2021年11月2日火曜日

世界標準と日本語 その3

 10分の1の法則(13) & グローバル化と英語(10) 合併号 

 

本ブログで取り上げたいテーマ「世界標準と言語」の話をする前に、ちょっとだけインターネットの歴史を見てみましょう。
 

インターネット・プロトコル(TCP/IP)台頭の前夜

OSIの熱が冷めた後、市場は一挙にインターネットへと行ったかと言うと、そうはなりませんでした。

インターネット・プロトコル自体も、OSIと並んで有力な共通プロトコルの候補でしたが、大きな問題を抱えていました。

 

 インターネット・プロトコルのルーツ 

インターネット・プロトコルのルーツは冷戦にありました。

冷戦には様々な定義がありますが、冷戦時代の最大の問題, あるいは冷戦の象徴といえば、何と言っても、核戦争の危機が揚げられます。

安全保障は当然として、多くの国際間の問題も、この核戦争危機を中心に回っていました。

これは通信の世界も例外ではなく、インターネット・プロトコルの誕生にも冷戦が大きく関わっています。

すなわち、軍は核戦争を前提とした技術、すなわち核攻撃にも耐えられるネットワーク を必要としていました。

つまり、核攻撃で回線や施設が破壊されても、生き残った回線経路(ルート)を探し、複数の経路が残っている場合にはその中で最適なルートを決定し再接続する作業を自動的に行なえる通信プロトコルが要求され、そして生まれたのがインターネット・プロトコル(の前身)でした。(下図参照)

(図)回線切断と経路の自動設定


たいへん便利な通信プロトコルであり、中継ノード(図中の通信制御装置)自体に経路(ルート)を探査し、最新の情報を互いに交換し合って共有する機能が備わっており、回線や中継ノードの破壊や能力低下に備えて常に最適な経路を維持管理する機能を持っています。

中継ノード、通信制御装置が、こう言った機能、役割を持つことから、ルーターと呼ばれるようになったのは、皆さんご存知のことだと思います。

ではこの便利なインターネット・プロトコルで、いったい何が問題だったかというと、その経済性の低さでした。

常に最適な経路を維持管理すると言うことは、逆に言うと、常にネットワーク全体の経路情報を各ノード間で交換し合って常に最新の情報を共有しなければならないことを意味します。

また、全ての経路を常に最速のルートで結ぶと言うのは、ネットワーク全体の資源効率を悪化させることがあります。(必ずしも全ての経路が、最速である必要はないことに注意。現代インターネット技術のポリシー・ルーティング参照)

当時は、通信コストが非常に高額だったため、基幹経路を除けば、ほとんどの通信路は電話回線であり、モデムの処理速度はたかだか14,4kbps〜19.2Kbps程度でした。 

そう言う細い(低速の)通信回線の中に、ユーザー・データだけでなく大量のネットワーク管理情報が流れるわけであり、プロトコル・アナライザーなどで測定してみると、コントロール・データ(管理用データ)の比率が50%を超えてしまう事も珍しくありませんでした。

と言うわけで、WAN分野では、軍用や研究用を除き、商業分野では、インターネット・プロトコルなどの動的ルーティングを使うことは稀で、大部分は静的ルーティングを採用し、経路情報やパフォーマンス・チューニング用パラメータを事前に設定するプロトコルを使っていました。

そして、OSIの次に来たのは、プロトコルを共通させるのではなく、マルチ・プロトコル、すなわち、複数種類のプロトコルをまとめて一本の物理回線を共有させて運ぶテクノロジーの時代でした。

ネットワーク・ベンチャーの時代

OSI以前からネットワーク・ベンチャーは存在していましたが、主にLAN分野で活躍していました。
しかし、群雄割拠するプロプライアタリなプロトコル群を、一本の物理回線にまとめて運ぶマルチ・プロトコル・ルーターの登場とともに、データ通信分野の主役は、従来のメインフレーム・メーカーからネットワーク・ベンチャーへと、あっと言う間に様変わりしました。

