2022年6月19日日曜日

世界標準と日本語 その8 


神戸の中で、最も神戸らしいと言われる場所にある茶店(カフェ)へ、絵を描きに行ってきました。
 
 ここメリケン波止場は、明治期には神戸港を代表する、さらに言えば日本を代表する波止場の一つとなり、多くの外国航路の船が行き来し、夏目漱石など海外への留学生や、移民、ビジネスマン、芸術家など、多くの洋行する人々の出発点、帰着点となりました。
 
メリケン波止場が最も賑わったのは、日本の高度成長期で、多くの貨物船が、屑鉄や鉄鉱石などの原材料を輸入し、製品を輸出して行きました(いわゆる加工貿易)。また、当時は国内輸送においても船便はよく使われ、鉄道輸送と並んで、日本経済の大動脈を形成していました。
上に写っている公園は、埋め立てられる前は海であり、数あまたの艀(はしけ)の船泊まりとなっていました。
貨物船が入港すると数えきれないほどの数の艀がタグボートに引かれて船に運ばれ、多くの沖仲仕たちが24時間交代で何日もかかってすべて人手で荷役を行っていました。
近くにある造船所(川崎造船や三菱造船。今は共に造船から重工に社名が変わっています。)も、荷役同様24時間操業を続け、大音響を港中に轟かせながら夜通し煌々とまぶしい灯りを海の上に放っていました。
そして、高度成長期の末には、日本は世界有数の(確か世界一の)鉄鋼の生産国、造船国になっていました。
 
忙しすぎて陸に上がって食事をするヒマもない港湾労働者たちに食事(弁当)を売る船や、また艀の片隅に残った積荷の残骸を買い取る古物商の船も行き来し、この辺りは24時間、人や荷物、そして大小の船でごったかえしていました。 
また艀には、多くの水上生活者の方も暮らしており、動力源がなく電気もガスも水道もない当時の艀の船上の生活の話をうかがうと、現代では考えられない異次元的、別世界の感があります。
そういったご苦労が現在の日本の礎(いしずえ)を作り上げたと感じます。
参考:かどもとみのる著「メリケン波止場」
カフェには平日に行ったので、店の中は修学旅行中らしい港湾史好きな(?)女子高校生たちがパラパラといる程度に空いていて、じっくりと大作を仕上げることができました。
 

自然言語の限界

 

OSIの実証実験に現れた「自然言語の限界」を、をコミュニケーション理論でよく登場する「送信者・受信者モデル」を使って図示したものが下の図です。

絵心がまったく無いため、フリー素材を使いながらメリケン波止場のカフェで格闘の末、完成しました。

フリー素材の作者の方々感謝いたします。

 

送信者・受信者モデル

 

図は、送信者はアプリケーションの仕様を自然言語へコーディングし、受信者は自然言語をデコーディングしてアプリケーションを開発している状況を示しています。

上図では、送信者側の「子犬」が受信者では「大怪獣ゴジラ」に変形していますが、情報の変形が起こる原因の大半は自然言語へのコーディングと自然言語からのデコーディング作業に問題にあり、逆にメディア(媒体)上のノイズの影響はほとんどありませんでした。

21世紀のテクノロジーの観点から見ると、この種の問題は、使用した言語、自然言語の実用限界そのものの問題に映ります。



2022年6月4日土曜日

世界標準と日本語 その7  日本語だけの問題ではなかった


OSIの世界標準をめぐり日本語訳や日本人の英文解釈が疑われたのですが、その疑惑はあっさり解かれました。

世界標準の解釈をめぐり揉めていたのは日本だけでなく海外でも揉めていたのです。

 おおむね日本語で解釈が揉めてる事柄は、英語の母語話者であっても、解釈が分かれる、あるいはどちらの解釈が正しいと言うことはできない、と言うレベルの解釈問題でした。

 世界中で解釈問題が発生し、結局のところ、実証実験を先に進めるために、エンジニア達は共通解釈を話し合って決め、世界標準を書き換え、更新を行なって、少なくとも実証実験を行った組み合わせのコンピュータ・システムは繋がるようになりました。

しかしながら 、OSIに対する熱は一気に冷めてしまいました。

実証実験の参加者達は、このOSIの方法論、つまり、世界標準を決めて、それを基に各社がシステムを実装し、コンピュータのインターオペラビリティ(相互接続性・運用性)を図ると言うアプローチそのものの実用性に疑問を呈し始めました。

世界標準を基に、自分のシステムのデバッグをしようとしても、そもそも標準や自分の解釈が正しいかわからない、あるいは実務者が議論して実証実験しなければ標準が決められない、さらには、実証実験した相手とは繋がっていても将来現れる接続相手とは繋がる保証がない(下図参照)と言うのは、果たして標準と呼んで良いのか?

