2022年5月24日火曜日

日本の経済モデル ビジョンの失敗

 

久しぶりに鎌倉の友人から電話があり、積もる話、四方山話の中で、日本の経済モデルに関する筆者の意見を聞かれました。

元より筆者は経済の専門家でも何でもなく、また、このプロマネBlogにそんな経済分野の話題が求められているとは思わなかったのですが、ビジネス・パースペクティブ、特に戦略論の観点から、私見を書いてみたいと思います。

 成長戦略の失敗

以前、〜確か数年前〜、世間で大きく話題になったものに「成長戦略」なる言葉がありました。皆様の中にも憶えておられる方も多いと思います。日本は、明治中盤以降、軍事や経済分野でも戦略的な動きが全く無くなってしまっており、筆者もたいへん注目しており期待を持って見守っておりました。

(注:明治中盤以降から昭和、平成にかけて、戦略という言葉自体は広く蔓延していましたが、そのアプローチは科学的ではなく、むしろ神秘主義的、宗教的な様相を呈しており、まるで「お題目」的な扱いでした。)

しかしながら、日本社会の熱気と大きな期待とは裏腹に、あっという間に失敗と幻滅、失望へと変わってしまいました。失敗と一口に言っても、世の中の失敗の中には、悪いことばかりでなく良い失敗も沢山あるのですが、この成長戦略の失敗は、かなり悪性度の高い失敗でした。経済成長の種をほとんど残さず、むしろ大金をかけて悪化のスピードを加速させ、社会を成長がより難しい体質に変える結果となってしまいました。

 戦略の失敗は、当然、トップの指導者の無能を意味しますが、この成長戦略の失敗や、同時に行われた他の関連する経済施作などは、はからずもトップだけではなく、トップを支えるブレーンたちや、官僚機構の(少なくとも上層部の)無能も明らかにしてしまいました。

ビジネス・パースペクティブから見た現在の日本経済

 1990年代から現在に続く日本経済の停滞状況〜いわゆる「失われた20年とか30年」〜は、通常の季節的な景気循環に見られる金利の上下動や投資の波では説明がつかない症状を示している事は論を俟ちません。

筆者は現在の日本の経済状況は、歴史的に見て一つの王朝・国家の繁栄・衰亡を決定しうる重大な局面を呈していると考えます。

話をより具体的にするために、歴史的に類似する例を挙げて、比較して見たいと思います。

現在の日本の経済の症状に最もよく似た例を歴史上から探すとすると、1970年代から80年代にかけてのアメリカ経済の衰退が挙げられます。

 第二次世界大戦後のアメリカは、戦争の被害も少ないこともあり、その工業力は目覚ましい発展を遂げ、世界最大の工業国、世界の工場として君臨し、その経済力には飛ぶ鳥を落とす勢いがありました。ところが、70年代に入ると、その勢いも急激に鈍化してゆきました。工業力、特に重工業分野での国際競争力を失い、工場は閉鎖され、大口の雇用先が次々と無くなってゆきました。多くのアメリカの製造業はアメリカ国内への投資をやめ、海外投資に向かいました。

当時、アメリカの新しい産業分野である、コンピュータ産業、情報産業は絶好調と言って良いほどの好業績で高い成長率を維持していましたが、アメリカの工業力の衰退を埋め合わせて引き上げるだけの力はありませんでした。

失業問題や都市の犯罪事件の増加、景気後退と高インフレの同時進行という大不況の中にアメリカは喘いでいました。このアメリカ経済の急激な減退は、その工業分野の国際競争力の急速な失墜によるものでした。

もう一つ似た例を挙げるとすると、19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス経済の失墜が挙げられます。ご存知の通り、イギリスは世界最初の工業国になった国家で、19世紀はパックス・ブリタニカと呼ばれたイギリスの時代となり、世界最大の工業国として君臨していました。ところが、20世紀に入ると、2度の世界大戦の敗者であるドイツに工業分野の国際競争力で2度も負けてしまいました。

詳しくは、本ブログのOCEB講座:戦略とビジョンの中のビジョンの失敗:イギリスの場合を御参照ください。
20世紀後半、アメリカが工業分野の国際競争力で敗れた相手は、世界大戦の敗戦国、日本と西ドイツでした。日本は、アメリカに対し、低コスト、高品質を武器に輸出を増やし1980年代には、アメリカにとって最大の工業製品の輸入相手となり、貿易赤字と財政赤字のいわゆる「双子の赤字」と「スタグフレーション」は、停滞期(70年代〜80年代)のアメリカ経済を象徴する言葉となってしまいました。