この当時、1990年前後の代表的なプロトコルは、データ量的には、1. パソコン系プロトコル(マイクロソフトやアップルなど), 2.インターネット系(UNIX系)の順で、メインフレーム系のプロトコルは極めて少数派になっていました。

1990年は、IBMが当時アメリカ史上最大の赤字を計上した年でしたが(注; 後に、その最大赤字の記録は破られます)、メインフレーム系のプロトコルは重要度はまだまだ高かったのですが、データ量的には新興勢力に圧倒され始めていました。


2021年10月9日土曜日

世界標準と日本語 その2

 

OSI の問題

 前回のブログでは、OSIは、
ネットワーク
1980年代後半の市場から熱狂的に待望されていたが、実際に出来上がってOSIネットワークが繋がり、詳細が広く知れ渡るにつれ、それまでの熱気が嘘のように消え去り、期待が失望に転じ、熱狂が落胆に変わって行ったと書きました。期待が大きかった分だけ失望も大きかったと言えます。
 
失望の理由は大きく言って2つがあげられました。
 
1.  OSI仕様(スペック)そのものの問題
 
OSIは、1988年時点で実用段階にあったネットワーク技術の総まとめ的な性格を持ちました。 
80年代当時の最先端アプリ、たとえばマルチメディア(音声、画像、動画)などが市場ではさかんに話題になっていましたが、まだまだ研究段階であって、とても標準化の対象にはなりえませんでした。
たとえば、現在、皆さんが楽んでおられるYOUTUBEなどの動画アプリは、実験室レベルでは当時から既に存在していましたが、極めて大規模な設備と莫大なコストを要し、研究途上、発展途上の段階であって、とても標準化の対象とはなり得ませんでした。
 
つまり、ユーザー目線から言うと、OSIは、当時すでに実用段階にあったアプリを単に標準化しただけの存在であり、導入したところで何か新しい事ができたり、コストが安くなったりするようなものではなかったのです。
また、さらに言えば、OSIの対抗勢力である企業固有の(プロプライエタリな)ソリューションは、プロトコルは確かに非標準でしたが、基本機能に企業独自の拡張が付け加えられているいることが多く、実装標準を決める段階でこれらの拡張機能が対象外になりOSIには盛り込まれませんでした。
企業固有の拡張機能は、単なる通信の問題を超えてしまい、接続される2台のコンピュータが同じメーカーどうし(たとえばIBMのメインフレームどうし)でないと意味がないようなものも多く、当時の標準化の段階ではとても(標準化の)対象にはなりませんでした。 
こういうわけで、OSIの仕様は小さくなり実装が容易になったわけですが(前回のブログ「世界標準と日本語 1」(注*) 参照)、ユーザー目線から言うと、極めて魅力の無いものになってしまいました。

  

2. 長い作業時間
 
OSIの相互接続は、市場が予測していた以上に手間と時間がかかりました。
そもそも昔の通信プロトコルは、たとえ同じメーカー同士であっても接続に時間がかかる、つまり手間がかかるものが多かったのですが、異なるメーカー間の異機種接続となるとさらに ー 当時のソフトウェア品質が発展途上でまだまだ不十分な段階にあったことも絡んで ー 非常に困難が伴いました。
当時のネットワーク・エンジニアが、現代主流になっているインターネット(TCP/IP)プロトコルを初めてさわった時など、あまりに簡単に、あっと言う間に短時間で繋がってしまい、驚いてしまった、とか、むしろ、繋がって欲しくない所まで繋がってしまい切る方が大変だった、という感想が多かったのも、頷けます。
 
 
こうした訳で、当時、実験的なシステムはともかくとして、実際に稼働しているプロダクション・システムをわざわざOSIに移行しようという気にはとてもなれなかったことは、ご理解いただけたかと思います。
 
