2013年9月9日月曜日

OCSMPモデルユーザー対策講座

- SysML - の資格試験であるOCSMPの受験コースを開催します。

OMG認定資格試験 OCSMPの入門レベルであるモデルユーザーの対策講座です。
従来は2日で行なっておりましたが、講義時間を1日に短縮し、問題演習をE-ラーニング形式で行なう形式で行なう事になりました。
  • 日時 次の2つのコースを現在予定しております。
    • 11月29日(金)  10:00〜17:00 もしくは
    • 11月30日(土)  10:00〜17:00 
次の2コースは定員到達につき募集終了
    • 10月28日(月) 10:00〜17:00  もしくは
    • 11月 2日(土) 10:00〜17:00
場所:東京神田地区

詳しい情報は、こちらまで(クリック)



2013年8月10日土曜日

SysMLの組織展開 その2

前回の続き

教訓1. SysML、モデリングの導入は投資活動であり、技術の問題ではなく、マネジメントの課題である。

開発コストは増大する

SysMLに限らずモデリング技術を導入すると、一般的に言って、初期の開発コストはむしろ上昇します。
そして、その代わりに開発の品質が上がる事が広く知られています。
特にドキュメントの品質が劇的に上がります。
従って、開発後の保守コストや、システムの改訂に要するコストが下がり、最終的なTCO(Total Cost of Ownership)が下がる傾向があります。
このような性質から、モデリングをベースにした開発には向く分野、向かない分野があり、品質を重要視するシステム、たとえばミッションクリティカル、あるいはセーフティクリティカルなシステムや、変更が多いシステム等が向くと言われています。
ライフタイムが長いシステムが向くと言われていますが、ライフタイムが長くても変更が殆ど発生しないシステムもありますから、一概には言えません。
 また、後述の理由から、複雑なシステムほどモデリング導入の効果は大きく、単純なシステムでは差が出ず割高となります。


2013年8月5日月曜日

SysMLの組織展開 その1

鎌倉アルプスから稲村ケ崎、相模湾を遠望す
先日、鎌倉アルプスへ登って来ました。
登ると言ってもせいぜい100メーターちょっとの山であり、筆者の自宅からも見える裏山みたいな近場ですので、いつでも行けると思ったままずっと行かなかったのですが、とうとう意を決して登って来ました。
低い山ですが、登ればそれなりに発見もあります(注:あくまでも、筆者にとっての発見です)。
一体に鎌倉周辺の山には古道の痕跡が多く見られますが、鎌倉アルプスも例外ではなく、道の痕跡が、地形や場所によっては石造物の残骸として残っています。
日本の山道は気候や植生のせいで、あまり歩かれなくなると途端に ーせいぜい数十年のうちにー 樹木や草に覆われて完全に歩けなくなってしまいます(つまり、道でなくなってしまいます)が、地形としては結構長く残っている場合があります。
一説には、鎌倉時代、いわゆる鎌倉七口以外に、大倉幕府方面からこの鎌倉アルプスを直登し、直接奥州へ向う街道があったのではないかと言われていますが、山路を歩いていると何と無くその説に説得力を感じます。
源頼朝の時代、奥州平泉の藤原氏を倒したのち、現在の二階堂の地に、戦死者の怨霊を鎮め冥福を祈るために、平泉の中尊寺を模した永福寺を建立したと言われていますが、頼朝の館である大蔵幕府から見て、永福寺は奥州と同じ方向、東北方向であり、先ほど述べた幻の奥州街道の入り口付近に位置します。

SysMLの組織内展開について その1


最近、社内にSysML、あるいはモデリング技術/文化を導入しなければならなくなった、という話をよく耳にするようになりました。
聞くとたいてい顧客や提携先(それらの多くは海外勢)の要求らしく、ワラをもつかむ思いでしょうか、筆者も意見を求められたりします。
筆者も、モデリング業界 - そんな名称の業界があったとすればですが - に無駄に長く滞在してきましたので、国内外の成功や失敗に伴なう悲喜劇に立ち会う機会があり、本日はそれらの中から日本企業が陥りやすい問題を教訓の形でまとめて、書いていきたいと思います。

