2017年10月18日水曜日

憲法と論理思考

選挙が近づいて来ているせいか、憲法問題がよく話題にのぼります。
筆者も、憲法には人並みの関心はあります。
と言っても、第9条の話をするつもりはありません。
日本軍 ー もしくは自衛隊(筆者から見れば単なる言葉遊び、問題のすり替えにすぎません)ーに関し、その存在に反対的な意見の主張に、現代の国際情勢に適用可能な現実的で包括的な政策、戦略がとてもあるように思えないのと同時に、その日本軍ーもしくは自衛隊ーの統治機構、特に政治家や軍上層部に、果たして見合うだけの(戦略眼を含めた)統治運用能力、メカニズムがあるのだろうか?という強い疑念、危惧を抱いています。(装備、科学技術力(潜在的開発能力を含めて)、予算から見れば世界有数の軍事力です。)
システム屋から見ると、憲法という法律の面白さは、その自己参照的な性質にあります。

自己参照(あるいは自己言及とも呼ばれます)とは、自分が自分を規定しているもので、例えば自己参照の逆説(パラドックス)の例を揚げると、
「この文は誤りである。」
と言う命題で、「この文」はこの命題自身を指しているものとします。
エーゲ海
そうすると、仮に文が間違っているとすると、結果的に文は正しいことを言っており、また、仮に文が正しいとすると、反対に文は誤りであると主張しており矛盾します。
おそらく、この手の自己参照の逆説で世界的に最も有名なのが「クレタ島の嘘つき住民」の話でしょう。
どう言う話が元のオリジナルであるか良く知りませんが(調べるのは面倒なので、読者諸兄姉にお任せします)、大体こんな話です。
あるギリシャの哲学者が、「クレタ島の住民は、すべて嘘つきである。」と言った。
ここで言う嘘つきとは、正しいことを言わない、発言はすべて偽であると言う意味です。
そして、この哲学者はクレタ島の住民だった、と言う話です。
皆さんも、クレタ島へ訪問の際は、住民に騙されないように十分にご注意ください(笑)。

さて、憲法の自己参照の話ですが、つまり、憲法、すなわち権力自体が権力そのものを規定しているところが自己参照的です。

古来、もともと法と言うのは絶対権力者が臣下にくだす命令であって、「王の言葉は法」と言う言葉に象徴されています。
今でも、立憲君主国では、形式的に、法律は君主(王や皇帝など)が ー 本人がその内容に納得しているのかどうかに関係なく ー 宣言する所が多いのは、その名残と言えるでしょう。
その状況では、君主も法 ー つまり自分の言葉 ー に縛られると言うのは、思いもよらないことでした。
もちろん、東洋にも「綸言汗の如し」と言う、君主の発言は元に戻せないという戒めの言葉があり、思想的には現代の法に近い考え方の萌芽はありましたが、「君子豹変す」と言う便利な言葉もあり、実際問題として、絶対権力者が法に縛られるようなことはありませんでした。
近代の憲法の発祥の地はイギリスだと言われています。
初期の頃は、統治者(王)と国民(の代理人である議会)の一種の契約的形態からスタートしましたが、時代が下るにつれ議会だけのコントロールでは不十分であり、統治者から法の解釈権を独立させるようになりました。
これによって、統治者の「法を変えたのではない、解釈を変えただけだ」と言う言い逃れの道も塞がれたことになります。

さて、現在の日本の憲法ですが、当然、権力を規定する法であり、権力者も従う事が強制される法です。(そう言う意味で、自己参照的です。)
ニュースで知りましたが、最近、日本政府は自衛隊の憲法解釈を変え、そして、解釈を変えたことを認めて、実行に移しました。
憲法には、変更の手続きが規定されており、国会の承認と国民の(投票による)承認が必要とされていますが、どちらも得てないそうです。
ついでに言うと、日本の憲法も一応、三権分立を謳っています。
この状況は、外から見ると、権力内の論理矛盾、自己矛盾を起こしているように見えます。
すみやかに、論理的な説明が必要であると言うは、多少とも論理学をかじった事がある者なら感じるでしょう。
と言うのも、内部矛盾を持った論理体系では、すべての命題が真である事が証明できる、ー つまり、ある命題が真であることも偽であることも同時に証明でき、例えば、日本軍ー自衛隊が合憲であることも違憲であることも同時に証明され、その論理体系自体の存在が無意味なものになってしまいます。
憲法が無意味となると、民間の自然法や慣習などに起因する部分はともかくとして、少なくとも現在の日本政府は権力の根拠を失ってしまいます。
現政権が日本を武力制圧したわけでも無いので、権限の根拠は憲法にあり、統治者も、また議員の特権的な地位も憲法に依存しています。
内閣や国会などは憲法が意味をなさなくなると、単に、おじさん、おばさんの社交の場に過ぎなくなってしまいます(実際、そうかも知れませんが)。