では、世界の潮流が、OSIを諦めて、一気にインターネット(TCP/IP)に向かったかと言うと、決してそうではありませんでした。
 インターネットの方はインターネットで、問題を抱えていたからです。
 また同時に、本ブログの主題である「世界標準と言語」という問題も明らかになってきました。
 
続く・・・
 

2021年9月30日木曜日

世界標準と日本語 その1

10分の1の法則(11) & グローバル化と英語(8) 合併号

Network
ネットワーク

 以前の投稿、10分の1の法則 その7でちょっと触れましたが、日本経済がバブルまっただ中の80年代後半、日本人がみんなイケイケだった頃のことですが(笑)、日本のIT産業で非常に大きな話題になった事柄に、ISDNとOSIがありました。

 

ISDN、ー NTTの商品名サービス名でいうとINS ー、の方は単に日本国内だけの騒ぎで終始しましたが、もう一方のOSI(Open Systems Interconnect)は日本だけではなく、非常に短い期間ではありましたが、世界的に大きな注目を浴びるブーム、一大エポックとなっていました。

 とは言え、 当時はまだソ連崩壊前でしたので世界と言っても西側世界と言った方がより正確ですが。

OSIが注目された理由

 80年代の東西冷戦下、西側諸国で急速に進められた通信の自由化に伴って、データ通信分野の急拡大が始まりましたが(この流れは、現代のインターネットの興隆に直接つながります)、肝心の通信プロトコルの方は、戦国時代さながらの状況で、例えば大型機の分野ではIBMのSNA、パソコン分野ではマイクロソフトのNetBIOSやアップル社のAppleTalk、NetwareのIPX・・・等々と言った感じで、各企業固有の(プロプライエタリな)プロトコルが群雄割拠しており、異機種間の互換性は皆無で、そのままでは全く繋がりませんでした。

そして、世界の大規模なネットワーク・ユーザーを中心に、異機種間の相互接続性を求める強い要求が、大海を揺るがすうねりとなって、世界中を荒れ狂っていました。

 その大波の中、異機種間を接続する共通のプロトコルの有力候補として、注目されたのがOSIでした。

理由として、

  • まず第一に挙げられる点は、何と言ってもOSIが新しい世界標準であったことでした。企業固有のプロプライエタリなものとは異なり、どの会社もまだ実装しておらず、企業に依存せず独立したプロトコルであって、有利不利なく平等な競争が期待できました。
  • また、プロトコルとしてのOSIは比較的に小規模で軽く(注*)、当時の非力なパソコンでも実装が容易であったことも、OSIが着目された重要なポイントでしょう。
そうして、OSIの標準化が進められ、その国際標準に基づく実装化が各企業で急ピッチに進められていました。
当時は日本も極めて意欲的、積極的に、世界標準化、実装化に参加しておりました。
ー 80年代は、日本の通信メーカーは世界の通信分野の先頭集団を形成していたと言っても良いほどでした。
確か1988年頃だと記憶していますが、こうして各企業が実装した機器を通信回線を経由して接続して、コンパチビリティ(互換性)を検証するイベント、相互接続性試験が行われました。
このイベントは海外企業勢も巻き込み、結果的にかなり大掛かりなものとなり、当時、筆者はOSIとは直接関係の無い部署にいたのですが、パートタイム的にエンジニアとして駆り出され、この検証プロジェクトに否応なく巻き込まれていました。
 

 接続試験の成功と市場の落胆

この相互接続性検証プロジェクトは、期間的に数ヶ月間続き、結果的にはすべての検査項目が検証され、接続試験は成功裏に終わりました。
ところが、そのOSIの動向を熱狂的に注視していた世界市場は、詳細が明らかになるにつれて、急激に冷えてゆきました。
あれだけOSIで盛り上がっていた日本市場も、あえてOSIを採用しようという企業は公的私的を含めて現れて来ませんでした。(当時は、公的機関ほどベンダー独立のプロトコルを採用したがっていると言われていました。)
 