少なくともユーザーやメーカー、あるいはエンジニア達が期待した世界標準ではない、と言う不満が溢れてきました。

と言うようなわけで、OSI熱は一気に冷めてしまったのですが、今振り返ってみると、当時とは異なる別の見方ができます。

21世紀の現在のテクノロジーから見れば、当時の問題は、日本語の問題でも英語の問題でもなく、自然言語の(実用)限界の壁にぶち当たったと言う問題なのです。

自然言語の(実用)限界

古来、自然言語は、様々な文学者や哲学者達によって変更や新しい概念の追加が試みられ、時の流れとともに言語空間が拡張されてきましたが、OSIの場合と比較できる例として、アイザック・ニュートンを取り上げたいと思います。

ニュートン自身も、そして当時の社会も、ニュートンその人自体は科学者ではなく哲学者と見做しており、近代科学はむしろニュートンが創成し、ニュートン以降、科学者と言う職業や、科学業界が誕生したたと言っても良いほとの時代のターニング・ポイントを作った人物です。

ニュートンは高校の古典力学の授業で必ず出てくる人物で、ライプニッツとともに微積分学を創始した人物ですのが、ニュートン記法と言う微分の表記法も作っております。

この表記法を発明したおかげで古典力学の正確な表現が可能になった訳であり、微分記号なしに、自然言語だけで表現しようとすると、古典力学は、とても、正確な議論をするなんて言うことは不可能です。

注: 微積分の表記は、現在では古典力学だけでなく、現代物理学でも必須であり、生物学から心理学、統計学、経済学の全般まで幅広く利用されており、およそ自然科学、社会科学を問わずサイエンスと名の付く科学分野では微積分の概念を使わない方が珍しい状況になっています。
OSIの場合も、古典力学に微分記号が果たした役割と同じような新しい言語が必要だったのです。

しかしながら、新しい表記法が登場し明確に定義されたのは、実証実験からおよそ20年ほど経ち、21世紀になってからのことでした。


2022年5月27日金曜日

世界標準と日本語 その6  日本語の問題か?


前回(世界標準と日本語 その5) のブログで、OSIの世界標準の解釈に各メーカー間で食い違いが発生した際、まず第一に日本語訳やその解釈が疑われたことを述べました。

これは当時の日本人技術者たちが英文解釈に絶対の自信を持っていなかったこともありますが(笑)、もう一つ別の理由がありました。

実はOSIの相互接続性実証実験を遡る数年前に日本でX.25パケット通信サービスが始まったのですが、その時にも、英文解釈に関連にする問題が発生していたのです。

X.25パケット通信は、低速(9.6kbps〜48kbps程度)のパケット通信であり、OSIと同じくCCITT(ISOの前身)が定めた通信プロトコルを指し、OSI参照モデルの第3層、ネットワーク・レイヤーに相当し、相互接続性実証実験でもそのプロトコルが使われていました。

日本でX.25パケット通信サービスが始まった時には、内外の通信機器(コンピュータ)メーカー達は、当然のことながら世界標準X.25に則り通信機械を製造し販売を開始していましたが、日本メーカーの機器だけが、当時、まだ民営化前だった電電公社(今のNTTの前身)の公衆パケット網に繋がり、外国製機器が全く繋がらないと言う問題が発生していました。

そして、この通信障害を解決するために様々な検証や実験が行われた末に解ったことは、この通信障害、インシデントの原因は、国際標準の日本語への誤訳にあったことでした。

日本語訳を誤り、その誤訳された接続標準を基に通信システムを設計した日本のメーカー同士や電電公社の間は繋がりましたが、海外製の機器とは全く繋がらなくなってしまったのです。

しかしながら、前回の公衆パケット網の障害と、今回のOSIの接続性実証実験の障害とでは、症状の出方はかなり異なっていました。

OSIの相互接続性実証実験では、単純に国産機同士が繋がると言う訳ではなく、外国製と国産機が繋がる場合もあるし、国産機同士であっても繋がらないと言う事態や、AとB、AとCは繋がるがBとCは繋がらないがと言う問題がメーカの母国語を跨いで混在し、極めて不思議な、謎めいた状態を示していました。