欧米では、ギリシャ哲学あるいはローマ法の伝統のせいか、法を論理体系的に考える人が多く、専門家ほどその傾向が強いようです。
日本では、法は論理体系というよりも、ことわざ集的な扱いで、便利な文言をあちこち持ってきて都合の良い解釈を行なっているように見えます。
このロジカル・シンキングの軽視、欠如は、近代日本のストラテジック・シンキング(戦略思考)の欠落の大きな原因の1つだと、筆者には映ります。

2017年10月15日日曜日

OCUP2

以前、OMGのUMLの資格試験であるOCUP2の関係者との会話で、思わず「ヘェー?」と感心した出来事がありました。
OMGがUMLの資格試験であるOCUPを更改し、新たにOCUP2に変えたところ、日本国内の試験の合格率が関係者の予想をはるかに超えて劇的に下がってしまったそうです。
入門レベルでは70%以上あった合格率が10%以下に激減してしまったそうです(昔の司法試験並み?)。

筆者は今から10年ほど前に、このプロマネBlogで「UML中級講座」という連載をやったことがありますが、当時は市場ではUMLはまだ新しく市販本も乏しかった記憶があります。
特にメタモデリングの概念が当時の現場では極めて希薄であったのですが、今やUMLもその言語を使ったオブジェクト指向分析設計も、システム開発を行なう上ではかなり
オーソドックス、古典的なアプローチ、ー 音楽で言えばジャズのスタンダードぐらいの位置 ー になって来ており、当たり前のテクノロジーの感があったので、この合格率の劇的な低下は意外でした。(出題されるUMLのバージョンは2.0から2.5へ上がりましたが、入門レベルの内容では、ほとんど影響ないでしょう。)

昔に比べUML関係の書籍も多く出版されており、また現場でもよく使われるようになって来ています。
また何と言っても、Java、VB、C#等のオブジェクト指向言語の普及も相当進んで来ています。
それにもかかわらず合格率が劇的に低下したと言うのは、日本のIT業界の状況を象徴しているかのようです。

そこで、以前から関心があったEーラーニングのサイトを作ってみました。
アドレスは http://lucifer.stratagenom.com ですので、ご興味のある方は覗いてみてください。
現在パイロット・テスト中ですが、サンプルのコースがのぞけます。

2017年1月4日水曜日

2016年10月6日木曜日

日本型組織と戦略  その2 文系理系の誕生

横断歩道を渡る鹿
ボストンに行った時に、有名なハーバード大学を見に行ったことがあります。
同大学の卒業生である知人のD氏の車に乗せてもらい、ボストンから川1つ隔てた隣のケンブリッジの町にある大学のキャンパスを案内してもらったのですが、非常に印象に残ったことが1点あります。
それは、彼が筆者を乗せて真っ先に向かった先が、時計台とか講堂と言った(写真写りの良さげな)場所ではなく、彼が4年間の学生時代を過ごした、キャンパス脇にある地味な(失礼)学生寮だったことです。
ご存知の通り、アメリカでは高校までの教育過程は日本に比べ随分のんびりとしていますが、 大学に入ると急に忙しくなり、毎日をパッパラパーと過ごしていた高校生も突然勉学三昧の日々を送ることになります。
Dさんもきっと教室と学生寮を往復する生活を送っていたのでしょう、4年間を過ごした学生寮そのものが 大学を象徴する場所、最も思い出深い場所になっていたに違いありません。
彼の大学は日本の大学とは違い、理系文系の区別がなく、また日本の学科に当たるようなものもないため、どういう分野を勉強するかは学生の判断に委ねられており、Dさんは英文学を専攻したそうです。
ところが同時に、将来的には父君の後を継いで医者になるつもりでもあったため、医師養成の大学院(メディカル・スクール)の入学要件である生物学や化学などのサイエンス系の授業も取ったそうです。

アメリカの教育制度の一端を見て、考えさせられました。
日本の大学では、文学を専攻しながら医学系大学院の必修要件を満たすことはかなり大変です。
それどころか、文系を選ぶと大学レベルのサイエンス系学科の単位を取得すること自体が困難になっており、場合によっては高校段階で難しくなって来ます(大学入試に直接関係のない科目の勉強をすることになるため)。