市場は、OSIに失望、落胆したと言った方がより正確だったと思います。
 
続く・・・
 
 
 

 

2021年1月13日水曜日

謹賀新年 令和3年

 

 謹賀新年

令和3年 元旦 

 あけまして、

     おめでとう ございます。

 

昨年は、高齢の親戚が相次いで亡くなり、年賀状は欠礼しましたが、筆者が生存していることを友人知人に知らせる手段は年賀状くらいしかなく、年始にあたり、やむを得ずこのブログを更新して、まだ生息していることを知らせることにしました。

例にもれず、筆者も昨年はどこにも出かけておらず、唯一の旅行先は、昨年秋に行った信州の上高地だけでした。

上高地もすいており、例年は予約がなかなか取れない帝国ホテル も本年は簡単に予約できたことぐらいが、クロナ禍の中、不幸中の幸いと言うべきでしょうか。

昔、筆者が江戸のはずれに住んでいた頃は、しょっちゅう上高地に行っていたのですが、その頃は、上高地は山登りの出発点、終着点であり、泊まろうなんて言う大げさな振る舞い、大名登山 、狂気の沙汰は夢にも考えたことはなかったのですが、昨年は、大胆不敵にも連泊してしまいました。

人間、堕落すると、どこまでも落ちてしまうものです。

とは言え、帝国ホテルそのものは、なかなか良いホテルでした。

 

2020年4月10日金曜日

10分の1の法則 その10 ロジスティクス 兵站

昨今、アベノマスクと言う新造語がよく飛び交うようになってきました。
どうもその発端は、政府がマスクを付けるように指導したところ、もとより不足していたマスクが、流通上の問題(買い占め、転売等)のために、市場から払底し、いくら増産しても最終の消費者に届かなくなったという問題に起因するようです。
つまり、ロジスティクス上の問題が発端だったようです。
これは、本部のロジスティクス計画に問題があったのか、あるいは計画の実行上に問題があったのか分かりませんが、どうも伝わって来る話の中で気になるのは、本部の人間(政府関係者)のロジスティクス軽視とも取れる発言です。
これは、現政権だけの問題か、あるいは官僚機構全般に見られる傾向なのか良く分かりませんが、兵站(ロジスティクス)軽視は戦前の日本軍の思考様式にもよく見られたもので、気になります。

さて、ロジスティクス、兵站はもともと軍事用語であり、武器・弾薬や食料・生活雑貨などを最前線の兵士達に送り届けることを意味しており、早くより最も情報化(IT化)が進んで来た分野の1つです。
そして、軍事から派生して、今では軍事分野以外にも、流通業、製造業など様々な分野で使われている言葉となっています。

しかし、筆者の経験では、海外では非常によく聞く言葉ですが、国内ではあまり聞きません。
これは、企業文化、組織文化の違いもあるでしょう。
昔、筆者は、アメリカの大型コンピュータ・メーカーでプロダクト・マネージャをやっていたことがあるのですが、そこでは毎日のようにこの言葉を聞いていました。

