計数20億人には、その推計方法を見てみると日本人の英語話者の数がまったく含まれていませんが、推計した人は、きっと日本には全体の推計値に影響を与えるほどの数の英語話者はいないと踏んだのでしょう。

    筆者は英語教育について語る資格などまったくありませんが、個人的な経験を通じて思うところを書いてみたいと思います。
    外国語学習は、母語に似ている言語、同一の語族(英語はインドーヨーロッパ語族であり、アルタイ諸語である日本語とは系統がまったく異なります)に属する言語ほど上達が早いとよく言われており、それは母語の発音や語彙、文法知識が外国語学習に利用可能であるからであって、日本語話者にとって英語は関係性が極めて隔絶して遠く母語の知識がほとんど利用できないために、学習に非常に時間がかかります。(逆も真であって、英語話者にとって、日本語はアラビア語などと並んで会話能力の習得に最も時間がかかる言語(最難関言語)とみなされているようです(米国外交官養成局(FSI)の資料)。
    この最難関という判定は、会話能力の習得に必要な時間だけの比較であって、日本語の漢字などの読み書き能力を獲得するにはさらに長大な時間を要するであろうことは容易に想像できます。
    しかしながら、日本と同様に英語と言語距離が遠い他の東アジア出身の留学生と比べても、日本人学生の英語は飛び抜けて出来が悪いように思えます。
    これは、よく言われる英会話能力だけでなく、読み書きの能力も含めて大きな落差を感じます。
    特に英作文能力に隔絶した差があるように思えますが、英文の理解能力(英文を英文として翻訳せずそのまま理解する能力)も差があり、日本学生が優れているのは理解した英文を日本文に変換する(翻訳する)能力と実用的でない ーすなわち会話にも英作文にも使えないー 英語知識に限定されるような気がします。
    日本の学生が、日本文への翻訳が卓越して上手いというのは、英語力が卓越していると言うよりも日本語ネイティブである事の要素がはるかに効いているからでしょう。
    恐らく、英会話能力と、英作文能力や英文理解能力に極めて強い密接な(相互依存的な)関係があるからではないかと推察します。

    多くの東アジアの学生も学校教育を通じて英語を学んできており、日常生活で英語が必要な環境に育ったわけでもないのに、日本のいわゆる受験エリートの学生よりも英語がかなりよくできます。

    個人的な経験を言うと、筆者の世代は、灘高であろうが開成出身であろうが、どんな受験エリートであっても、中学ー高校と英語学習にそれなりに時間をかけたにも関わらず、大学入学時点での英語はかなりひどい状態でした。(入学後 ーそして往々にして卒業後ー 必要に駆られて英語を初歩から再学習する羽目に陥ります。ただし、ごく一部の帰国子女や語学オタなどの例外は別です)。

    他国の学生も日本の受験エリートも、基本的に学校の評価基準に沿って語学の学習を進めて行く所は共通しています。
    これは、自分勝手な評価基準で進めると、途中で中間基準を満たすことができなくなって落第したりするからです。
    そして、日本の評価基準(ペーパーテスト等)で最高レベルの点数を取ったグループ ー 受験オタ もとい受験エリート ー が、大学入学後に、英語力において悲惨な状況を呈するのは、筆者は、日本人に英語の才能が根本的に欠けているからではなく、評価基準そのものの方に重大な欠陥があるからではないか、と強い疑惑の念を抱いております。

    筆者は、CBT(Computer Based Test)の試験問題の作成などを通して、ある程度ペーパーテストやCBTの利点、問題点などを経験することがありました。
    ペーパーテストやCBTも他の評価基準と同様、評点と実践能力の間に強い直線的な相関関係があることを理想とすることは共通しています。
    英語で言えば、英語でバリバリ仕事や勉学で成果をあげる人が、高得点を取るような英語テストが理想的です。(逆もしかりで、高得点を取った人が英語を実践的に使えると言う条件も満たす事が求められます。)

    このような試験問題を作成するには、ある程度の統計的処理が必要ですが、語学分野は、強い制約条件付きながらある程度まではCBTでも実現が可能であるとみなされてきています。

    これには、問題ごとに追跡調査を行い、高い実績をあげる人が高い正解率を取るような出題を残し、相関関係の薄い出題や逆相関の問題を削除して行って、新規の問題と入れ替えていく作業が必要となります(問題は受験生を通して外部へ流出していくリスクを常に抱えており、常に同程度の難易度を維持しながら更新されていく必要があります)。
    AI技術などが取り入れられていない従来型のCBTでは、英文理解力やヒアリング能力のテストは行えますが、英作文や発音のテストは実現困難で通常は含まれていません。
    この問題は、人間本来の能力の間には強い相関関係を呈示する分野があり、CBTでは、その相関関係を積極的に利用して構成しています。
    例えば、発音能力とヒアリング能力の間には、あるレベルまでは、強い相関関係があり、ヒアリング能力が高い人は概して発音も正しい傾向があるということで、発音のテストを省略しても、ある程度までは有効な指標であると看做されます。
    人間は構造上、自分の発音を自分の耳で聞いて、その良否を聞き分けて自分の発音を修正する機能が、元々備わっています。
    同様にして、英作文能力や語彙力は、あるレベルまでは読書量との相関関係が強く、その読書量は英文理解力と強く相関しており、英文理解力のテストだけで、ある所まではそれらの能力を測定することが可能であると考えられています。