教育制度もさることながら、大学間の国際競争を考えた場合、日本の大学が世界の優秀な学生(特にリベラルアーツ系と共にサイエンスも学びたいと考える日本を含む世界の学生)を獲得する上で大きな課題となりそうです。

文系と理系の誕生

 明治政府が最初に建てた大学、帝国大学ー後の東京大学ーは、当初は欧米の大学を1校そのまま輸入したような学校で、教師の大部分は外国人であり、彼らは外国語で講義をしていました。
従って、学生は大学入学前に外国語を習得しておく必要があり、その為に建てられた教育機関が、大学予備門でした。
大学予備門は後の旧制高等学校に繋がりますが、初期の頃は欧米の中等教育をそのまま持って来た形で、文系も理系もありませんでした。
実際、大学予備門を卒業した夏目漱石(後の高名な小説家)も大学の進学にあたり工学部*へ行くか文学部**へ行くか迷っており、その時点で文科理科関係なくどちらでも行けた状態でした。(* 、**: 注 当時は、工科大学とか文科大学とか呼ばれていたようです。)
文系・理系の区分が本格化したのは明治時代半ば、旧制高等学校の誕生の頃です。
これは大して哲学的な理由があったわけではなく、極めて現実的な要請からそうなったのだと推察します。
当時、高等教育機関そのものが極めてお金がかかる上に、各種の専門家の早期の養成が求められており、できるだけ短期に安上がりで大量に養成したかった、と言うのが本音でしょう。



2016年10月3日月曜日

日本型組織と戦略

通天閣
「日本はなぜ第二世界大戦に大敗したのか?」と言う疑問は、筆者が戦略に興味を持った始まりでした。
そして、そこから、当時の日本はどのような戦略で戦おうとしたのか?と言う疑問に変わって行きました。
その結果、果たして、(以前この ブログで触れたかと思いますが)、「戦略と作戦の不一致」と言うような戦略的な大問題に当惑させられてしまう事になりました。
この不一致は、そもそも戦略を無意味なもの貶めるほど酷いものですが、当時の将校たちは、何故、この問題を放置したままだったのでしょうか?
あるいは、問題に気づいていたのかさえ疑問なところがあります。
 当時の緊迫した国際情勢が思考能力を麻痺させてしまったのだろうか?と以前は想像していました。
と言うのも、この状況は、日本型組織にしばしば見られる、いわゆる「上に行くほど無能なリーダー像」だけでは説明できない現象に思えるからです。組織の戦略は、(無能な)リーダーだけが見たり書いたりするものではなく、組織の主要なメンバー(下位の戦略部門のラインやスタッフ(参謀)など)も見て、議論され、そして下位の計画が立案されて、最後に実行に移されるものだからです。
日本軍の戦い方は、上位のリーダーだけでなく、少なくとも作戦に関わる将校たちも相当な無能に見え、今はやりの表現で言えば、組織全体が『積極的無能主義』に陥っていたように見えます。

ところが最近になって、筆者の見方も完全に変わってきました。
最近は、日本型組織でも、テレビ等のマスコミを通して「なんとか戦略」と言う言葉がよく発せられるようになって来ました。 
筆者にとっては、ある種の社会実験が行われているように映り、たいへん興味深く眺めていたのですが、そのうちに「なるほど!」と膝をポンと叩きたくなるほど合点が行く局面に度々遭遇するようになって来ました。
本当は「ユーレカ!」と叫びながら裸で街を駆け回りたくなったのですが、今はその衝動をぐっと抑えて、このブログを書いています(笑)。
 と言うのも、現代の日本型組織の思考様式の属性が、旧日本軍の思考様式とあまりに共通しているからです。
 旧日本軍は、軍事学をサイエンスとしては研究していませんでした。
旧日本軍も戦略という言葉は知っていますし、盛んに使っていましたが、あるのは、言葉だけであって実質は空疎なものでした。一種の言葉遊びと言ってよいでしょう。
孫子を始め、古来から戦略論を論じた書物は数あり、エリート軍人たちも一生懸命勉強しましたが、言語学的、あるいは文学的、さらに言えば規範的(学問的の反対語、非科学的という意味で)に学んだだけであって、決してサイエンスの目で学んだ訳ではありませんでした。
現代の目から見ると、バラバラに見える日本軍の戦略や作戦論も、彼らの目には、言語学的にはつながっていて、それで良しとしたのでしょう。
言葉の表現だけで繋いでいるだけで、論理もデータもないどころか、日本の中世の武将でさえ持っていた合理主義もありません。
そして、それとそっくり同じ症状が現代の日本型組織、特に政府系組織に如実に現れています。
 基本的に、言葉でつながっているだけの状態で放置されています。