一例を上げると、プロダクトを発表し、注文が入って数カ月後、初出荷のタイミングが来たとします。
その時、出荷OKかどうかのチェックポイント会議が開催されるのですが、メンバーの一人として必ずロジスティクス部門の代表が出席します。
そして、そこでロジスティクスの代表がNOと言えば、出荷は止まってしまいます。
プロダクトマネージャ(以下PM)は、出荷ができないと製品の売上が計上できないので、大慌てでその問題を解決しようとします。
大体の場合、NOが出るのは、その部門だけでは解決できない問題が発生していることが多く、関係部署を集めて会議を開きます。
プロダクトマネージャ制に馴染みがない方のために書くと、ほとんどすべてのミーティングの議長はPMが行います。
そうした場合、IT企業では、往々にして、PMがメンバーの中で一番若かったり、社内格付で一番下っ端であったりするのですが、そういうことにお構いなく、決定はPMが行います。
なぜ、そういうことが可能かというと、1つにはプロダクト部門が予算を握っており、他の部門はプロダクト部門にサービスを売っている形になっている事が挙げられます。
PMに公式に決定する権限がなくても、最終の決裁権をもつ上級のマネージメントに、PMが「このように問題を解決したいと思います。」と報告すれば、それが恒久的な解決策になるかは別ですが、少なくとも応急処置的には認められることが多いことも挙げられます。
また、殆どありませんが、仮にあるマネジメントが会ってくれない、あるいは協力してくれない場合、そこでプロセスを止めてしまってはPM失格で、そのマネージャの上司に問題をエスカレーションします。
上級マネジメントほど、会社の売上げが立てられない問題に対し、オレは関係ないと無視できなくなります。
また、ミーティングのメンバーだけでは解決できないことが判明した場合、問題を更に上級のマネジメントにエスカレーションします。
言ってみれば、PMは他所の部門から見ると、お客さん側の有力な担当者の一人に見えるわけです。

ロジスティクスは、チェックポイント会議の重要なメンバーであるだけでなく、日常的なオペレーションでもPMとは関係が深く、ロジスティクス計画の策定にもPMは関与します(プロダクトのコストやサービス品質、販売戦略にも大きな影響があります)。

日本との比較で言うと、当時から日本は品質に非常に敏感で厳しく、80年代のアメリカ企業は品質に関しては発展途上で、その代わりロジスティックスには敏感だった言えます。
( 日本製品が世界に躍進できた大きな要因は品質だったと言われています。 )
つまり、日本企業が品質に対してフォーカスするの一方、アメリカの企業はロジスティックスに対して注意を払っていたと言えます。

アベノマスクの例で言えば、マスクの品質の問題と、マスクの配布の問題に対する注意で、極論すれば、マスクの品質にうるさい日本と、マスクの配布にうるさいアメリカの対比となります。
もちろん、品質と配布は車の両輪のようなもので、どちらかが欠けても問題です。

民主国家の軍隊では、最前線の将兵の声が最も大きく、後方支援部隊はその満足度を最優先に計画実行するのに対し、製造業では最末端の消費者の満足度を最優先に行動する点で、トポロジー的に似ています。

2020年3月5日木曜日

10分の1の法則 その9

オーケストラと指揮者
今回のコロナウィルスの問題に限らず、内外のメディアなどからは日本政府の対応はいつも "Too slow , too small"(遅すぎる、不十分すぎる)と昔からよく批判され、"too slow, too small"がまるで日本政府のトレード・マークのように 言われていますが、これは決して日本の組織だけの特徴ではなく、また、どんな組織体でもー瞬のうちにこのようなことが常態化する事態に陥いるリスクがあります。
筆者自身も昔、バブルの頃、所属していた組織の状況が急変し、みるみるうちに後手後手のモードに陥り墜落していく姿を内部から目撃した経験があります。

しかし、それを語る前に、まず組織の(情報)モデルについて触れたいと思います。

組織は船に良く例えられます。大きな船は ー 例えば航空母艦のように ー、規模の経済(スケール・メリット)が効く分野の利益を最大限享受でき、大波や強風にも強く安定的で、強大な攻撃力を持ちえますが、同時に、様々な弱点があります。

いくつか上げると、まず、大きな船は自身の慣性力が大きく、急な動作が不得意であり、急激な進路変更や発進・停止ができません。
組織で言えば、大組織は、たとえ官僚主義が蔓延していなくとも、小部隊に比べると動作が遅く機敏さが欠けます。 
しかし、一旦動き出すと、その力は極めて強大であることは言うまでもありませんが。
また航空母艦は攻撃能力は非常に高いのですが、その反面、防御能力が弱く、自身単体で自分を守ることが殆どできません(機敏な動きができない大きな図体の船が、チャプチャプとのんびりと海洋に浮かんでいるわけであり、敵にとっては一撃で倒せる格好の標的になります。
こういうわけで、空母が単独で行動することは通常はなく、大小の多くの軍艦や潜水艦、航空部隊などを引き連れて艦隊を構成して進軍します。