 一国の経済環境の国際競争力失われた場合、その分野への新規の投資が先細りしてゆき、競争相手である国際競争力の勝った国へ資本が流れていく事は19世紀であろうが21世紀の現在であろうが変わりません。むしろ流出速度は相対的に上がっています。

日本の国際競争力が負けた相手は、80年代に日本に遅れて急成長してきた東南アジア、そして中国でした。 東南アジアと中国の強みは個々異なりますが、大きく言って、低価格と大市場へのアクセス(大陸中国)の2点と言って良いと思います。

ビジョンの失敗

自国の国際競争力の失墜に対し、アメリカ政府とイギリス政府の対応は対照的でした。

アメリカ政府は自国の製造業を強化する為のあらゆる方策(品質改善運動など)を尽くし、海外企業(特に製造業)を国内に呼び込むために海外資本が投資しやすい環境を整備し、また新規産業の育成を図りました。

それに対しイギリス政府は国際競争力を取り戻すための政策をほとんど行いませんでした。

そして日本政府の対応は当時のイギリス政府の対応に酷似しています。

「イギリス政府は、既得権益の保持に終始し、新分野(当時の新分野は重化学工業)、自然科学の基礎研究分野への投資が疎かになってしまった事が大きな失敗であった」、つまりピーター・ドラッカー氏の言う所のビジョンの失敗を、日本政府も犯し続けています。

 (続く)


 

 

 

 

2022年5月13日金曜日

世界標準と日本語 その5

OSIの接続試験に時間が掛かったのは、大きく分けて2つの要因によるものでした。

1つ目は、参加企業の技術力や対応能力の違いでした。A社とB社の接続で問題が発見された場合、OSI標準に則り原因が究明され、一方もしくは両方の開発部門により修正が加えられて再テストすることになりますが、その対応スピードに差がありました。

しかしながら、この対応速度の差は事前に予想されており適当なスケジュール・バッファーが取られており、結果的にはほとんど問題にはなりませんでした。繋がらない原因が判明すれば、原因側の企業はさっさと、ー 時間が掛かっても、せいぜい2、3日以内に ー 修正して来ますし、接続機器がパソコンなんかだと、その場でテスト機に直接修正を加えコンパイルして完了、と言った感じで、その修正の速さに、メインフレーム側のエンジニアを驚かせていました。

注) メインフレームなどの大型機は、テスト機が接続試験会場に持ち込まれることはなく、遠隔地にあるメインフレームに繋がった通信回線のもう一方の他端が試験会場に来ているだけなので即時の対応が難しく、それに対し、パソコンなどの小型機は会場に直接持ち込まれるケースもありました。

 接続試験に時間が掛かった2つ目の要因 ー 実はこちらが本質的な問題でした ーは、不具合の原因がわからないと言う問題でした。

不具合が発生すると、当然、OSI標準に則って、標準通りに動作しているか調査され、どちらが間違った動作をしているか? あるいは、両者とも間違っているか?と言ったことが調べられるのですが、当事者以外の専門家が見てもどちらが間違っているか判断が付かないケースがしばしば発生しました。

また問題は、2社間の接続だけでなく、3社間以上の組み合わせで発生するような問題も起こりました。

どう言うことかと言うと、例えば、「A社とB社の接続では何の問題もなく、A社とC社の接続も滞りなく繋がる、ところがB社とC社で繋ごうとすると問題が発生して繋がらない。」と言うような問題がしばしば起こりました。(下図参照)


そして、A、B、Cの三社とも、自分は標準通り作り、I標準通り動作していると信じています。
すなわち、各社の標準の解釈が異なっており、どの解釈が正しいか、標準を見ただけでは、第三者の立場に立つ専門家にも判断がつかないと言う事態に陥ってしまっていました。

また、この問題には、非常に興味深い特徴がありました。

OSIのアーキテクチャーは、他の大部分の通信プロトコルと同様に階層型アーキテクチャーを採用しています。(下記のOSIの階層図を参照)  