自然科学の発達以降 ー 特にニュートン力学の目覚ましい発展以降 ー、社会科学の研究もサイエンスの手法を取り入れること急で、 近代学問として、社会科学もサイエンスとして捉えるのが当たり前になって来ました。
軍事学は元々、合理性を尊ぶことは洋の東西を問わず熱心であって、例えば、日本の戦国時代、武将たちは必死に神仏に戦勝を祈ること半端ではなかったのですが、それだけでは決して勝てるとは思っておらず、神仏に祈ることと並行して同時に、武器や戦術、あるいは戦略を文字通り必死に研究しました。
現代の目から見て、戦国武将達の姿は科学的とは呼べないまでも、少なくとも極めて合理主義的であったことは間違い無いでしょう。
 近代の軍事学は、自然科学と社会科学の境界的な性格を持ちますが 、基本的に"Military Science"と言う言葉通り、科学(サイエンス)として研究されることが通例です。
また、社会科学も同様で、 社会、ー つまり人間の集合 ーを、科学的に解明すると言うのが基本的なスタンツになって来ています。
「社会 = 人間の集まり」という対象物を様々な角度から様々な様相に着目して究明していくわけで、例えば経済学や法学というのは、それぞれ主体である人間集団の経済的側面、法学的側面に注目した学問であり、政治学も同様で、一個の対象物が見せる様相の一つに特化した分野であり、互いに密接な関係があるのはむしろ当然です。
マネジメント・サイエンスも同様で、人間集団を一個の視線から(上から目線で)組織として捉えた合目的的な方法論であって応用科学的な側面を持っています。

文系と理系 の問題

文系、理系といっても、文系出身だからあんたは非科学的だとか、理系出身だからお前は視野が狭いとか言う議論をするつもりはありません。
文系学部を卒業して科学分野で業績を上げておられる方もおられますし、理系出身でも文学や宗教といった幅広い分野に精通しておられる方もおられます。
人をステレオタイプで判断する態度は強く戒められるべきことでしょう。
 では、なぜ文系や理系をここで取り上げるのかと言うと、人間集団や組織を捉えた場合、その特徴が如実に現れやすい点に着目しています。
組織の行動は、人間自体の持つ個々の特性とは別に、その集団の持つ文化的特性が大きな影響を与えることが知られています。
その特性は、意思決定にも大きな影響を与え、考え方や議論の進め方、リーダーの決め方から、結論の出し方、決着のつけ方(責任の問題)まで、様々な影響を与えます。

筆者は、旧日本軍や日本の大型組織に蔓延する言語学的な思考形式(注: 筆者は言葉が持つ「力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせる」力を決して否定するものではなく、ここでは、理論的、実証的あるいはデータ的裏付けのない言葉の連鎖だけの思考形式 ー いわゆる”語呂盤”を弾く形態 ーを「言語学的」と呼んでいます。)の根元は、日本の言語文化の伝統ではなく、むしろ明治中期以降に広まった文系、理系の区分にあると見ています。
江戸時代の支配階級である武士社会では実のない軽い言葉は軽侮の対象であり、また朋輩間の戯言ならともかく、公的な言動、特に自分の主君に達するような言葉(建白書など)には自己の生命をかける、と言うのが当時の道徳観 ー 武士道でした。
明治期に入り、西洋文明の導入とともに、高等教育システムも激変しました。
そして、明治半ばに達するころ、日本的な学問の受容形態、文系理系の区分が始まります。
西洋にも文系理系に似た区分、リベラルアーツ系とサイエンス系がありますが、かなり異なります。(リベラルアーツ系は、哲学や数学の扱いをどうするかを別にすれば、日本の人文科学とほぼ同義と考えてよいでしょう。)
そして、区分に関する大きな違いは、社会科学の取り扱いです。
西洋の大学では、法学や経済学、政治学などの社会科学はサイエンス系、言わば理系に入ります。
そして、問題は単なる区分そのものではなく、理系志望の学生に対してリベラルアーツ系の教育を行わなくなり、あるいは相当減らし、文系志望の学生からサイエンス系の学習機会を奪い、そして少なくとも学部レベルでは社会科学をサイエンスとして教育しない悪弊が生まれます。(もちろん、大学院レベルでは、研究論文が書けなくなるので社会科学分野もサイエンスとして教えているでしょうが、ごく最近まで、文系で大学院に進む学生は研究者志望の人をのぞくと極めて少数でした。)
この明治期に始まった習慣はかなりの影響を後世に残しており、例えば、筆者は一応、理系の教育を受けたのですが、初めての海外経験で受けた大きなショックの一つは、いかに自分がリベラルアーツ系の教養に欠けているか!と言う驚きでした。筆者の場合は、哲学や宗教学の分野で痛感したのですが、 理系出身の同輩たちは皆似たような経験を共有していました。
また、学生時代、社会科学系の他学部の授業にも出席したのですが、ほとんどの学部では社会科学をサイエンスとして教育することなく、ひどい場合は極めて規範的な議論に終始するものでした。
文系学生向けに自然科学の授業もあったのですが、実験など無しに結果だけを示すような内容で、とても科学的、あるいは学問的とさえ呼べないようなものでした(学問とは、全てを疑えと教えられて始まり、全てを疑えという姿勢を次の世代に引き継いでいくというのが伝統です。)
多分、最近はかなり改善されているとは思いますが、筆者を含め現役世代の多くは、まだまだ、旧弊の影響下にあると思います。
社会科学分野の議論が、研究者レベルはともかくとして、実務家レベルでは完全に言語学的になってしまったのは 、この悪弊による影響が大である、と筆者は見ます。