教訓1. SysML、モデリングの導入は投資活動であり、技術の問題ではなく、マネジメントの課題である。

開発コストは増大する







2013年6月1日土曜日

OCEB講座 第29回 Why BPM? グループシンク

東慶寺
左の写真は、今から700年ほど前、元寇の時の執権であった北条時宗公の未亡人、覚山志道尼が開創した東慶寺の山門です。
この寺は江戸時代まではずっと尼寺であり、別名、縁切寺、駆け込み寺とも呼ばれ、数少ない女人救済の寺でした。

グループシンク(集団思考)


前回はノモンハン事件について書きました。
日本軍内部の精神論者は、現代の視点で見ると、かなり異常性を帯びているのですが、その絶対的な勢力は終戦まで揺るぎませんでした。
異常性の一例を挙げると、ノモンハン事件の際、兵の無意味な損耗を避けるために、部隊を撤退させた連隊長が何人かいたのですが、彼らはその撤退の判断を責められて自決させられています。
そして撤退を否定された以上、 日本兵は前に進むしかなくなり、敵が待ち構えている事がわかっている戦場へ突進し敵軍の格好の標的となって全滅する、と言うプロセスを繰り返すことになります。
ちなみに、なぜ全滅したかと言うと、日本兵は生きて捕虜となる事を恥辱と教え込まれていたので降伏せず死ぬまで戦ったからです。

ノモンハン事件が終わり、勝利したソ連軍の将軍はモスクワに戻った後、スターリンに対し日本軍について次のように報告しています。
 「日本軍の下士官は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である。」
この高級将校が無能と言う評価は、大東亜戦争を通して日本軍と戦った連合国軍側の将兵にある程度共通する認識ですが、残念ながら現代の日本人から見ても、否定はできません。
むしろ後世から見て、彼らの無能さは「滑稽なほど無能」と言う形容さえ似合うほどひどいものに映ります。
 その滑稽味は、彼らが信じていた根拠の無いーあるいは結果を生まないー思い込み(精神威力の効果などが代表的です)とともに、何度失敗しても事実を直視せず事実から学ぼうとしない頑な態度に大きく起因します。
 日本軍の高級将校たちはいわゆるグループシンク状態に陥っており、異論を受け付けず、異論を唱える者を徹底的に攻撃しました。
ちなみに、このグループシンクと言う言葉は比較的新しい単語ですが(OCEBにも出題される可能性があります)、概念そのものは日本にも古来からありました。
 戦国時代、日本の武士たちは、戦(いくさ)評定の際はいかなる発言も許され、撤退を含めどんな選択肢も、あるいは一見馬鹿げた可能性についても吟味し、事実に基づかない集団的な思い込みの状態(往々にして根拠の無い期待の状態)へ陥るリスクを回避しようとしました。

無能と評された日本の高級将校ですが、彼らは自分たちは決して無能だとは思っていなかったというのもグループシンクの特徴です。
以前紹介したインパール作戦の司令官は、作戦の失敗は自分の無能のせいではなく、部下が無能だったからだと言ってのけています。
現代を生きる我々にとって他山の石とすべき教訓です。

2013年5月25日土曜日

OCEB講座 第28回 Why BPM? ビジョンの問題


カフェテラス 入り口
源氏山の山道を歩いていると、コナラの木(?)の下に「カフェテラス」の看板を見つけました。
林の細道を降りて行くと、山の中腹の林間の斜面を利用したカフェテラスが現れました。
宮沢賢治の童話にでも出て来そうな樹間の空中庭園です。

目的の喪失と組織の影響


 筆者の友人にP君と言う東南アジア出身で日本の大学を卒業し、そのまま日本企業に就職しSEをしている人がいます。
浅黒い肌と黒い大きな目が彼の特徴で、その黒い瞳をキラキラさせながら、将来は母国に帰って自分の会社に建てると頑張っています。
そんなP君ですが、珍しく不満げな面持ちをして筆者に次のような話をしてくれました。
P君は日本と彼の母国の開発部隊との間のリエゾンSEの役目を担っているそうですが、故郷のプログラマー達から「P君の送って来る要件仕様は非常に正確できめ細かく助かっているが、なぜその仕様になるのか理由が解らないために、非常にフラストレーションがたまる。」と言われたそうです。
P君自身もそれは感じていた所だったので、自分の語学能力の問題だと思って日本人の同僚たちに要件がそうなる理由・背景を尋ねた所、驚いた事に同僚達は「そんなの知らない。顧客がそれを要求していると言うことで十分じゃないか。」と言われたそうです。
 P君は、「日本人は指示の理由や目的を上司や顧客に聞く事を悪い事と思っている〜 これじゃSEワークにならないじゃないか〜!」と不満を訴えています。