 

2022年5月24日火曜日

日本の経済モデル ビジョンの失敗

 

久しぶりに鎌倉の友人から電話があり、積もる話、四方山話の中で、日本の経済モデルに関する筆者の意見を聞かれました。

元より筆者は経済の専門家でも何でもなく、また、このプロマネBlogにそんな経済分野の話題が求められているとは思わなかったのですが、ビジネス・パースペクティブ、特に戦略論の観点から、私見を書いてみたいと思います。

 成長戦略の失敗

以前、〜確か数年前〜、世間で大きく話題になったものに「成長戦略」なる言葉がありました。皆様の中にも憶えておられる方も多いと思います。日本は、明治中盤以降、軍事や経済分野でも戦略的な動きが全く無くなってしまっており、筆者もたいへん注目しており期待を持って見守っておりました。

(注:明治中盤以降から昭和、平成にかけて、戦略という言葉自体は広く蔓延していましたが、そのアプローチは科学的ではなく、むしろ神秘主義的、宗教的な様相を呈しており、まるで「お題目」的な扱いでした。)

しかしながら、日本社会の熱気と大きな期待とは裏腹に、あっという間に失敗と幻滅、失望へと変わってしまいました。失敗と一口に言っても、世の中の失敗の中には、悪いことばかりでなく良い失敗も沢山あるのですが、この成長戦略の失敗は、かなり悪性度の高い失敗でした。経済成長の種をほとんど残さず、むしろ大金をかけて悪化のスピードを加速させ、社会を成長がより難しい体質に変える結果となってしまいました。

 戦略の失敗は、当然、トップの指導者の無能を意味しますが、この成長戦略の失敗や、同時に行われた他の関連する経済施作などは、はからずもトップだけではなく、トップを支えるブレーンたちや、官僚機構の(少なくとも上層部の)無能も明らかにしてしまいました。

ビジネス・パースペクティブから見た現在の日本経済

 1990年代から現在に続く日本経済の停滞状況〜いわゆる「失われた20年とか30年」〜は、通常の季節的な景気循環に見られる金利の上下動や投資の波では説明がつかない症状を示している事は論を俟ちません。

筆者は現在の日本の経済状況は、歴史的に見て一つの王朝・国家の繁栄・衰亡を決定しうる重大な局面を呈していると考えます。

話をより具体的にするために、歴史的に類似する例を挙げて、比較して見たいと思います。

現在の日本の経済の症状に最もよく似た例を歴史上から探すとすると、1970年代から80年代にかけてのアメリカ経済の衰退が挙げられます。

 第二次世界大戦後のアメリカは、戦争の被害も少ないこともあり、その工業力は目覚ましい発展を遂げ、世界最大の工業国、世界の工場として君臨し、その経済力には飛ぶ鳥を落とす勢いがありました。ところが、70年代に入ると、その勢いも急激に鈍化してゆきました。工業力、特に重工業分野での国際競争力を失い、工場は閉鎖され、大口の雇用先が次々と無くなってゆきました。多くのアメリカの製造業はアメリカ国内への投資をやめ、海外投資に向かいました。

当時、アメリカの新しい産業分野である、コンピュータ産業、情報産業は絶好調と言って良いほどの好業績で高い成長率を維持していましたが、アメリカの工業力の衰退を埋め合わせて引き上げるだけの力はありませんでした。

失業問題や都市の犯罪事件の増加、景気後退と高インフレの同時進行という大不況の中にアメリカは喘いでいました。このアメリカ経済の急激な減退は、その工業分野の国際競争力の急速な失墜によるものでした。

もう一つ似た例を挙げるとすると、19世紀末から20世紀初頭にかけてのイギリス経済の失墜が挙げられます。ご存知の通り、イギリスは世界最初の工業国になった国家で、19世紀はパックス・ブリタニカと呼ばれたイギリスの時代となり、世界最大の工業国として君臨していました。ところが、20世紀に入ると、2度の世界大戦の敗者であるドイツに工業分野の国際競争力で2度も負けてしまいました。

詳しくは、本ブログのOCEB講座:戦略とビジョンの中のビジョンの失敗:イギリスの場合を御参照ください。
20世紀後半、アメリカが工業分野の国際競争力で敗れた相手は、世界大戦の敗戦国、日本と西ドイツでした。日本は、アメリカに対し、低コスト、高品質を武器に輸出を増やし1980年代には、アメリカにとって最大の工業製品の輸入相手となり、貿易赤字と財政赤字のいわゆる「双子の赤字」と「スタグフレーション」は、停滞期(70年代〜80年代)のアメリカ経済を象徴する言葉となってしまいました。