OSIの階層
図を簡単に説明すると、一番上のアプリケーション層がアプリーケーション(ソフトウェア)そのものであり、下位の層が一つ上の層に対しサービスを提供する形で階層を構成しており、最下層の物理層が電線や光ファイバーなどの通信回線となります。
コミュニケーション理論で言うと、下位層はメディア(媒体)を管理し、上位は意味を扱うレイヤーになります。
 
そして、上記の問題は、面白いことに、下位のレイヤーでは殆ど起こらず、大部分が上位層で発生していました(特に、アプリケーション層を中心に上位の層に集中する傾向)。
上位の層は、アプリケーション自体やアプリケーションに近い、つまり人間側に近い内容を扱っていたのに対し、下位は、電気信号などの物理的な内容、一言でいうとメディア(媒体)固有の問題や、ネットワーク・アドレスなどの基本的な論理的内容を扱っていました。

1980年代、 OSIは、当時フランスに本部があった国際電気連合の標準化部門、旧CCITTで、標準化が進められており、フランス語を始めとするいくつかの国際言語(国連のそれと大体同じ)で記述されていましたが、実際問題として世界のIT企業の大勢は、英語版をもとに実装化を図っていました。そして、多くの日本企業も、英語版や英語版からの和訳版を使っていました。

そして、まず第一に疑われたのは、標準の誤訳や、英文解釈の間違いでした。

2022年4月17日日曜日

世界標準と日本語 その4

 OSIに対する失望の原因としてOSIの仕様(スペック)そのものが魅力的でなかった事を述べましたが、もう一つの要因としてOSIの接続設定に非常に手間がかかったことが挙げられます。
 むしろ、後者の接続に手間が掛かることこそが、圧倒的に重要な問題でした。
姫路城の桜
姫路城の桜

OSIの仕様が魅力的でないと言うのは、当時の一般人、マスコミの評価であって、システム関係者や専門家にとっては、仮にそう言ったことが問題であったとすれば、わざわざ時間をかけて標準の実装を行い接続試験をするまでもなく、仕様そのもの策定段階で既に解っている事であり、接続実験後に改めて騒ぐ事はありません。
システムの専門家にとっては、標準化というのは、決して新しいアプリや機能を生み出すものではない事は、当たり前のことであり、十分承知していました。
システムの専門家のOSIに対する最大の期待は新たな機能やアプリの登場ではなく、接続の容易性の向上そのものにありました。
それを説明するためには、OSI誕生以前の異機種間のシステム接続に関する状況に触れた方が良いでしょう。 

OSI誕生以前の状況

OSI誕生以前にも異機種間のネットワーク接続はありましたが、大変に手間と時間がかかるものでした。
あるユーザー企業が、例えばA社製とB社製の2種類のコンピュータを持っており、仮にA社製のプロトコルで両機を繋ぐと決定したとします。
そうすると、ユーザー企業はA社側に接続仕様を提出させて、それを元にB社側にインタフェースを実装させることになります。
そして、実装が終了すると、接続テストは、ユーザー企業のコンピュータ環境で、ユーザー企業のアプリケーションを使って行います。
こう言った作業だけでもユーザー企業にとっては手間の掛ることでしたが、
接続が上手く行った後も問題は続きます。
例えば、ソフトウェアのリリースアップやハードウェアのコンフィグ変更のタイミングで、あるいは、極端な例では、ある日突然、何のシステム変更もしたつもりはないのに障害が発生し始めるするなんて言うことがにありました。
そう言った場合、A社側は接続仕様に変更が無いこと、さらにA社側の後方互換性(バックワード・コンパチブル)の確認(例えば、A社製の既存の機器と、新しいリリース・レベルが接続して問題が無いか等の確認)を行い、B社側でも、仮に直接繋がっている機械に変更がなくても他の間接的に繋がっている後方システムに変更が無いかを調べます。
システムに何の変更も加えてないのに、ある日突然、障害が出始めると言うパターンは、往々にして、ユーザー側での使い方の変化や、ユーザー・データーの構成フローの変化が原因だったりするのですが、システム関係者はその変化を知らず、トレースをとって見て初めて発見されると言うケースがままありました。

このような作業をユーザー企業が中心となって行わなければならない訳で、極めてユーザー企業の負担が大きく、またメーカー側の負担も相当なものでした。

そして、OSIの登場以降は、ユーザーは単に「異機種間の接続はOSI仕様で」と指定すれば良いだけであり、メーカー側の余計な負担も無くなるはずでした。


2021年11月2日火曜日

世界標準と日本語 その3

 10分の1の法則(13) & グローバル化と英語(10) 合併号 

 