さて、日本人の名誉のために言うと、P君の指摘は一部間違っています。
日本人が目的に鈍感なのではなく、日本の大きな組織に入った人間が10年ぐらいの訓練を経た結果、完璧に鈍感になることができるようになるのです。
「君も頑張って10年ぐらい会社で働いていると完璧な鈍感になれるよ。」と言ってP君を励ましましたが、ひよっとしたら逆効果だったかもしれません。

この話を聞いて、むっとした組織人の方もいらっしゃると思います。
しかし、組織は個人の思考形式に驚くほど大きな影響を与えます。


ノモンハン事件

ノモンハン事件と言う戦いが大東亜戦争の数年前に満州の地でソ連軍相手に行なわれ、日本軍は大敗しました。
 陸軍の本部は前回にも触れたように明確な態度を欠き、その間、満州にいた関東軍が暴走したと言う構図ですが、本部、関東軍の両者に共通していたのは、ソ連軍に対する過小評価 ーあるいは軽侮、慢心と言った方が正確かもしれませんー でした。
陸軍本部側は、たいして意味のない作戦に大量の兵力を投入し無意味な消耗を強いる事への懸念を示したのに対し、現場の関東軍は統率上の必要性を唱え、勝敗よりもむしろソ連軍が撤退してしまう事を心配していました。
本部、関東軍とも勝利は疑わなかったわけですが、結果は膨大な戦死者を出して大敗に終わりました。
 戦いの経過は、その後の大東亜戦争の日本軍の戦いぶりを予感させるものでした。
直接の敗因は兵力・物量の差ですが、日本軍はソ連軍の兵力や物資の移送能力を過小評価し、自分たちと同程度だろうと十分な根拠も無く決めてかかり、ソ連軍がほぼ毎日偵察機を飛ばして関東軍の動勢を探っていたのに対し、関東軍は十分な偵察活動をしないばかりか、本部から寄せられる自軍にとって不利な状況にあるとの情報を無視し続け、自分たちに都合の良い情報のみに基づいた作戦を遂行した結果、ほとんどの部隊が敵に撃破され、撤退の判断をためらいずるずると遅延した結果、壊滅の状態で戦いは終わりました。

学習しない組織

日本側はノモンハン事件終了後、作戦失敗の研究を行いましたが、その報告書はたいへん興味深いものがあります。
日本軍の研究班は兵力・物量の格差を認めています ー いわく、砲兵力不足、架橋能力不足、後方補給能力不足、通信能力不足。
そして兵力以外の要因として、敵戦力の過小評価や軽侮に加え特定の師団に対する任務過重を問題視しています。
興味深い点は、今後日本軍の取るべき道筋として、火力戦闘能力の飛躍的な向上とともに、物的戦力の優勢な敵に対しては日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきだ、としている点です。
林の中のカフェ
歴史的に言うと、昔の戦争はむしろハングリービジネスであり、貧しい方が結構(精神力で?)勝っていましたが、20世紀以降、特に第一次大戦以降は完全に物量戦の時代に変わってきました。
しかしながら、日本軍首脳部は大東亜戦争を大敗北で終結するまでその変化を認めませんでした。
日本軍はノモンハン事件以降、何度も物量の差で負けて学習するチャンスが度々あったのですが、面白い事に、物量の差で負ければ負けるほど、むしろ内部では精神論者の方が優勢になって行きました。








2013年5月14日火曜日

OCEB講座 第27回 Why BPM? ビジョンの問題

浄智寺 山門
源氏山への登り口はたくさんありますが、北鎌倉側からですと浄智寺が一般的です。

 浄智寺は北条氏が建立した鎌倉五山第四位の禅寺です。

皆さんご存知の通り、北条氏は鎌倉時代には事実上の日本の支配者でしたが、他の時代の支配者と比べ華美に走らず、鎌倉中にいくつも禅寺を建て、どの寺も質素剛健の印象が強く、一言で言うと風変わりな支配者でした。