    しかしながら、発音や英作文能力を重要視する分野では、CBT以外のテストを計画する必要がありますが、その場合でもCBTが無駄にはならず補完的なテストとして有効な測定方法になりえます。

    CBTに関しては、高度な実績を上げるために必要な自主性、創造性、忍耐力等々の行動科学的特性等がまったく評価できないない等の問題がありますが(ペーパーテストもほぼ同様の欠点があります)、少なくとも実績を上げるための必要条件を満たしているかを測定することは可能であると考えられてきています。
    テストが十分条件でないことは、むしろ自明でしょう 。CBTやペーパーテストに限らず、テストというのは、人間と言う複雑な存在の持つ複雑な能力のある一側面を測定した結果に過ぎません。
    つまり、英語である程度の高評価を得た日本人学生の大部分が、英語をまったく実用的に使えないと言う問題は、日本人学生の能力が、これらの各能力間に通常、人種や文化を超えて見られる相関関係を超越した型破りのパターンを示している、と言うわけではなく、評価基準の方に重大な欠陥があると筆者は考えます。
    例えば、大学入試の英語の試験をSATのそれに置き換えただけで、受験生はより実用的な恩恵をこうむることができると思います。(当然、教育課程もそれに沿った形に修正する必要がありますが。)

    と、ここまで書いてきましたが、 日本の英語教育が実用性を著しく欠くことは、別にCBTを持ち出さなくとも、相当古くから言われており、かつ強く実証されてきたことです。
    少なくとも筆者が子供時代には既に言われていましたし、おそらく、日本中を米兵が闊歩していた昭和20年代には判っていたと思います。

    根本的な問題は、日本社会が豊かになり国際化が浸透して来た時代になっても、それを改めようともせず放置してきたことの方でしょう。
    この問題は、一種の教育のガラパゴス化の問題であり(英語力に関する日本固有の評価基準など)、そして、その原因が日本人の英語力の低さであり、かつ結果であるという点が、長年に渡る英語教育の停滞を象徴しています(英語における低学力の再生産サイクル)。
    普通に考えると、ガラパゴス化と言うのは、外部からの情報が遮断された環境下で起こりやすく、そう言う意味では、外国語教育はガラパゴス化が最も起こりにくい分野だと思われがちであり、案外な思いがします。

    2018年7月2日月曜日

    グローバル化と英語 その6

    葵祭
    前回のブログでは、「グローバル化は、我々、非英語圏に属する国々にとっては、対応さえ適切であれば、決して悲観的に感じる必要はない事態」であると書きましたが、確かに対応は容易ですが(世界的な時代の潮流に乗るだけですので)、そこには大きなリスクが潜んでいることも認識しておく必要があるのは確かです。
    特に日本の場合、現状を見ると、リスクは極めて高いと言わざるをえません。

    そのリスクとは「母語の喪失」のリスクです。
    ヘレニズム世界でも、ギリシャ語の共通語化の陰で、消えてしまった言語も多くあると言われています。

    日本人は、伝統や文化を愛する気持ちが人一倍強いと言われており、各地でその保護活動が盛んにおこなわれて来ていますが、その一方で、伝統文化に対する破壊活動を強力に推し進めている勢力が存在するのも事実です。
    ここ数十年間で、多くの地方から方言が消滅して来ており、また方言ではなく別系統の言語ですが、アイヌ語の母語話者も激減して来ていると聞きます。
    ユネスコの消滅の危機に瀕している言語のリストによれば、

    極めて深刻であるもの: アイヌ語
    重大な危機: 八重山語(八重山方言)、与那国語(与那国方言)
    などが挙げられ、続いて危機に瀕している言語として、沖縄語(沖縄方言)や八丈語などの島嶼部の言葉(方言)が並びます。

    この問題は実は周辺の島々だけではなく、本州でさえもまともに言葉が残っているのは関西の一部地域だけであり、地方だけではなく、首都直下の江戸の江戸弁も聞かなくなってしまいました。
    筆者は関西生まれですが江戸の落語は好きで、若い頃から関西弁には全くない、軽妙で洒脱、いなせで都会的な江戸弁の語り口は、羨ましく、大好きでしたが、最近はほとんど聞けなくなってしまいました。
    江戸の落語家も、標準語なまりの、ー そんな言葉がなければ、標準語くさい ー 語り口になってしまい、江戸の放送局も、ニュースだけならまだしも、芸能番組もモールス信号のような文化不毛の標準言語で交信しているだけです。