本ブログで取り上げたいテーマ「世界標準と言語」の話をする前に、ちょっとだけインターネットの歴史を見てみましょう。
 

インターネット・プロトコル(TCP/IP)台頭の前夜

OSIの熱が冷めた後、市場は一挙にインターネットへと行ったかと言うと、そうはなりませんでした。

インターネット・プロトコル自体も、OSIと並んで有力な共通プロトコルの候補でしたが、大きな問題を抱えていました。

 

 インターネット・プロトコルのルーツ 

インターネット・プロトコルのルーツは冷戦にありました。

冷戦には様々な定義がありますが、冷戦時代の最大の問題, あるいは冷戦の象徴といえば、何と言っても、核戦争の危機が揚げられます。

安全保障は当然として、多くの国際間の問題も、この核戦争危機を中心に回っていました。

これは通信の世界も例外ではなく、インターネット・プロトコルの誕生にも冷戦が大きく関わっています。

すなわち、軍は核戦争を前提とした技術、すなわち核攻撃にも耐えられるネットワーク を必要としていました。

つまり、核攻撃で回線や施設が破壊されても、生き残った回線経路(ルート)を探し、複数の経路が残っている場合にはその中で最適なルートを決定し再接続する作業を自動的に行なえる通信プロトコルが要求され、そして生まれたのがインターネット・プロトコル(の前身)でした。(下図参照)

(図)回線切断と経路の自動設定


たいへん便利な通信プロトコルであり、中継ノード(図中の通信制御装置)自体に経路(ルート)を探査し、最新の情報を互いに交換し合って共有する機能が備わっており、回線や中継ノードの破壊や能力低下に備えて常に最適な経路を維持管理する機能を持っています。

中継ノード、通信制御装置が、こう言った機能、役割を持つことから、ルーターと呼ばれるようになったのは、皆さんご存知のことだと思います。

ではこの便利なインターネット・プロトコルで、いったい何が問題だったかというと、その経済性の低さでした。

常に最適な経路を維持管理すると言うことは、逆に言うと、常にネットワーク全体の経路情報を各ノード間で交換し合って常に最新の情報を共有しなければならないことを意味します。

また、全ての経路を常に最速のルートで結ぶと言うのは、ネットワーク全体の資源効率を悪化させることがあります。(必ずしも全ての経路が、最速である必要はないことに注意。現代インターネット技術のポリシー・ルーティング参照)

当時は、通信コストが非常に高額だったため、基幹経路を除けば、ほとんどの通信路は電話回線であり、モデムの処理速度はたかだか14,4kbps〜19.2Kbps程度でした。 

そう言う細い(低速の)通信回線の中に、ユーザー・データだけでなく大量のネットワーク管理情報が流れるわけであり、プロトコル・アナライザーなどで測定してみると、コントロール・データ(管理用データ)の比率が50%を超えてしまう事も珍しくありませんでした。

と言うわけで、WAN分野では、軍用や研究用を除き、商業分野では、インターネット・プロトコルなどの動的ルーティングを使うことは稀で、大部分は静的ルーティングを採用し、経路情報やパフォーマンス・チューニング用パラメータを事前に設定するプロトコルを使っていました。

そして、OSIの次に来たのは、プロトコルを共通させるのではなく、マルチ・プロトコル、すなわち、複数種類のプロトコルをまとめて一本の物理回線を共有させて運ぶテクノロジーの時代でした。

ネットワーク・ベンチャーの時代

OSI以前からネットワーク・ベンチャーは存在していましたが、主にLAN分野で活躍していました。
しかし、群雄割拠するプロプライアタリなプロトコル群を、一本の物理回線にまとめて運ぶマルチ・プロトコル・ルーターの登場とともに、データ通信分野の主役は、従来のメインフレーム・メーカーからネットワーク・ベンチャーへと、あっと言う間に様変わりしました。

この当時、1990年前後の代表的なプロトコルは、データ量的には、1. パソコン系プロトコル(マイクロソフトやアップルなど), 2.インターネット系(UNIX系)の順で、メインフレーム系のプロトコルは極めて少数派になっていました。

1990年は、IBMが当時アメリカ史上最大の赤字を計上した年でしたが(注; 後に、その最大赤字の記録は破られます)、メインフレーム系のプロトコルは重要度はまだまだ高かったのですが、データ量的には新興勢力に圧倒され始めていました。