したがって、大規模な艦隊の司令官は、早め早めに指示を出すことが要求されます。曲がれと指示を出してから、舵を切り、実際に巨船が曲がり始め、最後尾の船が完全に曲がり切るまでに相当の時間がかかり、その間、艦船は慣性力であさっての方向に進んでしまうからです。

このように大組織のトップは、オーケストラの指揮者のように、演奏中の音よりも何拍か先を振ったり、何拍か先を指示したりする必要があります。(さもないと、指揮者は、単にオーケストラの前で棒振りダンスをしているだけの存在になってしまいます。)

巨額な費用をかけた艦隊(組織)が、リーダーの遅い指示のために、ドジでのろまな亀(バブル時代のテレビドラマ参照)になるリスクがあるわけです。

続く








2020年2月28日金曜日

10分の1の法則 その8

昨今はコロナウィルスの話題で持ちきりで、どこへ行ってもこの話で盛り上がっています。

筆者はウィルスどころか、生物学すらまともに勉強したことがなく、この分野にはまったくの素人なのですが、情報やデータの観点から、一言、感想を述べてみたいと思います。
というのも、今回の現象は、単にウィルス学や生物学(医学)上の問題だけでなく、広く社会科学的(法学、経済、政治などなど)な問題であり、そのなかで情報の扱いが極めて重大な意味をもつと考えるからです。

現状、海外の報道などを見ると、日本政府の対応に対して批判的に書かれていることが多く、一方の日本政府は海外に対して理解を求めていくという旨の答弁をしていましたが、試しに厚生省のホームページの英文を見ても、極めてブロークンな英文が羅列されているだけで、ブロークンさにおいては人後に落ちないつもりの筆者も降参するほどの意味不明さであり、これで果たして海外に対して情報発信しているつもりなのか?果たして意味が伝わるのか?大いに疑問です。(インターネットは政府にとっても、マスコミに依存せずに情報発信できる強力なツールであることは言うまでもありません。)
現実において、インターネット以外のメディアにおいても日本政府発の情報は殆ど見かけません。
また、英語媒体だけでなく、日本語の内容においても、果たして本当にデータの裏付けがあるのか?と言う疑問符がつく政治家、専門家の発言が多く、事実とオピニオンと願望が入り混じった混沌に見えます。
あえて情報戦略と言う言葉は使いませんが、とても説得力がある内容とは言えません。
戦略思考も、高次の合理思考の一種であり、合理的判断のできない組織に戦略思考を求めるのは、端から無理であったと言うのが筆者の感想です。

さて、情報とかデータとか言う話題で、思い出した出来事があります。

ディスコ・パーティー
1980年代の後半、日本はバブル景気真っ盛り、ワンレン・ボディコン(死語?)の女性たちが街を闊歩し、ディスコ(これも死語?)のお立ち台で踊り狂い、たしかジブリ映画の「となりのトトロ」や「火垂るの墓」が初上演されると言った頃のお話です。


筆者の知人、エヌ氏は、当時、IT企業に務める20代の若きコンピュータ・エンジニアでした。(以下の話は、彼の話に多少の変更を加えて書いています。)

エヌ氏が、その日の朝、いつも通りコンピュータに向かって仕事をしていると、ワンレン・ボディコン姿の秘書が、外人を一人、彼の席までエスコートして来ました。(注: 当時のOLのファッションは大体のところワンレン・ボディコンでした。)

エヌ氏は秘書の差し示す外人の名刺に訝しげに目をやりながら、挨拶をしました。
名刺には「英国外務省秘密情報部( MI6) ジェームス・ボンド」とありました(もちろん仮名)。
ボンド氏は、とても急いでいるようで、挨拶もそこそこに、「我々を助けてほしい、君のボスには許可を得ている。すぐに、一緒にオフィスに来てくれないか?」と言い、エヌ氏はせかされるまま、英国の高級車ジャガー(007の愛車)に載せられ、ボンド氏らのアジトへ連れてゆかれました。