 一国の経済環境の国際競争力失われた場合、その分野への新規の投資が先細りしてゆき、競争相手である国際競争力の勝った国へ資本が流れていく事は19世紀であろうが21世紀の現在であろうが変わりません。むしろ流出速度は相対的に上がっています。

日本の国際競争力が負けた相手は、80年代に日本に遅れて急成長してきた東南アジア、そして中国でした。 東南アジアと中国の強みは個々異なりますが、大きく言って、低価格と大市場へのアクセス(大陸中国)の2点と言って良いと思います。

ビジョンの失敗

自国の国際競争力の失墜に対し、アメリカ政府とイギリス政府の対応は対照的でした。

アメリカ政府は自国の製造業を強化する為のあらゆる方策(品質改善運動など)を尽くし、海外企業(特に製造業)を国内に呼び込むために海外資本が投資しやすい環境を整備し、また新規産業の育成を図りました。

それに対しイギリス政府は国際競争力を取り戻すための政策をほとんど行いませんでした。

そして日本政府の対応は当時のイギリス政府の対応に酷似しています。

「イギリス政府は、既得権益の保持に終始し、新分野(当時の新分野は重化学工業)、自然科学の基礎研究分野への投資が疎かになってしまった事が大きな失敗であった」、つまりピーター・ドラッカー氏の言う所のビジョンの失敗を、日本政府も犯し続けています。

 (続く)


 

 

 

 

2022年5月13日金曜日

世界標準と日本語 その5

OSIの接続試験に時間が掛かったのは、大きく分けて2つの要因によるものでした。

1つ目は、参加企業の技術力や対応能力の違いでした。A社とB社の接続で問題が発見された場合、OSI標準に則り原因が究明され、一方もしくは両方の開発部門により修正が加えられて再テストすることになりますが、その対応スピードに差がありました。

しかしながら、この対応速度の差は事前に予想されており適当なスケジュール・バッファーが取られており、結果的にはほとんど問題にはなりませんでした。繋がらない原因が判明すれば、原因側の企業はさっさと、ー 時間が掛かっても、せいぜい2、3日以内に ー 修正して来ますし、接続機器がパソコンなんかだと、その場でテスト機に直接修正を加えコンパイルして完了、と言った感じで、その修正の速さに、メインフレーム側のエンジニアを驚かせていました。

注) メインフレームなどの大型機は、テスト機が接続試験会場に持ち込まれることはなく、遠隔地にあるメインフレームに繋がった通信回線のもう一方の他端が試験会場に来ているだけなので即時の対応が難しく、それに対し、パソコンなどの小型機は会場に直接持ち込まれるケースもありました。

 接続試験に時間が掛かった2つ目の要因 ー 実はこちらが本質的な問題でした ーは、不具合の原因がわからないと言う問題でした。

不具合が発生すると、当然、OSI標準に則って、標準通りに動作しているか調査され、どちらが間違った動作をしているか? あるいは、両者とも間違っているか?と言ったことが調べられるのですが、当事者以外の専門家が見てもどちらが間違っているか判断が付かないケースがしばしば発生しました。

また問題は、2社間の接続だけでなく、3社間以上の組み合わせで発生するような問題も起こりました。

どう言うことかと言うと、例えば、「A社とB社の接続では何の問題もなく、A社とC社の接続も滞りなく繋がる、ところがB社とC社で繋ごうとすると問題が発生して繋がらない。」と言うような問題がしばしば起こりました。(下図参照)


そして、A、B、Cの三社とも、自分は標準通り作り、I標準通り動作していると信じています。
すなわち、各社の標準の解釈が異なっており、どの解釈が正しいか、標準を見ただけでは、第三者の立場に立つ専門家にも判断がつかないと言う事態に陥ってしまっていました。

また、この問題には、非常に興味深い特徴がありました。

OSIのアーキテクチャーは、他の大部分の通信プロトコルと同様に階層型アーキテクチャーを採用しています。(下記のOSIの階層図を参照)  