    言うまでもないですが言語は最も基本的な伝統であり文化です。
    歴史的に見ても、その言葉が喋れなくなって、その民族がなくなった例は山ほどあります。
    ヘレニズム世界において、言語を失った民族の多くは、その後の歴史の中で、アイデンティティも消滅しています。

    現代日本に渦巻く、標準語の蔓延 ー すなわち言語文化の軽視・無視は、最終的には、英語が便利だからと簡単に日本語を捨ててしまう風潮を生み出す要因につながります。

    アメリカ史を見ても、欧州からさまざまな民族が流入し、かつては英語以外にも仏語、独語等々いくつもの言語が喋られていたことがわかりますが、建国の過程で、多くは実用的な理由で、英語以外の言語が捨てられてしまい、同時にそれらのアイデンティティーも失ってしまいました。

    2018年6月30日土曜日

    10分の1の法則 その1

    あこがれのIBM PC
    Photo By Ruben de Rijcke - http://dendmedia.com/vintage/
       筆者が1980年代にIBMに入社した頃は、会社は既にコンピュータ業界の巨人としてその独占的地位を確立していましたが、その製品力は、一人のプロダクト・マネージャの立場で内部から見た場合、そのピークはとうに過ぎてしまっていて、完全に営業力、特にSEの力で売っている状況に映りました。


    プロセッサー装置(パソコンで言うCPU部分)の競争力はともかくとして、通信機器や印刷装置(プリンター)などの周辺装置などは、徐々に競合ベンダーにシェアを奪われつつあり、その中で最も手ごわい強敵が富士通や日立と言った日本の互換機(IBM機のソフトがそのまま動く機械)ベンダーでした。

    当時、開発部門の古参の人に聞いた話では、IBMは元々機械式の会計機のメーカーだったので、プロセッサーなどの電気製品はともかくとして、ギアとかカム、シャフトと言った機械装置の製造技術には定評があり、例えばIBM製のタイプライターと言えば泣く子も黙るほどの風格と権威があり、重要な契約書は必ずIBM製タイプライターで打つと言われたほど、その印字の美しさと信用力は際立っていたそうです。
    そして、プリンターもその印字品質、印刷速度とも機械式の時代にはトップに君臨していたのですが、電子式の時代の到来とともに、徐々に凋落の道をたどることになります。

    通信機器分野では、各国の個々の通信事情への対応が信じられないほどに遅く、売れるとか売れない以前に、つながる・つながらないのレベル、あるいは通信コストが、高いとか安いとか言うオーダーを遥かに超越した存在、等の理由で、同じように凋落の途次にありました(厄介なことに、本部はその事実さえも最後まで認めようとしませんでしたが)。

    最大の原因は、やはり、上述の通信分野に端的に示されるように、社内のあらゆる分野に蔓延していた官僚主義、大企業病と言うやつで、のちにアメリカ市場最大の赤字を出した時は(確か90年ごろ)、巨体の割に脳みそが3グラムしかない恐竜に喩えられ揶揄されていました。
    後年、アップル社の創業者スティーブ・ジョブズが当時のIBMの経営者を、「スマートで雄弁な素晴らしいセールスマン、しかし、自分の製品のことは何も知らない。」と評していましたが、ジョブス氏が、いかなる意味でそう表現したのかよく知りませんが、個人的には彼の評価に妙に納得していました。
    筆者の目には、当時の経営者は、製品を単に数字でしか見ておらず、そして、その姿勢がマネジメント全体に蔓延しているように映りました。

    しかしながら、IBMが最初からこのような状況だったわけではなく、先ほどの古参の人によると彼が入社した60年代の頃のIBMの開発部門はテクニカル・バイタリティーに溢れ雰囲気は随分と違っていたそうです。

    IBMのコンピュータ揺籃期


    そのころは、開発エンジニアが、社長であるトーマス・ワトソンJr.へ自分のアイディアを売り込みに行き、社長が気に入れば、ポンと開発費を出すと言うスタイルがむしろ常態だったようで、その結果、社内には機能や位置付けが重複し合う開発プロジェクトがいくつも乱立していました。
    そして、開発が終わってもすぐには製品として売り出されるとは限らず、社内で内部ツールとして使いながら競争させ、勝ち残ったものだけを外部に製品として売っていたようで、大体のところ10あるうちの1つぐらいしか商品として世に出なかったようです。
    開発期間中よりも、むしろこの社内ツールとして使っている期間が、製品を育てる、円熟させる上で非常に重要だったようで、一旦、社内競争で敗れ商品化されなかったものが社内ツールとして使われ続け改良を加えられた結果、再度社内競争に挑み商品化され、一旦社内競争で敗れた先行製品を遥かに凌ぐ営業成績を上げる、といった事態も珍しくありませんでした。
    開発拠点も米国内だけではなく、海外にも増え始めた結果、開発拠点間の競合も激しく、重複する分野・製品群を巡ってしのぎを削っており、この社内競争の激しさが会社の製品力の向上の源となっていました。