2021年10月9日土曜日

世界標準と日本語 その2

 

OSI の問題

 前回のブログでは、OSIは、
ネットワーク
1980年代後半の市場から熱狂的に待望されていたが、実際に出来上がってOSIネットワークが繋がり、詳細が広く知れ渡るにつれ、それまでの熱気が嘘のように消え去り、期待が失望に転じ、熱狂が落胆に変わって行ったと書きました。期待が大きかった分だけ失望も大きかったと言えます。
 
失望の理由は大きく言って2つがあげられました。
 
1.  OSI仕様(スペック)そのものの問題
 
OSIは、1988年時点で実用段階にあったネットワーク技術の総まとめ的な性格を持ちました。 
80年代当時の最先端アプリ、たとえばマルチメディア(音声、画像、動画)などが市場ではさかんに話題になっていましたが、まだまだ研究段階であって、とても標準化の対象にはなりえませんでした。
たとえば、現在、皆さんが楽んでおられるYOUTUBEなどの動画アプリは、実験室レベルでは当時から既に存在していましたが、極めて大規模な設備と莫大なコストを要し、研究途上、発展途上の段階であって、とても標準化の対象とはなり得ませんでした。
 
つまり、ユーザー目線から言うと、OSIは、当時すでに実用段階にあったアプリを単に標準化しただけの存在であり、導入したところで何か新しい事ができたり、コストが安くなったりするようなものではなかったのです。
また、さらに言えば、OSIの対抗勢力である企業固有の(プロプライエタリな)ソリューションは、プロトコルは確かに非標準でしたが、基本機能に企業独自の拡張が付け加えられているいることが多く、実装標準を決める段階でこれらの拡張機能が対象外になりOSIには盛り込まれませんでした。
企業固有の拡張機能は、単なる通信の問題を超えてしまい、接続される2台のコンピュータが同じメーカーどうし(たとえばIBMのメインフレームどうし)でないと意味がないようなものも多く、当時の標準化の段階ではとても(標準化の)対象にはなりませんでした。 
こういうわけで、OSIの仕様は小さくなり実装が容易になったわけですが(前回のブログ「世界標準と日本語 1」(注*) 参照)、ユーザー目線から言うと、極めて魅力の無いものになってしまいました。

  

2. 長い作業時間
 
OSIの相互接続は、市場が予測していた以上に手間と時間がかかりました。
そもそも昔の通信プロトコルは、たとえ同じメーカー同士であっても接続に時間がかかる、つまり手間がかかるものが多かったのですが、異なるメーカー間の異機種接続となるとさらに ー 当時のソフトウェア品質が発展途上でまだまだ不十分な段階にあったことも絡んで ー 非常に困難が伴いました。
当時のネットワーク・エンジニアが、現代主流になっているインターネット(TCP/IP)プロトコルを初めてさわった時など、あまりに簡単に、あっと言う間に短時間で繋がってしまい、驚いてしまった、とか、むしろ、繋がって欲しくない所まで繋がってしまい切る方が大変だった、という感想が多かったのも、頷けます。
 
 
こうした訳で、当時、実験的なシステムはともかくとして、実際に稼働しているプロダクション・システムをわざわざOSIに移行しようという気にはとてもなれなかったことは、ご理解いただけたかと思います。
 
では、世界の潮流が、OSIを諦めて、一気にインターネット(TCP/IP)に向かったかと言うと、決してそうではありませんでした。
 インターネットの方はインターネットで、問題を抱えていたからです。
 また同時に、本ブログの主題である「世界標準と言語」という問題も明らかになってきました。
 
続く・・・
 

2021年9月30日木曜日

世界標準と日本語 その1

10分の1の法則(11) & グローバル化と英語(8) 合併号

Network
ネットワーク

 以前の投稿、10分の1の法則 その7でちょっと触れましたが、日本経済がバブルまっただ中の80年代後半、日本人がみんなイケイケだった頃のことですが(笑)、日本のIT産業で非常に大きな話題になった事柄に、ISDNとOSIがありました。

 

ISDN、ー NTTの商品名サービス名でいうとINS ー、の方は単に日本国内だけの騒ぎで終始しましたが、もう一方のOSI(Open Systems Interconnect)は日本だけではなく、非常に短い期間ではありましたが、世界的に大きな注目を浴びるブーム、一大エポックとなっていました。