OSIの階層
図を簡単に説明すると、一番上のアプリケーション層がアプリーケーション(ソフトウェア)そのものであり、下位の層が一つ上の層に対しサービスを提供する形で階層を構成しており、最下層の物理層が電線や光ファイバーなどの通信回線となります。
コミュニケーション理論で言うと、下位層はメディア(媒体)を管理し、上位は意味を扱うレイヤーになります。
 
そして、上記の問題は、面白いことに、下位のレイヤーでは殆ど起こらず、大部分が上位層で発生していました(特に、アプリケーション層を中心に上位の層に集中する傾向)。
上位の層は、アプリケーション自体やアプリケーションに近い、つまり人間側に近い内容を扱っていたのに対し、下位は、電気信号などの物理的な内容、一言でいうとメディア(媒体)固有の問題や、ネットワーク・アドレスなどの基本的な論理的内容を扱っていました。

1980年代、 OSIは、当時フランスに本部があった国際電気連合の標準化部門、旧CCITTで、標準化が進められており、フランス語を始めとするいくつかの国際言語(国連のそれと大体同じ)で記述されていましたが、実際問題として世界のIT企業の大勢は、英語版をもとに実装化を図っていました。そして、多くの日本企業も、英語版や英語版からの和訳版を使っていました。

そして、まず第一に疑われたのは、標準の誤訳や、英文解釈の間違いでした。

2022年4月17日日曜日

世界標準と日本語 その4

 OSIに対する失望の原因としてOSIの仕様(スペック)そのものが魅力的でなかった事を述べましたが、もう一つの要因としてOSIの接続設定に非常に手間がかかったことが挙げられます。
 むしろ、後者の接続に手間が掛かることこそが、圧倒的に重要な問題でした。
姫路城の桜
姫路城の桜

OSIの仕様が魅力的でないと言うのは、当時の一般人、マスコミの評価であって、システム関係者や専門家にとっては、仮にそう言ったことが問題であったとすれば、わざわざ時間をかけて標準の実装を行い接続試験をするまでもなく、仕様そのもの策定段階で既に解っている事であり、接続実験後に改めて騒ぐ事はありません。
システムの専門家にとっては、標準化というのは、決して新しいアプリや機能を生み出すものではない事は、当たり前のことであり、十分承知していました。
システムの専門家のOSIに対する最大の期待は新たな機能やアプリの登場ではなく、接続の容易性の向上そのものにありました。
それを説明するためには、OSI誕生以前の異機種間のシステム接続に関する状況に触れた方が良いでしょう。 

OSI誕生以前の状況

OSI誕生以前にも異機種間のネットワーク接続はありましたが、大変に手間と時間がかかるものでした。
あるユーザー企業が、例えばA社製とB社製の2種類のコンピュータを持っており、仮にA社製のプロトコルで両機を繋ぐと決定したとします。
そうすると、ユーザー企業はA社側に接続仕様を提出させて、それを元にB社側にインタフェースを実装させることになります。
そして、実装が終了すると、接続テストは、ユーザー企業のコンピュータ環境で、ユーザー企業のアプリケーションを使って行います。
こう言った作業だけでもユーザー企業にとっては手間の掛ることでしたが、
接続が上手く行った後も問題は続きます。
例えば、ソフトウェアのリリースアップやハードウェアのコンフィグ変更のタイミングで、あるいは、極端な例では、ある日突然、何のシステム変更もしたつもりはないのに障害が発生し始めるするなんて言うことがにありました。
そう言った場合、A社側は接続仕様に変更が無いこと、さらにA社側の後方互換性(バックワード・コンパチブル)の確認(例えば、A社製の既存の機器と、新しいリリース・レベルが接続して問題が無いか等の確認)を行い、B社側でも、仮に直接繋がっている機械に変更がなくても他の間接的に繋がっている後方システムに変更が無いかを調べます。
システムに何の変更も加えてないのに、ある日突然、障害が出始めると言うパターンは、往々にして、ユーザー側での使い方の変化や、ユーザー・データーの構成フローの変化が原因だったりするのですが、システム関係者はその変化を知らず、トレースをとって見て初めて発見されると言うケースがままありました。

このような作業をユーザー企業が中心となって行わなければならない訳で、極めてユーザー企業の負担が大きく、またメーカー側の負担も相当なものでした。

そして、OSIの登場以降は、ユーザーは単に「異機種間の接続はOSI仕様で」と指定すれば良いだけであり、メーカー側の余計な負担も無くなるはずでした。


2021年11月2日火曜日

世界標準と日本語 その3

 10分の1の法則(13) & グローバル化と英語(10) 合併号 

 