ビジョンの問題 ー 目的の喪失


「失敗の研究」は、様々な日本の組織的問題を揚げていますが、このブログでは、指摘された問題を、出版後30年経った現代の視点で未だに大きく残る問題(その多くは、筆者の視点では、当時より、さらに悪化しています)をピックアップして議論して行きたいと思います。
そして最後に最大の謎(もっとも筆者にとっての謎ですが)、なぜ日本では組織的問題が増大し続けるのか?についても議論したいと思います。 

あいまいな戦略目的と作戦目的との不一致

大東亜戦争での日本軍の中枢部から示される戦略目的は極めてあいまいで発散的であり、極端な場合は両論併記ーいわゆる玉虫色であり、後付け的な対応と追認的な態度とが相まって、この時点で既に敗北を運命付けられていた観があります。
また戦略目的が不明瞭ですので、現場の解釈はさらに発散し、作戦目的はバラバラになり中途半端なものになって行きます。
そしてついには組織から目的が失われ、何のための作戦か解らないものが作られ実行に移されて行きました。
インパール作戦はその典型例の1つであり、莫大な犠牲(参加人員10万人中戦死者3万人、戦傷戦病で後送された者2万人、残りの5万人のうち約半数は病人であったと言う)を払って惨憺たる失敗に終わり、作戦が中止された時には、確保していたビルマの防衛も失ってしまいました。
なお、この作戦に参加した3個師団の師団長全員が作戦途上で解任・更迭されると言う異常事態を生みました。
この作戦など仮に成功していたとしても大勢に影響は無く(端的に言えば、日本軍の最大の敵である米軍にとっては痛くも痒くもない戦略上の要地でもない失地)、司令官の点数稼ぎのための作戦だったと言われています。
ちなみにこの司令官は、当時の日本軍の基準でも無能の極みでしたが、上層部のおぼえがめでたかったのか、責任を問われる事もなく、その後も陸軍に居続けました。

2013年5月11日土曜日

OCEB講座 第26回 Why BPM? ビジョンの問題

源氏山公園
「♬源氏山から北鎌倉へ〜 あの日と同じ道程で〜 たどりついたのは縁切寺〜♪」と、鎌倉のテーマソング「縁切寺」を口ずさみながら、佳日、源氏山を歩いてきました。
「♪今日の鎌倉は人影少なく、思い出にひたるには十分過ぎて♫」、と言う歌詞の通り、連休中ですが、朝のうちは行き交う人もまばらです。

日本軍の組織的問題

前回話題に揚げた「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」と言う本ですが、お読みになっていない方もおられると思いますので簡単に紹介したいと思います。

この書物では、「大東亜戦争で日本軍はなぜ負けたか?」と言う疑問には、日米の国力の差があまりにも大きい現実的問題に打ち当たり、「そもそも日本はなぜ無謀にも大東亜戦争に突入してしまったのか?」と言う疑問に転化してしまうが、この書では、あえてその問題には触れず、日本軍の諸作戦の失敗を、組織としての日本軍の失敗ととらえ直し、現代日本の組織の教訓、反面教師として活用する事が狙いである、としています。

 戦争は錯誤と偶然の連鎖であり、個々の作戦では不思議の勝ちがあったり意外な負けがあったりする不確実性の集合体ですが、より大局的には要諦となるべき戦略的な要因が戦争の行く末、大勢に大きく影響する事が古くから知られています。孫子の兵法などは、戦略論の嚆矢でしょう。

日本軍の諸作戦の組織的問題ですが、少数の成功例を除き、大東亜戦争では惨憺たる状況でした。これは、彼我の戦力、物量の差の問題ではなく、例えば、決定に要する時間が極めて長くかかり、ある戦場では撤退を決めるまでに数ヶ月間を空費し、その間に大部分の兵士が餓死してしまった、とか、いつも攻撃のパターンが決まっており、敵に完全に読まれているにもかかわらず同じ攻撃パターンを何度も繰り返し大敗している(あるいは、外目には、敵に読まれている事すら気づいてないかのような行動パターンをとり、敵軍に気味悪ささえ感じさせている)、と言った問題など、現代の日本の官僚主義の蔓延した組織にも共通してみられる現象です。
また、これらの失敗は、けっして敵軍との戦力差が大きい局面に限った話ではなく、日本軍の方が戦力的、物量的にかなり優位に立っていた戦場でも見られ、外部要因ではなく、明らかに日本軍の内部的問題です。