 とは言え、 当時はまだソ連崩壊前でしたので世界と言っても西側世界と言った方がより正確ですが。

OSIが注目された理由

 80年代の東西冷戦下、西側諸国で急速に進められた通信の自由化に伴って、データ通信分野の急拡大が始まりましたが(この流れは、現代のインターネットの興隆に直接つながります)、肝心の通信プロトコルの方は、戦国時代さながらの状況で、例えば大型機の分野ではIBMのSNA、パソコン分野ではマイクロソフトのNetBIOSやアップル社のAppleTalk、NetwareのIPX・・・等々と言った感じで、各企業固有の(プロプライエタリな)プロトコルが群雄割拠しており、異機種間の互換性は皆無で、そのままでは全く繋がりませんでした。

そして、世界の大規模なネットワーク・ユーザーを中心に、異機種間の相互接続性を求める強い要求が、大海を揺るがすうねりとなって、世界中を荒れ狂っていました。

 その大波の中、異機種間を接続する共通のプロトコルの有力候補として、注目されたのがOSIでした。

理由として、

  • まず第一に挙げられる点は、何と言ってもOSIが新しい世界標準であったことでした。企業固有のプロプライエタリなものとは異なり、どの会社もまだ実装しておらず、企業に依存せず独立したプロトコルであって、有利不利なく平等な競争が期待できました。
  • また、プロトコルとしてのOSIは比較的に小規模で軽く(注*)、当時の非力なパソコンでも実装が容易であったことも、OSIが着目された重要なポイントでしょう。
そうして、OSIの標準化が進められ、その国際標準に基づく実装化が各企業で急ピッチに進められていました。
当時は日本も極めて意欲的、積極的に、世界標準化、実装化に参加しておりました。
ー 80年代は、日本の通信メーカーは世界の通信分野の先頭集団を形成していたと言っても良いほどでした。
確か1988年頃だと記憶していますが、こうして各企業が実装した機器を通信回線を経由して接続して、コンパチビリティ(互換性)を検証するイベント、相互接続性試験が行われました。
このイベントは海外企業勢も巻き込み、結果的にかなり大掛かりなものとなり、当時、筆者はOSIとは直接関係の無い部署にいたのですが、パートタイム的にエンジニアとして駆り出され、この検証プロジェクトに否応なく巻き込まれていました。
 

 接続試験の成功と市場の落胆

この相互接続性検証プロジェクトは、期間的に数ヶ月間続き、結果的にはすべての検査項目が検証され、接続試験は成功裏に終わりました。
ところが、そのOSIの動向を熱狂的に注視していた世界市場は、詳細が明らかになるにつれて、急激に冷えてゆきました。
あれだけOSIで盛り上がっていた日本市場も、あえてOSIを採用しようという企業は公的私的を含めて現れて来ませんでした。(当時は、公的機関ほどベンダー独立のプロトコルを採用したがっていると言われていました。)
 
市場は、OSIに失望、落胆したと言った方がより正確だったと思います。
 
続く・・・
 
 
 

 

2021年1月13日水曜日

謹賀新年 令和3年

 

 謹賀新年

令和3年 元旦 

 あけまして、

     おめでとう ございます。

 

昨年は、高齢の親戚が相次いで亡くなり、年賀状は欠礼しましたが、筆者が生存していることを友人知人に知らせる手段は年賀状くらいしかなく、年始にあたり、やむを得ずこのブログを更新して、まだ生息していることを知らせることにしました。

例にもれず、筆者も昨年はどこにも出かけておらず、唯一の旅行先は、昨年秋に行った信州の上高地だけでした。

上高地もすいており、例年は予約がなかなか取れない帝国ホテル も本年は簡単に予約できたことぐらいが、クロナ禍の中、不幸中の幸いと言うべきでしょうか。

昔、筆者が江戸のはずれに住んでいた頃は、しょっちゅう上高地に行っていたのですが、その頃は、上高地は山登りの出発点、終着点であり、泊まろうなんて言う大げさな振る舞い、大名登山 、狂気の沙汰は夢にも考えたことはなかったのですが、昨年は、大胆不敵にも連泊してしまいました。

人間、堕落すると、どこまでも落ちてしまうものです。

とは言え、帝国ホテルそのものは、なかなか良いホテルでした。