続く

2016年9月18日日曜日

成長分野

奈良公園 
昨日は、法隆寺に行ったついでに、藤ノ木古墳も見てきました。

成長分野

筆者は若い頃 ー1980年代頃 ー、外資系の大手のコンピュータメーカーに勤めていた事があり、そこで製品企画の仕事などをしていました。
その会社には、各事業部ごとにストラテジストという社内タイトルを持つ人達が少人数存在していて、普段はそれぞれの分野の専門家として普通に働いているのですが、半年に一度ぐらいの割で集まり、主に会社や業界の将来展望などを議論する場が設けられていました。
 そして、当時の話題の中には ー その時は全く気にもしていなかったのですが ー、数十年経った今、折に触れ印象深く鮮明に思い出すものがあります。

その1つが、いわゆる投資のための戦略ポートフォリオを組む上での基礎資料となる市場の分野別成長予測でした。
まず市場を適宜議論し定義分割し、その分割された分野ごとに成長予測を行うわけですが、たとえ専門家であっても真の正解を知らない将来に関しする予測を、今でも行われる、いわゆる『専門家のコンセンサスを取るグループ討議の技法』を使って行なっていました。
この手法により個々の専門家の個人的なバイアスがある程度取り除くことができ、例えば誰でも自分が興味ある分野 ー 多くは自分の専門分野 ー の将来像は過大に見積もる傾向がありますが、この手法を取るとその偏りがある程度補正されます。
こうして、その時点での最善のguess(当て推量)を取りまとめたものを見る機会があったのですが、今思い返してもかなり的中しています。新規分野に関してはドンピシャと言って良いでしょう。
もっとも、見積もられた成長率は、 実際、後年明らかになった劇的な急成長に比べると遥かに低いのですが、これは、投資判断という資料の性質上、少なくともこのぐらいの成長はするだろうという極めて控えめな形でコンセンサスが取られ推計されたせいでしょう。
急成長すると予測された分野には、当然、今の言葉で言うと、パソコンやインターネット分野も含まれていました。
ちなみに当時は、必ずしも現在呼ばれている名称では呼ばれておらず、例えば、インターネットは当時は、数ある通信プロトコルのうちの1つを指す名称として認識されていただけで、初期の頃は、そのインターネット・プロトコル自体は全体のネットワーク・トラフィックの中でそれほど目立つ存在ではなく、決して代表的とは言えない存在でした(初期の頃は、UNIX系システム間の通信のみ)。

そして、製品戦略ですが、大体この予測に沿った形で開発予算が配分されていきました。
開発予算に関しても、競合他社に比べて決して負けない、というか軽く凌駕する金額がつぎ込まれていたような気がします。
さて、それから月日は流れ、成長市場として位置付けられた市場は当初の予測を遙かに超えて急成長して行きました。
さぞかし製品は大成功したかというと、10年ほど経って、その結果を見てみると(筆者はその頃はすでに別の会社に転職しておりましたが、近い業界にはおりました)、結果は真逆で、傍目からみると、多くの分野で決してメジャーになることはなく、基礎研究や特許収入などの知的財産を除いて、ほとんどの新規分野から撤退するか撤退間近の状態でした。
これは、しかしながら、この会社だけがそうなったわけではなく、当時のメインフレーム系メーカー(みな大企業です)の大多数は、大なり小なり新規分野に投資していたのですが、それらの分野では決してメジャー・プレイヤーにはなれませんでした。