本ブログで取り上げたいテーマ「世界標準と言語」の話をする前に、ちょっとだけインターネットの歴史を見てみましょう。
 

インターネット・プロトコル(TCP/IP)台頭の前夜

OSIの熱が冷めた後、市場は一挙にインターネットへと行ったかと言うと、そうはなりませんでした。

インターネット・プロトコル自体も、OSIと並んで有力な共通プロトコルの候補でしたが、大きな問題を抱えていました。

 

 インターネット・プロトコルのルーツ 

インターネット・プロトコルのルーツは冷戦にありました。

冷戦には様々な定義がありますが、冷戦時代の最大の問題, あるいは冷戦の象徴といえば、何と言っても、核戦争の危機が揚げられます。

安全保障は当然として、多くの国際間の問題も、この核戦争危機を中心に回っていました。

これは通信の世界も例外ではなく、インターネット・プロトコルの誕生にも冷戦が大きく関わっています。

すなわち、軍は核戦争を前提とした技術、すなわち核攻撃にも耐えられるネットワーク を必要としていました。

つまり、核攻撃で回線や施設が破壊されても、生き残った回線経路(ルート)を探し、複数の経路が残っている場合にはその中で最適なルートを決定し再接続する作業を自動的に行なえる通信プロトコルが要求され、そして生まれたのがインターネット・プロトコル(の前身)でした。(下図参照)

(図)回線切断と経路の自動設定


たいへん便利な通信プロトコルであり、中継ノード(図中の通信制御装置)自体に経路(ルート)を探査し、最新の情報を互いに交換し合って共有する機能が備わっており、回線や中継ノードの破壊や能力低下に備えて常に最適な経路を維持管理する機能を持っています。

中継ノード、通信制御装置が、こう言った機能、役割を持つことから、ルーターと呼ばれるようになったのは、皆さんご存知のことだと思います。

ではこの便利なインターネット・プロトコルで、いったい何が問題だったかというと、その経済性の低さでした。

常に最適な経路を維持管理すると言うことは、逆に言うと、常にネットワーク全体の経路情報を各ノード間で交換し合って常に最新の情報を共有しなければならないことを意味します。

また、全ての経路を常に最速のルートで結ぶと言うのは、ネットワーク全体の資源効率を悪化させることがあります。(必ずしも全ての経路が、最速である必要はないことに注意。現代インターネット技術のポリシー・ルーティング参照)

当時は、通信コストが非常に高額だったため、基幹経路を除けば、ほとんどの通信路は電話回線であり、モデムの処理速度はたかだか14,4kbps〜19.2Kbps程度でした。 

そう言う細い(低速の)通信回線の中に、ユーザー・データだけでなく大量のネットワーク管理情報が流れるわけであり、プロトコル・アナライザーなどで測定してみると、コントロール・データ(管理用データ)の比率が50%を超えてしまう事も珍しくありませんでした。

と言うわけで、WAN分野では、軍用や研究用を除き、商業分野では、インターネット・プロトコルなどの動的ルーティングを使うことは稀で、大部分は静的ルーティングを採用し、経路情報やパフォーマンス・チューニング用パラメータを事前に設定するプロトコルを使っていました。

そして、OSIの次に来たのは、プロトコルを共通させるのではなく、マルチ・プロトコル、すなわち、複数種類のプロトコルをまとめて一本の物理回線を共有させて運ぶテクノロジーの時代でした。

ネットワーク・ベンチャーの時代

OSI以前からネットワーク・ベンチャーは存在していましたが、主にLAN分野で活躍していました。
しかし、群雄割拠するプロプライアタリなプロトコル群を、一本の物理回線にまとめて運ぶマルチ・プロトコル・ルーターの登場とともに、データ通信分野の主役は、従来のメインフレーム・メーカーからネットワーク・ベンチャーへと、あっと言う間に様変わりしました。

この当時、1990年前後の代表的なプロトコルは、データ量的には、1. パソコン系プロトコル(マイクロソフトやアップルなど), 2.インターネット系(UNIX系)の順で、メインフレーム系のプロトコルは極めて少数派になっていました。

1990年は、IBMが当時アメリカ史上最大の赤字を計上した年でしたが(注; 後に、その最大赤字の記録は破られます)、メインフレーム系のプロトコルは重要度はまだまだ高かったのですが、データ量的には新興勢力に圧倒され始めていました。