エヌ氏は最初は英国大使館にでも連れて行かれるのかなと想像していたのですが、着いた先は都内某所の高級ホテルでした。
VIP専用エレベータに載せられて、エヌ氏が連れてゆかれた場所は、ホテルの広いスイートで、大きな机の上にパソコンが置かれており、要は、ボンド氏はエヌ氏に「そのパソコンが壊れているので直して欲しい」、と言う話でした。

当時は、パソコンはまだ高価な時代で、日本の企業内にも、さほど普及しておらず、会社でなく個人で使っている人は、まあオタクかその眷属と見て良い時代でした。
高価なだけでなく、当時のパソコンは動作が非常に不安定なところがあり、いったんトラブり始めると、なかなか素人の手に負えず、そのパソコンの持ち主も、やむを得ず、エヌ氏のような専門家の助けを求めたものと思われます。
当時は、たとえIT企業であっても、パソコンを実務に使っているのはもっぱら若手であり、マネージャたちは敬遠している状況でした。(世代的にも当時のIT企業のマネージャたちはメイン・フレーマー)

そんな頃でしたので、エヌ氏は診てくれと依頼されたパソコンをいじりながら、このパソコンの持ち主は一体どんな人だろうか? と想像を巡らせていました。
というのも、パソコンの使い方に、そもそも異質な点があり、気になっていたからです。
そして、ボンド氏にパソコンの主が誰であるか尋ねたところ、彼は隠す素振りもなく、英国首相であるサッチャー女史で有ることをあっさりと認め、そして、そのスイートそのものが滞日中の彼女の部屋(隠れ家?)であることをエヌ氏に説明しました。

「鉄の女」として名高いサッチャー女史は、当時、頻繁に日本に来ていました。
彼女が日本で何をしていたかはよく知りませんが、その滞在中、彼女の甘言に釣られて日本の自動車メーカーが何社もイギリスに連れ去られていったことは当時でも有名で、ご存知の方も多いと思います。(連れ去られて行った自動車メーカーは、今でも英国で元気にやっているようです(多分)。)

さて、後日、エヌ氏が居酒屋で我々に語ったところによると、彼が異質と感じた点は、パソコンに最先端のアプリが入っていたとか、特殊なプログラミングが施されていたと言う技術的な問題ではありませんでした。技術的な問題でしたら、エヌ氏自身が開発部門の技術ヲタ(かっこよく言えば、テッキーやギークたち)をたくさん見ているので、さほど奇異には感じなかったでしょう。
またその頃のサッチャー女史が60代後半であり、日本ではその年代の女性がパソコンをいじっているという事自体が当時としては極めて珍しかったと言うことでもありませんでした。
彼が異質と感じたのは、内容の強い情報志向性と論理性でした。
今考えると、短い時間でそれを感じ取ったエヌ氏の慧眼には感服しますが、聞き手側の我々は極めて鈍感であり(少なくとも筆者は鈍感でした)、もっと卑近な問題に話題はシフトしてゆきました。
80年代において、鈍感な我々も日本と欧米のマネジメントの違いには気づいておりました。
当時のIT分野では、その違いが端的に現れる面が強く、例えば使用する技術は優れているのに出来上がったシステムが極めてお粗末であり、その原因が技術不足ではなく、上流工程、例えば要求マネジメント、にあったと言うような問題はザラでした。

しかし、バブル期の当時、日本のIT産業自身が、アメリカに追いつけ追い越せの勢いの時代であり、急速な進歩の結果、日本のマネジメントが欧米を抜くのは時間の問題、と極めて楽観的に考えておりました。(これは、我々だけでなく日本の社会全体の気分と言って良い状態でした。)

続く