2016年7月11日月曜日

組織と戦略

金剛峯寺
昨日は、涼を求めて高野山へ行ってきました。
何十年ぶりかで行ったので、どんな所だったか、ほとんど覚えておらず、何を見てもある意味すごく新鮮でした(笑)。(奥の院あたりだけが、かすかに記憶にある程度でした。)
行ったことのある方はご存知だと思いますが、高野山は山中にある盆地であり、周りを山々に取り囲まれています。
 いくつかの寺院を見たあと、とある場所で休憩して水を飲んでいたのですが、よく見るとそこはその高野山の外周をなす山へ登る登山口でした。
 そしてその案内板を見ていると、その道の向こうに、なんと弘法大師が立って筆者を手招きをして呼んでいる!! ような気がしたので(笑)、フラフラとその山道を登ってみることにしました。
筆者は昔、山岳部なんかにいたせいで山登りは好きな方ですが、最近は全く登っておらず、運動不足気味で、かつ、昨日は登山向きの格好はしておらず(特に靴が悲惨)、海抜1000メートル程度(登山口からの標高差2〜300メートル)の山でしたが結構疲れました。(良い子のみんなは、決して真似しないように。真夏の低山歩きは、高山歩きとは別種の疲労があります。)

山道に入ると土石が赤みがかっているのがわかります。
高野山の地主神がなるほど丹生都比売神社であることが思い出されます。

そして、 歩いていると、途中、女人堂(にょにんどう)の跡を示す立て札がありました。

高野山は標高900メートル程度のところにありますが、高さの割に山が奥深く、里からかなりの距離があります。
現代は、電車とケーブルカーやバスなどでスイスイと登って来れますが、昔の巡礼の人たちは、麓の里から延々歩いて登って来ました。(高野七口といい、かつては周辺の里から7本の道があったと言います。)
そして、女性たちは100年ほど前までは、高野山の街なかに入ることが許されず、男たちが高野山の街なかの宿坊に泊まれるのに対し、女性たちは境界をなす外周の山々に設置された女人堂に籠り、 外周の山々をめぐることしか許されませんでした。

山道をあえぎあえぎ登りながら、こう考えました。
高野山の街なかを歩くことに比べ、高野山の外周の山を巡ることは遥かに大変です。
彼女たちの信仰心の厚さには思わず尊敬の念が湧きます。
そして、同時に、彼女たちは山道で確実に弘法大師に出会えたであろう、と。

組織と戦略

世界史を紐解くと、アレキサンダー大王とかジンギスカンとか言った大天才が、必ずしも良い条件とは言えない境遇のなか、最初は非常に小さな勢力だったのが、極めて短期間のうちにみるみるうちに巨大な大帝国と呼べる存在に成し遂げる事例に出くわします。
よくもまあ一人でこんな短期間にこんな大帝国にできるもんだと感心しますが、面白いことに、ほとんどの今昔の組織的軍事的大成功の事例は一人の強力なリーダーに率いられた集団であって、むしろそれが普通と言えます。
組織論的には、一人だからこそできたとも言えます。
というのも、トップの数が少ないほど、組織の力の結集が容易だからです。
また一見するとグループで組織を指導しているように見えても、そのグループの中にトップがいます。(チーム型組織という形態もありますが、大規模組織には向きません。)
これはアレキサンダー大王とかジンギスカンと言った海外の例だけではありません。日本の急成長した組織もほぼ例外なく、強力なトップ1人に率いられています。
譬えて言えば、オーケストラの指揮者のようなもので、指揮者が2人も前に立つとオーケストラは大混乱に陥ってしまうようなものです。どっちの合図で出だしの音を出せば良いかも分からないかもしれません(笑)。
オーケストラと違う点は、オーケストラの指揮者は個々の演奏者の顔が見えますが、大組織ではリーダーは大部分の構成メンバーの顔を見ることはできません。
さらに言えば、専門性の高い分野では、リーダーはメンバーが何をやってるのかさえ理解できません。
そこで生まれてきたのが戦略の考え方です。
 発生的には軍事の分野で生まれ進化してきたものであり、その例で話した方がわかりやすいと思います。

続く